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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · フランス

徴税吏の通い路

徴税吏ソニエの妻と密通の廉のあった司祭ルイ・フリレは、1830年2月4日、街道で相まみえた夫に刃傷に及んだ。フリレは正当防衛を申し立てたものの、ソニエの証言や過去の確執がその弁明を覆した。陪審は殺人未遂の罪を認め、フリレには終身徒刑、頸木晒し、および焼印の重刑が下された。

1830年2月4日、徴税吏ソニエがいつもの徴税の途を馬で進んでいると、前方に司祭フリレの姿を認めた。以前出くわした折、短銃で脅されたと難詰するソニエに対し、フリレはふたたび銃身を抜いた。ソニエが杖を振り上げて詰め寄るや、二条の銃声が轟いたが弾丸はそれた。打ち据えた拍子に杖が折れると、フリレはすかさず懐から短剣を抜き放ち、ソニエの横腹を刺し貫いた。辛くも家に戻った徴税吏は二日後に告訴に踏み切る。重罪院の法廷において、フリレは身の危険を感じて防戦したにすぎぬと言い張ったが、数々の証言と過去の書状は、この凶行に至る長き宿怨の道程を白日の下に晒すこととなった。

ルーアンに生まれ、1817年に司祭に叙階されたルイ・フリレは、二箇所の教区でその素行を咎められ、任地を追われた経歴を持っていた。1825年初頭、サン=オバン=シュル=シおよびソークヴィルの主任司祭となった彼は、国税徴税吏のソニエと懇意になり、やがてその妻と不義密通を重ねるに至る。数箇月が過ぎ、胸騒ぎを覚えたソニエは口実を設けて司祭の出入りを禁じようとしたが、フリレは夫の留守を見計らってはなおも邸へ通い続けた。

1829年1月11日、家人の声を聞きつけて急ぎ帰宅したソニエは、妻が一人でいるのを目にしたが、直前まで誰かと密語を交わしていたと確信した。家中を捜索したところ、屋根裏部屋の干草の束の陰に潜むフリレを発見したのである。夫は怒りを押し殺し、不義の非を認めてこの地を立ち去るよう司祭に迫り、その約定を書面に認めて署名させた。シャンパニャックの記録によれば、フリレはこの誓約に従う振りをしながらも、端から約定を違える腹づもりであったという。

その後、記録に残る最初の衝突は、ソニエが人足の作業を見回っていたマンシュヴィルの街道で起きた。年代記筆者はこれを1829年11月23日と記すが、検事宛てのフリレの書状(1月22日付)では11月22日の出来事とされている。馬上の徴税吏は乗馬鞭を手にし、フリレは徒歩であった。ソニエが痛い目を見せてやると言ったのに対し、フリレは仕込み杖の切っ先で馬を打擲し、麦畑へと逃げ込んだ。追うソニエに対し、フリレは短銃を構えて何ゆえ咎め立てするのかと詰問した。ソニエが約束通りこの地を去らぬからだと返すと、フリレは、ならばお前の方から転任を願い出るべきであったと応酬した。この場はそれ以上の沙汰もなく別れた。

署名された誓約書とこの路上での遭遇のあだ花として、邸への出入りは禁じられたものの、二人の情交は断ち切れなかった。ソニエ夫人は、フリレを遠ざけようと努めたものの相手が執拗に戻ってきたと語った。夫人は合図を送ることもあり、司祭は夫の徴税の巡回日を熟知していた。さらに夫人は、11月の路上での諍いを知った後でさえ、ベルニエの家で密会を重ねていたことを認めた。法廷での問答から浮かび上がる二人の仲は、単なる一度きりの過ちではなく、度重なる逢瀬、第三者を介した文通、そして公廷で述べた拒絶の言葉とは裏腹に、断ち切ることのできぬ泥沼の往復書簡によって保たれていたのである。

年明けて1月22日、フリレは国王検察官宛てに書簡を認めた。11月の遭遇について、記録の言を借りればソニエの脅迫を大げさに書き連ね、身の危険ゆえ今や武装せずには外を歩けぬと訴え出た。不測の惨事を予見しつつも、武力を用いるのは万策尽きた最後の瞬間に限ると弁明していた。さらに、1月1日付で夫人の弟フィケに宛てた別の手記には、徴税吏への罵詈雑言とともに、12月10日に夫人が死産した我が子の死は夫の仕打ちのせいだと難じていた。ただし、この非難はフリレの一方的な主張であり、記録はその証拠を認めていない。

2月4日、ソニエはいつものように徴税の途についていた。サン=オバンの坂のあたりで、歩を早めるフリレの姿を認めたソニエは馬を寄せ、前回の短銃の件を問い質した。フリレはふたたび得物を抜いた。ソニエは手にした杖で立ち向かったが、放たれた銃弾は狙いを誤り、一発が馬の腿をかすめたに留まった。フリレを打ち据えた瞬間に杖はへし折れた。司祭はすかさず法衣の下に隠し持っていた短剣を抜き放ち、ソニエの外套を掴んで続けざまに刺した。左の横腹の傷は深かった。ソニエが国王検察官に訴え出ると告げると、フリレは勝手にするがいいと言い捨てて立ち去った。手負いのソニエは馬首を返し、命からがら家へとたどり着いた。

徴税吏は2月6日に正式な告発を行った。予審判事は、ソニエが述べた事件の経緯を突き合わせた。シャンパニャックの記すところでは、細部にわずかな相違はあれど、根幹においては一致していたという。フリレはあくまでソニエが先に襲いかかり、自らは身を守ったにすぎぬと強弁した。かくして司祭はセーヌ=アンフェリウール県重罪院に送致され、1830年5月15日に公判の幕が開いた。

証人として召喚されたソニエ夫人は、フリレとの不義を認めたものの、その発端や強要の有無については被告の言い分とは異なる証言を行った。夫から厳しく叱責されたことは認めたが、虐待を受けた事実はないと語った。身を投げようとしたことや、フリレが魂の救済者として慰めに訪れたという申し立てを否定した。時に合図を送って来訪の便を知らせたこと、折に触れて手紙を認めたこと、そして司祭から執拗に求められ続けたことを白状した。また、夫が司祭の出入りを固く禁じていた事実も認めた。

裁判長の尋問によって、フリレが密会を求めたベルニエ邸での逢瀬が明るみに出た。夫人はその回数を三、四度とし、出産後は一度きりであったと証言した。もはやこれで最後だと告げるために赴いたのだと弁明しつつも、司祭がなおも食い下がってきたことを認めた。フリレの脅迫に怯えていたのかと問われると、恐れるべきではなかったと弁じた。夫人のこれらの証言は、二人の関係を無条件の合意によるものとは認めさせず、また単なる推断によってソニエを2月4日の加害者と見なす根拠ともならなかった。

屋根裏部屋での露見、署名された誓約書、11月の路上での食い違う二つの証言、そして道端で交わされた罵詈雑言を法廷が消し去ることはできなかった。だが裁くべき本筋は、2月4日に起きた殺人未遂の一事にあった。記録筆者によれば、検察官はフリレの破廉恥な行状と聖職の尊厳とを注意深く切り離しつつ論告を行った。弁護側は正当防衛を主張して譲らなかった。陪審員は賛成七票、反対五票の僅差でフリレに有罪の評決を下した。裁判所は陪審の過半数の判断を支持し、終身徒刑、頸木晒し、および「T・P」の焼印を言い渡した。年代記は、被告が何ら動ずることなく判決を聞き届けたと伝えるが、刑が実際に執行されたか否かまでは書き残していない。

本件においては、書状と供述の辻褄がことごとく食い違っている。フリレはソニエを先途の襲撃者と仕立て、ソニエは歩行に支障のない傷を負いながらも訴え出た。ソニエ夫人は不倫とフリレの執心を裏付けたものの、2月4日の刃傷沙汰そのものを目撃してはいない。陪審は殺人未遂の成否にのみ答えを出したのである。終身刑と烙印の宣告こそが古記録の伝える結末であり、その後の服役の次第も、ソニエの死の顛末も、歴史の闇の彼方に閉ざされている。

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中篇小説(ノヴェラ)

検察官への上申書

告発を先回りし、街道での刃傷沙汰を自らに都合よく言いつくろおうと書状を認める男を描く短編小説。徴税吏、下僕、そして証言台に立つ女が、過去の密会についてそれぞれ食い違う記憶を語り出す。登場人物と事件は架空のもの。書記官はある書状の日付が、差出人自身の別個の申し立てと矛盾している事実に気づく。日付の齟齬が審理の帰趨を握る、緊迫の法廷劇を読みたいと思われませんか。

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長篇小説(ロマン)

禁じられた密会

立ち退きの誓約書を交わしたにもかかわらず、招かれざる客が密かに邸を訪れ続けていることを知る夫と、その妻の葛藤を描く長編小説。逢瀬の場は民家から宿駅の片隅へ、そして二人の男が刃を交える運命の街道へと移ろいゆく。登場人物と事件はすべて創作。公判において、妻は取り決めた合図や手紙、断ち切ろうともがき続けた逢瀬の真相を公に明かさざるを得なくなる。秘められた情念が白日の法廷に晒される物語はいかがでしょうか。

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大河三部作(トリロジー)

道なき道の証言録

徴税の通い路、旅籠の前、そして渡し場の畔――食い違う証言ばかりが残る三つの流血事件を追う、全三巻の連作歴史小説。各巻の法廷において、かつて交わされた書状の文面と当事者たちの肉声が真っ向から衝突する。事件と人物はすべて架空。審理を記録する女性書記官は、単なる告発の言葉と真の証拠を見分ける眼を養っていく。ひとつの言い分が身振りの意味を変え、記憶の確からしさを揺るがす法廷サスペンスをご堪能ください。

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歴史的典拠と文学的再構成について

本篇は第8巻第40章(一次資料:work/cap400/sources/champagnac/tome-8-chap-40.txt; SHA-256 1b31b238ce03c6ed305933806f2c366d7dd72b1b54ea030c6f769404163f070e)の全訳読解に基づく。ルイ・フリレは1829年1月11日、ソニエ邸の屋根裏に潜んでいるところを発見され、当地を去る旨の誓約書を書かされた。記録筆者は前回の路上での衝突を1829年11月23日と記すが、1830年1月22日付のフリレの検察宛て書簡では11月22日と記述されている。本稿では初出の年代記本文の日付を採り、日付の相違の詳述は避けた。ソニエは1830年2月4日に横腹を負傷し、2月6日に告訴状を提出した。裁判は同年5月15日に開かれ、フリレは賛成7票対反対5票で殺人未遂の有罪評決を受け、終身徒刑、頸木晒し、および「T・P」の焼印刑に処された。ソニエの死亡やフリレの刑執行の記録は存在しない。新生児の死因や先制攻撃に関するフリレの告発は言及の紹介に留め、独立した歴史的事実としては扱っていない。

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