本文へ移動
Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · 英国

旅立たぬ女の行方

レスター・フィールズの一角にて、セオドア・ガルデルは家主のキング夫人がバースあるいはブリストルへ旅立ったと告げた。だが、水樽に沈められたシーツ、灰となった骨、屋根裏に残された無残な骸が、その虚妄を暴き立てる。本編はボロウの筆録に基づき、自白からオールド・ベイリーでの公判、そして一七六一年の処刑に至る顚末を辿る歴史法廷記録である。

一七六一年二月十九日の朝、キング夫人のもとで働く女中が居間の扉を開け、暖炉に火を熾すよう言いつかった。女中は次いでセオドア・ガルデルの部屋へ上がり、ヘイマーケット宛ての手紙二通と、嗅ぎ煙草を買い求めるための崩し銭にとギニー金貨一枚を手渡された。ところが、留守居を預かる者がいなくなるからと、女中は主人であるキング夫人から外出を制止される。ガルデルはやむなく自ら居間へと降りていった。レスター・フィールズのこの屋敷において、日常の雑務と血生臭い凶行とを分かったのは、ほんの数分の空白にすぎなかった。

ガルデルはジュネーヴの生まれであった。かの地の大学に学び、パリで細密画の技法を修めたのち故郷へ戻り、身を固めた男である。しかし結婚生活に満たされず、やがてロンドンへ渡り、キング夫人の屋敷に室を借りて暮らすようになった。ボロウの引く自白録によれば、その朝、階下に足音を聞きつけたキング夫人が、そこにいるのは誰かと声をかけてきたという。

凶行に及んだ当人の弁によれば、夫人は険のある言葉を投げかけてきた。ガルデルが無礼を咎めると、夫人はその左脇腹を打ち据え、男は思わず突き飛ばした。後ずさった夫人は絨毯に足を取られて転倒し、ベッドの角柱に頭部を激しく打ちつけた。ガルデルはとっさに身をかがめ、抱き起こして口元から溢れる血を止めようとしたという。しかし夫人は法に訴えて罪に問うてやると口走った。激昂したガルデルは、柄の鋭利な象牙の櫛をひっつかみ、騒ぎ立てるなら容赦せぬと脅しにかかった。

だが、女は罵りをやめなかった。自白録においてガルデルは、逆上するあまり象牙の柄をその喉元へ深々と突き立て、息の根を止めたと述べている。亡骸に毛布をかぶせた途端、恐怖が押し寄せ、男はその場に卒倒した。意識を取り戻したときには、煙草を買い終えた女中がすでに戻っていた。女中が幾度か女主人を呼んだものの、返答はない。朝餉を済ませた女中は、いつも通りガルデルの部屋の掃除と片づけに取りかかった。屋根裏から降りてきた男は、朝とは異なる衣服をまとい、その顔には隠しようもない動揺が浮かんでいた。

サフォーク街への使いを言いつけられた女中が戻ると、男は取り繕うように言い訳を口にした。キング夫人はある紳士と馬車で出かけたのだ、と。女中は端からその話を信じなかった。女主人が身支度を整える時間などなかったはずであり、留守をいいことに二人が密会でもしているのだろうと勘繰ったのである。午後三時頃、ガルデルは再び女中を言いつけ、サフォーク街へ別の書状を届けさせた。その後の数時間、男は絶えず家中を巡り、階段をせわしなく上り下りした。女中が留守にしている隙に、犯行の発覚を恐れた男は、この奉公人を暇に出してしまおうと決意していた。

しかし、雇い止めひとつ取っても男には厄介な難事であった。女中は文字が読めず、ガルデル自身も受取証を認めるほど英語を解さなかった。男はブロケットなる知人に代筆を頼み込んだ。知人が女中に、ガルデルに解雇の権限があるのかと尋ねると、女中は存じませんと答えた。ブロケットは、ガルデルが夫人からその旨を任されており、当座をしのいだのち夫人が別の者を雇い入れる手筈になっていると聞かされたのだ、と説いた。女中は女中で、女主人と同居人との間にただならぬ関係があるがゆえの処遇だと勝手に合点していた。

屋敷に戻った女中に、ガルデルは給金を払い、いくばくかの心づけを添えて受取証に証の印を引かせた。屋敷を去る際、女中は折あしく、主人の帰宅に備えてやって来たライト氏の従僕とすれ違った。女中は、夫人は朝から床に就いているようだから顔を出すかもしれないと告げ、待つよう促した。だが従僕は立ち去り、ガルデルは再び一人となった。男はキング夫人の部屋に入り、亡骸の着物を剥ぎ取ってベッドに横たえた。血にまみれた襦袢は袋に詰めて自らの寝台の下へ隠し、自らの上着は引き出しに収め、血に染まったシーツは水樽の中へ浸けておいた。

やがてペルシーという名の従僕が戻り、主人が別の宿を見つけたと告げた。己の荷を運び出す手立てがつかなかった従僕は、その夜、屋根裏部屋で夜を明かした。翌日、従僕が夫人の消息を尋ねると、ガルデルは外出したと答えた。凶行から二日後、今度は以前からの約束通りオペラ見物に誘おうと、モジエなる客人が訪ねてきた。ガルデルは、夫人はブリストルかバースへ発ったと告げた。男の暗い面持ちを、相手の不在による落胆と解釈したモジエは、気晴らしにと一人の若い女を送り込んできた。ガルデルはその来訪を歓迎しなかったものの、追い返すこともしなかった。記録によれば、無下に拒絶すればかえって疑念を招くことを恐れたのだという。

翌朝、ガルデルは同居の女よりも早く起き出し、火を熾した。十時を過ぎて降りてきた女の目に、男は何かと忙しなく立ち働く姿と映り、頼まれるままに炊事洗濯の通い女中を手配した。月曜日、男はこの通い女中に対し、家にいる若い女は留守番のためにキング夫人が差し向けた者だとライトの従僕へ伝えるよう言いつけた。だが従僕は承知しなかった。すでにガルデルと女が睦まじく同衾している現場を目撃しており、そのような言い分に信を置くはずもなかった。従僕は幾度となく夫人の所在を質したが、ガルデルはバースかブリストルにいるの一点張りを崩さなかった。

火曜日になると、従僕は屋根裏に漂う異様な悪臭に気づいた。ガルデルは、骨を焼いているのだと弁解した。その言の葉はあながち偽りではなかった。男が焼いていたのは、まさにキング夫人の骨であったからだ。その夜、従僕が寝静まり、同居の女を寝かしつけたのち、ガルデルは亡骸の解体に取りかかった。骨から削ぎ落とした肉片を屋根裏に隠し、内臓は便壺へと投棄した。水曜日に至り、今夕には夫人が帰宅する手筈ゆえと告げて、モジエの差し向けた女をようやく退去させた。

屋敷には通い女中と従僕とが残されていた。水瓶が底をついていたため、女中は勝手の水樽から水を汲もうとした。底に沈む柔らかい感触に触れたものの、よもやそれが凶事の痕跡とは思いもしなかった。ところが翌日、ガルデルが遺体に被せておいたシーツが、その水樽から引き上げられたのである。従僕は暇を出された元の女中を呼び戻したが、女中は樽に布など沈めていないと否定した。事態を重く見た従僕は主人へ急報を入れた。そこへ薬剤師のバロンが夫人の安否を気遣って訪ねてきたが、ガルデルはまたしても旅に出ていると偽りを重ねた。

解雇された女中は、治安判事ジョン・フィールディング卿の取り調べを受けた。ガルデルに対する逮捕状が発付され、薬剤師バロンが役人らの踏み込みに同行した。ガルデルは殺害を否認したものの、やがて取り乱して発作に倒れた。夫人の部屋の鍵を差し出すよう求められると、夫人が田舎へ持参したと答えた。警邏官の一人が窓から忍び込んで内側から扉を開け、一行を招き入れた。寝台には生々しい血痕が残されていた。上階からは隠された衣類が見つかり、駆り出された石工と大工が家中を捜索した結果、屋根裏から無残な人肉が、便壺から内臓が、そして炉の脇からは焼け焦げた人骨が次々と掘り出された。

男がある知人に預け、保管を頼んでいた小箱からは、キング夫人の懐中時計をはじめとする遺留品が発見された。獄中のガルデルは阿片を仰いで自裁を図ったが一命を取り留めた。判事の前への出頭を願い出て一通りの自白を口にしたが、判事はその供述に耳を傾けつつも、のちに不利な証拠となり得る署名はあえて許さなかった。ガルデルはなおも諦めず、数枚の硬貨を呑み込んで再び命を絶とうとした。一七六一年四月二日、オールド・ベイリー裁判所において公判が開かれ、有罪判決が下された。当初こそ狂乱の色を見せていた男も、翌日にはすっかり諦念の面持ちへと変わっていた。

なぜ異国へ逃亡しなかったのかと問われた男は、無実の者に嫌疑がかかることを恐れたのだと答えた。また記録には、モジエが送り込んできた女を忌み嫌いながらも、追い払う勇気が持てなかったと述懐した旨も残されている。だが、そのような申し開きを並べ立てたところで、覆い隠された骸の惨状も、従僕につき続けた無数の嘘も、家中に散らばる死の痕跡も消え去りはしない。数日間にわたって周囲を欺き通した末に、今さら法の審判を欺くことを恐れたと嘯く罪人の戯言として、この弁明は記録に留められている。

四月四日、ガルデルは荷車に乗せられ、ヘイマーケットの処刑場へと引き立てられた。車列はキング夫人が命を奪われたあの屋敷の傍らにしばし佇んだ。絞首刑の場には黒山の人だかりができ、ボロウの記すところによれば、その場にふさわしからぬ歓声が騒々しく沸き上がったという。刑死した男の遺骸は、やがてハウンズロー・ヒースの荒野に鉄鎖で吊るされた。ブリストルやバースへ旅立ったと告げられていたキング夫人は、ただの一歩も、その屋敷から外へは出ていなかったのである。

この歴史事件から新たな小説が生まれます

次なる刊行作品の選定にご参加ください

この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

レスター・フィールズの閉ざされた窓

女中が去った直後に雇われた洗濯女は、レスター・フィールズの屋敷内に、誰も開けてはならぬ開かずの間があることを知る。姿を消した女主人の顔も旅立ちの真相も知らぬ女の手にあるのは、×印の受取証、同じ問いを繰り返す従僕、そして隣人に託された謎の小箱のみ。濡れ衣を着せられた弟を救うため、女は誰に何を語るべきかの決断を迫られる。史料の余白に織りなす完全創作の探索行。「短編」を選択の上、張り巡らされた謎をお楽しみください。

投票数を読み込み中…

長篇小説(ロマン)

細密画の男

女主人失踪後の下宿屋に残された絵画の目録作成を託された絵画修復家を描く、全編創作の長編小説。紛失した一枚の肖像画を巡り、自らが買い取ったと主張する二人の客が現れ、かつての女中は上塗りの下に名を口にしてはならぬ男の面影を認める。行方知れぬ妹の足取りを追うため、修復家は危険な仲介役を引き受ける。日常の些細な繕いがやがて殺意の構図へと結実する、緻密な歴史心理劇。「長編」を選択してお読みいただけます。

投票数を読み込み中…

大河三部作(トリロジー)

三つの密室、三つの沈黙

凶行の爪痕が残る屋敷へ足を踏み入れた「後の者たち」の手によって繋ぎ合わされる三部作小説。証言台に立たされる女中、血痕の残る一室を調べる薬種商、そして主人の遺品を返還せねばならぬ従僕。歴史の表舞台に名を残さぬ三人の胸中に去来する葛藤と決断を描く。屋敷が沈黙を強いるとき、人はどこまで口を噤むべきなのか。ひとつの倫理的境界を問いかける連作小説。「三部作」を選択の上、静かなるサスペンスをご堪能ください。

投票数を読み込み中…

1つの事件につき1票(いつでも変更・取消可能)。多くの支持を集めた企画から順次書籍化を進めます。投票データの保存について。

他の小説企画をサロンで見る →
歴史的典拠と文学的再構成について

ボロウの記録によれば、凶行は一七六一年二月十九日、オールド・ベイリーでの公判は同年四月二日、ヘイマーケットにおける死刑執行は四月四日のこととされる。亡骸の隠蔽および事件発覚に至る日々の推移は原典の章立てを踏襲したものであり、個々の事実関係について当時の独立した一次史料による照合は行われていない。

← 事件記録室(全1,003篇)一覧へ戻る