晩餐と捕縛の命
オーヴェルニュ州の執行監察官(プレヴォ)は、ラ・モット=カニヤック子爵と膳を囲んだばかりであった。それから数刻も経ぬうちに、監察官へ下されたのは、その子爵を捕縛せよとの命であった。事前に一切の気配を漏らさぬよう細心の注意が払われていた。旧交の情は重んずべきものなれど、パリより遣わされた法官らは、その情義が真夜中に早馬を仕立てる速さのほどを試す気など毛頭持ち合わせていなかったのである。
廷吏は弓箭組の番兵を招集し、監察官を見つけ出したうえで、初めて拘束すべき罪人の名を告げねばならなかった。カニヤックはすでに床に就いていた。夜の来訪者が持参したのは宴への招きでも懇意の伝言でもない旨、いささかの疑義も差し挟まぬよう、逮捕状は朗々と読み上げられた。昼間までは饗宴の主客として迎えられていた男が、夜半には護送兵に囲まれて歩む境遇へと身を落としたのである。
時は寛文五年十月、所はクレルモン。長年、土地の因習や権門の庇護、人々の恐怖によって見過ごされてきた暴虐を断罪すべく、オーヴェルニュの地に「グラン・ジュール(特設巡回裁判)」という非常の大権裁判所が立ち上がった。領主たちが自領で専横を極めた時代は終わりを告げつつあった。民の訴状は法廷の扉を叩き、身に覚えのある貴顕の多くは抜け道を探して逃奔した。カニヤック自身、近隣の者らには身を隠すよう勧めていた。しかし、当の自身はこの地に留まっていたのである。
他者への忠告を怠らぬ一方で、己の身の上には一片の疑いも抱いていなかった。門閥の威光は申し分なく、周囲の者らも、かの事件はとうの昔に示談が成立した過去の諍いにすぎぬと高をくくっていた。しかし、その手打ちの陰には、和解状を以てしても決して黄泉の国から呼び戻せぬ死者が横たわっていたのである。
騎兵調達の軍資金
ことの発端は、かつて国を揺るがしたフロンドの乱にまで遡る。コンデ親王派の騎兵を募るため、カニヤックの手元には軍資金が集められていた。子爵はそのうち数千リーヴルを用立てて軍馬を調達するよう、ドルソネットという男に託した。だが、期日を過ぎても馬は届かず、銀貨も戻らなかった。親王は激怒し、すでに手元にない資金の責任を一手に負わされた子爵は窮地に立たされた。
ふたりの間の悶着は、やがて証書に残る借財となり、返済の延期を重ねるうちに抜き差しならぬ宿怨へと変じていった。帳簿の上では金銭の貸し借りにすぎぬものが、男と男の面目のあいだでは、遥かに根深い侮蔑と憤怒へと膨れ上がっていった。もはや道で出会えばただでは済まぬ仲となり、いつ振り下ろされるとも知れぬ刃の影が、街道の上に長く垂れ込めていた。
そして、ついにその日が訪れた。カニヤックは手勢の騎馬兵を率いて現れ、対するドルソネットの供回りはごく僅かであった。激しい乱闘となり、債務者ドルソネットは負傷し、その一行に加わっていた一人の鷹匠が、子爵の配下の手にかかって命を落とした。後々まで様々に語り継がれる血塗られた争闘の真相はここにある。カニヤックは不意を打たれたのか、それとも単に応戦したにすぎぬのか。偶然の出会頭の口論であったのか、あるいは年来の脅迫が血の報復として果たされたのか。
生き残った貴族同士は、やがて手打ちに漕ぎ着けた。生き残った者同士の間であれば、互いの非を論じ合い、利害を調整し、何を要求し何を妥協すべきかを見極めることもできよう。しかし、命を落とした鷹匠は、和解の証書に署名することなど叶わなかった。グラン・ジュールの法廷がこの記録を再び開いたとき、国王検事総長が振るったのは、私的な和議の及ばぬ公の司法の刃であった。
こうして事件の性質は一変した。斬り結んだ末に手を取り合える当事者同士の私闘という枠組みは打ち砕かれた。王室の正義は、これを見過ごし得ぬ殺人事件として厳しく追及する構えを見せたのである。
告発へと転じた恩赦の願い
窮地に陥ったカニヤックは、王の恩赦状に一縷の望みを託した。赦免を得るには事実の経緯を申し立てねばならず、情状酌量を引き出すには、自らの過ちがいかに已むを得ぬものであったかを理路整然と説かねばならぬ。彼の提出した嘆願書は、自身がドルソネットに向けて発砲したこと、そして配下の者が鷹匠を殺害した事実を率直に認めていた。その上で、すべては周到に仕掛けられた襲撃に対する正当防衛であったと主張したのである。
これは裁判官に対し、犯行の半分を認める証拠を進呈した上で、残る半分の言い分を鵜呑みにしてくれと頼むに等しかった。自白によって事件への加担は立証されたが、それを無罪放免へと導くはずの「正当防衛」の主張は、続く証言の数々によって無残にも瓦解していった。
法廷の有様を克明に記録したフレシエの手記によれば、カニヤックの一行は十三、四騎の威勢を誇っていたのに対し、ドルソネット側はわずか五騎にすぎず、そのうち二人は公務で同行していた廷吏であったという。これでは、恩赦願書が描くような「潜伏していた敵の奇襲部隊」などとは到底呼べぬ。何より、ドルソネットは背を見せて逃走していた。追撃は二千歩余り離れた隣村まで執拗に続き、追討する側が逆に包囲されて身の危険を感じるような抵抗の気配はどこにもなかった。
さらに、カニヤックの手勢から分派したミュラという男が発した警告の存在も露わになった。ドルソネットに引き返せと命じ、従わねば突撃を敢行するという通告であった。過去にも同様の露骨な脅迫があり、リヨンの代官所に訴状が提出されていた事実も明るみに出た。
証拠の断片は、嘆願者が思い描いた筋立てとは正反対の絵姿を浮かび上がらせた。彼自身の申し立てが自らの関与を裏づけ、他者の証言は軍勢側の先制攻撃を証明し、遠くまで及んだ追撃の事実は正当防衛の余地をことごとく奪い去った。助かるため差し出したはずの恩赦の願いが、逃れようのない自白の檻となって自らの首を絞めたのである。
喚問の腰掛け(セルエット)に座らされたカニヤックは、かつての上申を撤回し、己を救うはずであった願書の内容を否認しようと足掻いた。しかし、一度墨痕鮮やかに認(したた)められた文書は、冷厳として裁判官たちの眼前から消え去りはしない。文言の解釈を巡って抗弁することはできても、誰にも打ち明けていなかった胸中の思いの段階にまで時間を巻き戻すことなど、もはや不可能であった。
十四人の評議
とはいえ、子爵を弁護する動きが皆無であったわけではない。古い借財の経緯、年月の経過、すでに当事者間で成立していた示談の効力などが繰り返し主張された。訴訟手続きの一部に不備があるとの指摘もなされた。何より、カニヤックは一族の凶暴な男たちに比べれば、さほど悪名高い人物ではないという点が強調された。
世間においてはそれも一定の同情を誘う口実となったであろう。だが、名門の家名が個人の罪科を蔽い隠す悪弊を打破せんと設置された特別法廷において、そのような弁明は通用しなかった。親族の者らより残虐でなかったからといって、自らの配下が犯した殺害の責を免れる道理にはならぬのである。
処刑された男に明らかな同情を寄せつつこの顛末を記したフレシエは、背後に横たわる政治的な力関係の影をも隠していない。カニヤックはかつて王権に刃向かった一派に荷担しており、宮廷における心証は極めて悪く、しかも今回の特別裁判で最初に捕らえられた大物貴族であった。これらの背景は裁判が帯びた見せしめの意味合いを如実に物語っている。されど、それらの事情を斟酌したとて、白日の下に晒された罪跡そのものを帳消しにすることはできなかった。
報告官のル・コックは子爵のために情理を尽くして弁じた。十四名の法官が評議に加わり、そのうち十二名が死刑に一票を投じた。記録者は法官たちの困惑と胸の内の動揺を書き留めている。法廷は被告人に深い憐憫を覚えながらも、断頭台へと送る判決を下すことができた。裁判官の良心や涙は、上訴を受理してくれる第二の法廷ではなかったのである。
クレルモンの城門
十月二十三日、カニヤックに死刑が言い渡され、間髪を入れず大聖堂の前で刑が執行された。宣告から命を奪われるまで、残された刻限はわずか数時間であった。妻は法官たちにすがりつき、幼き娘も一族の嘆願の列に加わった。彼女らは権力者に近づき、助命を乞い、その慈悲心に訴えかけることまではできた。しかし、下された鉄の判決を覆すことは叶わなかった。
フレシエとその一行は、凄惨な処刑の光景と街を覆う騒然たる世情を逃れようと散策に出かけようとした。しかし、クレルモンの城門は固く閉ざされていた。一行は町に留まるを余儀なくされ、非業の死を遂げた他の名高き罪人たちのこと、死に臨むその気骨、そして公開処刑が生ける者の記憶に刻みつける禍々しい爪痕について語り合った。
この対比は痛切である。子爵の周囲には、名門の威光、交友、一族の絆、往年の政争の記憶、そして尽きることのない風聞が今なお漂っている。これに対し、命を奪われた鷹匠の姿は、この記録のなかでほとんど顔さえ持たぬまま消え去っている。法の手続きは一度こそ彼を裁判の中心へと引き戻したものの、判決が下るや否や、世間は再び身分高き罪人の悲劇ばかりに目を奪われ始めた。ふたつの死のあいだに横たわる埋めがたい格差は、早くも元の澱みの中へと沈んでいったのである。
