断頭台の番人を頼むにしては、町役場の目利きした給金が些か渋すぎた。処刑の前夜、ベリー公領の古町ラ・シャトルでは、番を買って出た男たちが何人かいたものの、持ち出された日当の額に役人らは難色を示した。そこへバルボーヌと名乗るひとりの若者が現れ、銀貨五十スーの報酬で話をつけると、組み上がったばかりの厚板の上に身を横たえた。夜が明ければ、ベルナルデとダルシーの二人がその木組みの上で露と消える定めであった。とはいえ、この夜のうちは町役場の管理下にある仮設の工作物にすぎず、野ざらしにしておくわけにもいかなかった。かくて、断頭台の上でまどろむ番人の手間賃は、わずか五十スーで決着を見たのである。
この日を、町は幾週にもわたって待ち焦がれていた。最初の執行予定と噂された日には、近郷近在から押し寄せた群衆が肩透かしを食らい、重い足取りと満たされぬ curiosity(好奇心)を抱えたまま、すごすごと引き返していった。今度は違う。血のように赤く塗られた部材が荷車から降ろされ、組み上げられ、なかには手を触れて確かめる見物人すらあった。これだけの設えが整えば、明日は間違いなく血の饗宴にありつけるはずであった。
ことの発端は、火傷を負って野をさまよっていた、一頭の山羊にさかのぼる。
ラ・マルショワーズの遺産
「ラ・マルショワーズ」の通称で知られたジャンヌ・レモンは、八十五歳になる老女であった。ラ・シャトルに近いサン=ドニ=ド=ジュエの荒野に佇む粗末な小屋で、たったひとり暮らしていた。日々の糧のいくばくかは近隣の施しにすがり、あとは飼い山羊の乳で細々と飢えを凌ぐ。何日も人の声を聞かぬ侘しい暮らしにあって、この畜生こそが命の綱であり、唯一の語らい相手であった。
その身空でありながら、ジャンヌは六十フランという大金を溜め込んでいた。その額の重みは、この老婆が経てきた生涯の文脈において量らねばならない。切り詰めた日々の小遣い、我慢に我慢を重ねた食い扶持、そして何より、明日の施しに怯えずに生きられるという、貧者にとって無上の矜持である。新聞の伝えるところによれば、老婆はその金を見せびらかし、肌身離さず持ち歩いていたという。そのささやかな誇りを、降りかかった凶事の因果として責めるのは酷に失しよう。言えるのはただ、本来ならば老いた身を守るべき隣人たちにまで、その隠し金の存在が知れ渡っていたという事実だけである。
一八二九年十一月二十九日、近村の男が、野火に焼かれて毛を焦がした山羊が彷徨っているのを見咎めた。不審に思い小屋へ駆けつけると、粗末な家屋はすでに灰燼に帰していた。ジャンヌは山羊とともに逃げ出すことすら叶わなかったとみえ、焼け跡の残骸の中から黒焦げの遺骨が見つかった。だが、焔もすべての証拠を呑み尽くすことはできなかった。現場には明らかな血痕が遺されており、ただの失火でないことは誰の目にも明らかであった。
ラ・シャトルの司法官らが急行した。疑いの目は、かねて金銭の揉め事があり、老婆を脅迫していたと噂される隣人のダルシー、ならびにベルナルデ夫妻に向けられた。ダルシーの居宅の捜索では何の物証も得られなかった。だが、ベルナルデの家からは血の滲んだ斧、老婆の着衣、そして小屋にあったはずの貧相な家財が見つかった。煙と消えたはずの遺品が、他人の家の中でそっくり息を吹き返したのである。
ベルナルデは犯行の場にいたことを認めた。だが、その口はすべての罪を隣人のダルシーになすりつけた。斧を振るって老婆を殴り殺したのはダルシーであり、己は脅されて恐ろしさのあまり、家財の運び出しを手貸したにすぎぬ、というのである。自己弁護の筋書きとしては、実に都合よくできていた。盗品が手元にある理由を取り繕いつつ、直接の殺害行為を隣人に転嫁したわけである。むろん司法の役目は、このような我が身可愛さの告白を真に受けることではなく、証拠の真贋を冷徹に見極めることにあったはずであった。
二人の死刑囚と免訴された女
ベルナルデ、その妻、そしてダルシーの三人は投獄され、アンドル県重罪院へと送致された。公判は一八三〇年三月二十日に開かれた。審理の結果、ベルナルデの妻は無罪放免となったが、二人の男には死刑が宣告され、執行の地にはラ・シャトルの広場が指定された。公刊された記録は法廷の全証言を詳らかにしてはいない。判明しているのは、捜査の経緯とベルナルデの一方的な供述、そして法廷の壁を越えて社会を揺るがすこととなる、この断罪の宣告のみである。
判決の報はたちまち近隣の村々を駆け巡った。通信員の言によれば、ラ・シャトルの町で公開処刑が行われるのは実に三十七年ぶりのことであったという。本来ならば忌むべきその長き空白が、かえって公衆の猟奇的な期待を煽り立てた。囚人らは破毀院へ上訴に及んだが、野次馬らにとってこの一件は、もはや「処刑が何日に行われるか」という暦の上の興行にすぎなくなっていた。
四月十五日、破毀院は上訴を棄却した。町中が、市が立つ五月一日土曜日に刑が執行されると思い込んだ。近在の農民が押し寄せ、広場を埋め尽くした。だが、刑場に囚人の姿もなければ、あの忌まわしい木組みの道具すら現れなかった。ベルナルデ側が申し立てた恩赦の請願により、手続が一時差し止められたためである。群衆は散り散りになって家路についたが、新聞記者はその顔に浮かんだあからさまな失望を記録している。二人の男にとっては、命を長らえた数日間にすぎなかったが、集まった群衆にとっては、せっかくの足労が無駄になった日であった。
やがて恩赦の却下が届き、次の大市が立つ五月二十九日の土曜日が新たな処刑期日と定められた。町は再び色めき立った。家畜や穀物の取引という日常の営みと、二人の男の生を断つ儀式とが、同じ日時に、同じ広場で執り行われることとなった。近郷の者らにとって、それはいつもの市通いの道すがら、ついでに人の死を拝むだけの話であった。
すべてを悟っていた妹
処刑を二日後に控えた木曜日、四人の憲兵に護送された馬車が二人の死刑囚を運んできた。ダルシーは弱冠二十三歳。足枷をはめられながらも身軽に降り立ち、見知った顔に会釈を投げかけ、「疾しいことなど何もない、恐れる筋合いはない」と平然と言い放った。一方、五十歳になるベルナルデの衰弱は著しく、顔色は蒼白で、打ちひしがれていた。記録によれば、二人はこの期に及んでもなお、地元への移送を再捜査のための好機だと信じ込んでいたという。
ダルシーは妹との面会を乞うた。検察官はその願いを聞き届けた。だが、牢の扉を開けて入ってきた妹の瞳には、兄が縋るような微かな希望の光など微塵も宿っていなかった。妹は、これが今生の別れであると覚悟した面持ちで兄を抱きしめた。ラ・シャトルへの帰還が何を意味するのか、そのとき初めて、ダルシーの胸に真の絶望が突き刺さったのである。
ほどかれた腕、見慣れた肉親の顔の中に、何かの見違いであってくれと縋るような視線――。妹はすべてが終わったことを知って訪れ、兄はまだ明日の生を語れると信じて呼び寄せたのであった。ダルシーは己の無実を叫び、半狂乱となって取り乱した。その場に居合わせた検察官は「まだ何も決まったわけではない」と言葉をかけ、宥めようとしたという。新聞はこの発言を書き留めているが、役人が何を思ってその場しのぎの気休めを口にしたのか、真意は藪の中である。ただ、妹の冷酷な現実によって閉ざされかけたダルシーの胸に、その一言が再び儚い猶予の幻影を抱かせたことだけは疑いない。
だが広場では、すでに処刑台を組み上げるための木材が荷車から降ろされていた。その後ろを、女や子供らが物珍しそうにぞろぞろとついて回る。血塗られた赤い木枠は、初めこそ人々に薄気味悪い戦慄を覚えさせたものの、やがて群衆は恐る恐る近寄り、指配板を撫でまわした。どれほどおぞましい道具であれ、目の前に据え置かれ、そこに登るのが自分以外の誰かであると知れれば、人は容易に慣れてしまうものだ。そして夜の帳が下りる頃、五十スーで雇われたバルボーヌが、その板張りの上に寝床を定めたのである。
引き延ばされた三十分
土曜の朝、四時を回ると同時に最後の準備が始まった。検察官が牢を訪れ、もはや万策尽きたことを二人に告げた。ダルシーは運ばれてきた乳粥を喉に通した。司祭のピニェと助任司祭のグロが二人に寄り添い、祈りを捧げた。その頃、市が立つ広場には、黒山の人だかりができあがっていた。
正午、司祭に抱き抱えられるようにしてベルナルデが姿を現した。男は涙に暮れ、十字架に口づけを落とし、会衆に何の手向けも残さぬまま露と消えた。ひとりの罪人の法廷劇は、ここに幕を閉じた。だが広場の観衆は、まだ飢えていた。もう一人の主役であるダルシーを待っていたのである。しかし、待てど暮らせど男は現れず、三十分もの空白が流れた。通信員が書き留めたところによれば、見物人らの苛立ちは頂点に達し、まるで約束された取り分の半分を取り上げられでもしたかのような騒ぎようであったという。
ようやくダルシーが引き出されてきた。助任司祭は最期に真実を告白するよう促したが、若者は頑なに無実を主張し続けた。祈りを捧げ、司祭と抱擁を交わしたのち、男は民衆に向けて一言述べたいと願い出た。群衆の視線が注がれるなか、ダルシーは自らの名を朗々と名乗り、身に覚えのない罪によって殺されるのだと、最期の一瞬まで叫び抜いた。新聞はその厳粛な叫びを忠実に留めている。それは男の生きた証しとして歴史に刻まれているが、二百年の時を隔てた我々が、それをもって彼を無罪と断定する証拠とすることはできない。同様に、下された有罪判決の重みもまた否定し得ぬ事実であり、彼が残さなかった偽りの自白を、我々が勝手に捏造することも許されないのである。
刃が落ち、ダルシーもまた息絶えた。予告された二人の首が落ち、見世物は終わった。広場を埋めた群衆は、何事もなかったかのように散っていった。
殺されたラ・マルショワーズには、民衆に向けた最期の口上を述べる機会も、涙を流して抱きしめてくれる妹の面会も許されなかった。後世に残されたのは、その名と、焼け落ちたあばら家、傷ついた山羊、そして血と汗で購われた六十フランの銅貨ばかりである。司法の手で裁かれた二人の死に様については、町中で何週間も語り草となった。ならば、誰ひとりその最期の夜を気にかけることすらなかった、あの一人の老女の底知れぬ孤独にも、我々は等しく思いを馳せるべきではあるまいか。
