本文へ移動
Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · 英国

代償の果て

露国における不当な幽閉に対し、ジョン・ベリンガムは損害賠償を求め続けた。しかし倫敦の官庁はことごとくこれを拒絶する。1812年5月11日、下院の控えの間に潜んだ男は、一発の銃声こそが頑迷な門扉を押し開く唯一の手段であると信じて、スペンサー・パーシヴァルを待ち伏せていた。

乾いた銃声が響き渡った刹那、控えの間をよろめき進む男の姿があった。ノリッジ選出の庶民院議員ウィリアム・スミスは、男が身を寄せてくるのを見て、とっさに身を隠す場所を探しているのかと思った。男はさらに二、三歩進むと、どうと床に突っ伏し、二度と身じろぎしなくなった。スミスが居合わせた別の者と遺骸を仰向けにして初めて、それがスペンサー・パーシヴァルその人であると知れた。執務のため下院へ足を踏み入れたばかりの大英帝国首相は、議長秘書官の私室へと運び込まれ、その体を支える人々の手の中で、見る間に息を引き取っていった。

暖炉の脇では、ジョン・ベリンガムが腰を下ろしたまま動かずにいた。騒乱に紛れて表通りへ逃げおおせようとする気配すらない。足元には火蓋を切ったばかりの短銃が落ちており、懐中からは装填されたままのもう一挺が見つかることになる。事務弁護士のヘンリー・バージェスが凶行の理由を問い糾すと、その口から返ってきたのは、長年役所を相手に訴え続けてきたあの紛争の顛末であった――正当なる補償を拒まれた、と。1812年5月11日のことである。パーシヴァルを取り囲む者たちにとって、それは掛け替えのない一国の宰相の死を意味したが、ベリンガムにとっては、積年の訴状をようやく聴取させた瞬間にすぎなかった。

決算されぬ貸借

ことの発端はウェストミンスターから遠く離れた地、対露貿易の現場にあった。アルハンゲリスクへ渡ったベリンガムは、商取引を巡って現地の共同経営者らと金銭上の諍いを起こしたのである。身柄を拘束された彼は、英国の外交官に救済を請い、下された裁決の不当を訴え立てた。1809年に帰国を果たしたのちも、男はこの係争を決して過去のものとはしなかった。それはやがて、異国で自らを見殺しにした自国政府への損害賠償請求へと姿を変えていく。

双方の言い分には、それぞれの立場による隔たりを認めておかねばなるまい。ベリンガムは自身が理不尽な迫害の犠牲者であると主張した。これに対し、元駐露大使グランヴィル・レヴェソン=ガウアー卿は、仲裁裁判所によってベリンガムが二千ルーブルの債務者と認定されたのであり、英国使節館に現地の正当な身柄拘束を妨げる権限などなかったと反論している。事件後の5月17日付の書簡(三日後に議会で公表)において大使は、この商人のために尽力し、幾度か小口の金銭的援助を与え、自邸に一夜の宿を提供したことすらあったと記している。

無論、この書簡は批難を浴びた大使自身の弁明書でもある。これをもって露国での一件の真相が完全に尽くされたわけではないが、同時にベリンガムの告発のみを鵜呑みにすることも許されない。二つの真実が真っ向から対立していたのである。だがベリンガムは、自らの損失額を証明することも、告発した相手の法的責任を立証することも叶わぬ暴力によって、この決着を一挙に下そうとした。

英国へ戻ってからの彼は、嘆願書を書き連ね、役所の門を叩き、拒まれればまた同じことを繰り返した。司法記録が描き出すのは、枢密院から財務省へとたらい回しにされ、議員の口添えを求め、摂政皇太子への請願にすがる男の姿である。無情な却下の通知を受け取るたび、彼は最初の証拠書類へと立ち返った。彼には自らの悲運を語る揺るぎない物語があったが、それを受け取る官僚の誰一人として、彼が要求する債権を認めようとはしなかった。両者の溝は、時とともに深まるばかりであった。

上着の内隠し

公判で明かされたある挿話は、この男の異常な執着が、私生活の場へどのように影を落としていたかを物語っている。幼少期からの知人であるアン・ビレットの証言によれば、彼女はベリンガムの妻とともに、とある省庁の窓口まで彼に同行したという。彼は請願がまもなく実を結ぶさまを二人に誇示しようとしたのだった。だが役人は、もはや何の望みもない旨を冷淡に告げるのみであった。庁舎を出たベリンガムは、妻の手を握ると、いまの面談こそ事態が好転している確かな証拠なのだと語り聞かせた。証人はそこに精神の失調を見て取ったが、その観察をそのまま後世の医学的診断にすり替えることは控えねばなるまい。

1812年3月23日、ベリンガムはボウ・ストリートの治安判事宛てに一通の脅迫状を送りつけた。正当な救済がなおも拒まれるならば自らの手で正義を執行する所存であり、その行為については司法の裁きを受ける覚悟がある、というのである。後の公判で彼は、「打つべき手は自ら選ぶがよい」という当局からの冷淡な回答を、実力行使の許可を得たものと解釈したとまで弁き立てた。むろんそれは男の勝手な我田引水にすぎず、殺人の免罪符などではあり得なかった。

この頃から、彼は頻繁に庶民院へ出入りするようになる。発砲直後に彼を取り押さえることになるヴィンセント・ジョージ・ダウリングは、傍聴席にいた彼が、登壇者、とりわけ閣僚たちの名を熱心に尋ね回るのを目撃していた。彼の庁舎通いには確かな目撃者がいたのである。彼が面貌を覚えようとした高官たちと、決して受理されることのなかった嘆願書の束が、こうして一つの破滅的な物語へと結びついていった。

もう一人の証人は、男の衣服だけに関わっていた仕立屋のジェームズ・テイラーである。彼は客から指定された寸法に従い、上着の内側に深い隠しポケットを取り付けるよう命じられた。職人は言われた通りに仕立て、衣服を納品した。公判において、この些細な針仕事は凶行の準備段階を示す恐るべき証拠として浮上する。職人にとっては日常のありふれた注文が、暗殺の道具立てへと変貌を遂げたのである。だがその時点で、仕立屋がその用途を知る由もなかったことは言を俟たない。

控えの間

5月11日午後5時頃、ジョン・モリスは、普段は閉ざされている両開き扉の脇に立つベリンガムの姿を認めた。誰かを待ち伏せているかのようであった。モリスが傍聴席への階段を上がりかけたその瞬間、銃声が轟いた。凶行は論戦の最中の議場ではなく、人々が出入りし、すれ違い、開議を待つための無防備な通路において引き起こされたのである。

スミスらはパーシヴァルを脇の部屋へと担ぎ込んだ。口元から血の泡が溢れ、わずか数分のうちに生命の徴候は途絶えた。駆けつけた外科医ウィリアム・リンの手も施しようがなかった。その間、バージェスはベリンガムに飛びかかって発砲済みの短銃を奪い、ダウリングは懐中からもう一挺の銃を押収した。この二挺目の弾丸が放たれることはなかった。そこに別の標的が存在したと決めつけることは、証言が伝える事実の境界を越える危うさを孕んでいる。

ベリンガムは尋問に淡々と応じ、やがて院内の別室へと連行された。彼は「人間パーシヴァル」と、自らが怨嗟の標的とした「大臣パーシヴァル」とを厳格に区別しようとした。その詭弁は演説の場では通用したかもしれないが、隣室に横たわる冷たい骸の前には何の慰めにもならなかった。ジェーン・パーシヴァルは夫を奪われ、十二人の子らは父を失った。内閣は後継者を見出せようが、残された家族に代わりはいない。

裁きへの四日間

5月15日、オールド・ベイリー(中央刑事裁判所)にて公判が開始された。ベリンガムは自らの請願書を公の場で審理させることを望んでいたが、立たされたのは謀殺罪を裁く法廷であった。弁護側は精神鑑定のための証拠収集を理由に期日の延期を求めた。記録は弁護側の奔走と、検察側に押収された書類を巡る被告自身の異議申し立てを伝えている。だが審理は即日強行された。押収書類は状態の確認を経て被告に返還されたが、記録によれば弁護人はすでにその写しを確保していた。

被告自身、請願の正当性を損なうような「心神喪失」の抗弁によって命を拾うつもりは毛頭なかった。彼は検察が狂気の主張を退けたことに謝意すら示し、自らの受けた不当な仕打ちについて長々と弁舌を振るった。人を殺めた事実は認めつつも、司法がそこに付与した「犯罪」という解釈には承服しなかったのである。彼はまた、本来なら元駐露大使を仕留めたかったのだとも口にした。その述懐は怨恨の真の矛先を明かしはするものの、現実に凶弾に斃れた被害者の無辜をいささかも減ずるものではない。

弁護側の証人たちも証言台に立った。アン・ビレットは、一向に金銭が入らぬにもかかわらず莫大な富が転がり込むと信じ込み、役所からの拒絶をどうしても認めようとしなかった彼の頑迷さを証言した。だが陪審員団は弁護側の主張を退けた。ベリンガムには有罪と死刑が言い渡された。自らの行為を正当と信じる男の狂信は、彼を裁く生身の人間たちには何一つ届かなかったのである。

一週間の結末

5月18日、ニューゲート監獄にて死刑が執行された。凶行から絞首台に至るまで、わずか七日間の出来事であった。記録によれば、最期の瞬間を迎える足元にあっても、男は露国での過酷な日々と思いを残す家族について呟いていたという。その執着の深さに、事件が男の全存在を侵食していたさまを見て取ることはできようが、そこに新たな医学的知見や、裁判所が拒絶した正当化の根拠を見出そうとすることは慎まねばならない。

彼にもまた、妻と幼い子どもたちが残されていた。放たれた銃弾が、彼らのもとに賠償金をもたらすことは決してなかった。一方、パーシヴァルの遺族に対し、議会は手厚い支援を議決した。五万ポンドの一時金と、未亡人ジェーンに対する年二千ポンドの年金である。金銭はこうして、一人の商人の損害補償ではなく、凶弾に斃れた宰相の遺族を慰撫するという、まったく別の目的のために動くこととなった。

ベリンガムは自らの身の上話に政府を引きずり出そうとした。だが一人の人間を撃ち抜いて男が思い知ったのは、裁判の場がただ横たわる遺骸と、己の引き金を引いた行為そのものしか問題にしないという冷厳な事実であった。彼の書き溜めた書類は失われずに残った。果てしない要求と拒絶、そして矛盾を孕んだまま。しかし、彼が支払いを迫ろうとした相手は、もはや二度と答えることはない。

この歴史事件から新たな小説が生まれます

次なる刊行作品の選定にご参加ください

この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

縫い込まれた隠しポケット

仕立屋の女工が、注文通り上着に縫い付けた内ポケットが、短銃を隠すためのものであることに気づく。単なる当てずっぽうのために誰も足を止めようとしない煤煙の街で、見知らぬ客の行方を突き止めるべく与えられた時間はわずか数時間。職人の勘という微かな違和感を誰に信じてもらうべきか、そして凶行を企む男が姿を消す前に届くのか。仕立ての技法を鍵に描く中編小説。

投票数を読み込み中…

長篇小説(ロマン)

冬の請願書

凶変ののち、ある未亡人のもとに、一人の商人が長年にわたり官庁へ送り続けた膨大な嘆願書が遺品として届く。リヴァプールから倫敦の埃っぽい書架へ、さらには事実の異なる記録を握る露国の関係者へと足を運ぶ彼女は、いかにして一つの金銭請求が男の全生涯を呑み尽くしたのかを探り始める。行政の冷徹な弁明にも凶行者の狂気にも与することなく、沈黙を強いられた犠牲者たちの声に光を当てる歴史長編。

投票数を読み込み中…

大河三部作(トリロジー)

拝謁を求むる者たち

英国の港湾都市、露国、そして倫敦を行き交う通訳・翻訳家の一族を描く三部作。第一部では商取引の焦げ付きがもたらす不審な失踪、第二部では一通の請願書が暴き出す偽りの身分、そして第三部では要人暗殺を機に次世代の若者が封印された二つの記録を紐解く運命へと巻き込まれる。翻訳し、保管し、あるいは読み解く者によって、同じ一枚の書簡が帯びる意味の変遷を描く大河小説。

投票数を読み込み中…

1つの事件につき1票(いつでも変更・取消可能)。多くの支持を集めた企画から順次書籍化を進めます。投票データの保存について。

他の小説企画をサロンで見る →
歴史的典拠と文学的再構成について

証言、被告弁明、刑執行の全容を含む『ニューゲート・カレンダー』所収の記録(11,258語)を精読。主要な照合史料として、1812年5月20日付の議会記録(マンスフィールド卿およびハンスード)に掲載された5月17日付ガウアー卿書簡の前文を含め通読。同書簡は露国での出来事に関する中立的記録ではなく、批難を浴びた当事者による自己弁護の性格を持つ。英国公文書館(The National Archives)が2012年5月8日に公開した広報文書およびPDF史料を参照し、文書番号 TS 11/224(バージェス、スミスの供述)の存在、5月11日の犯行および18日の処刑日を確認(原本未閲覧)。遺族への公的補償に関する議会史料(遺児12名、一時金5万ポンド、未亡人ジェーンへの年金2,000ポンド)を確認。オールド・ベイリー公判録(t18120513-5)はアクセス制限(403)のため原本未閲覧だが、事件日は5月11日、公判日は5月15日と特定。陰謀説、精神医学的断定、パーシヴァルの確証なき今際の言葉、二挺目の標的といった創作的俗説は排除した。

← 事件記録室(全1,003篇)一覧へ戻る