「泥棒だ!」と男が絶叫した。その切迫した響きに、周囲の者たちは一斉にたじろぎ後ずさりした。だが、エリザベータだけは一歩も引かなかった。恐慌をきたした群集の中にあって、他人の災難に我関せずと過剰に取り繕うことほど、自ら下手人であると白状する振る舞いはないからである。
彼女は幼い少年の手を引いていた。めったに物を買い与えられたことのない子供特有の、真摯な物欲しげな眼差しで、少年は露店を見つめていた。懐をまさぐられた商人は、己の着物の懐を狂おしく叩いた。長年慣れ親しんだその布地を、自らを裏切った罪人であるかのように激しく責め立てているかのようであった。つい先ほどまで、確かにそこにあったのだ。金巾着が消え去ってからまだ時も経っておらぬゆえ、大声を上げさえすれば手元に戻ってくるのではないかと錯覚するほどの近さであった。
「出口を塞げ! 通路を閉ざせ!」
一人の辻売りの男が、荷車を通路の真ん中に引き据えた。エリザベータはその障壁を見据え、次いで自らの指を固く握り返してきた少年に目を落とした。子供は何一つ察してはいなかった。だが、その無知こそが二人を破滅に導きかねない。なぜ後ろを振り返ってはならないのかと、子供が大声で尋ねてしまえばそれまでであった。
彼女はその場にしゃがみ込み、少年の靴下の紐を結び直す仕草をした。
日々の糧を紡ぐ者
世の噂が彼女を「黒衣のリース(シュヴァルツェ・リース)」の名で呼ぶようになる以前、エリザベータ・ガスナーは、ただ糊口をしのぐためだけの果てしない労苦を生きていた。編み物、季節ごとの日雇い仕事、前日の稼ぎを数え終えぬうちに次の夜明けが迫るような暮らしである。やがて家族を抱えるようになり、入用は日ごとに増していった。当初は細々とした稼ぎの足しにすぎなかった盗みが、いつしか暮らしの中心を占め、二度とそこから退くことはなくなった。
飢えをことごとく免罪符にし、貧苦のすべてを犯罪への宿命と見なすのは誤りであろう。しかし、盗賊の生涯を語るにあたり、まだその悪名に染まる以前の歳月を素通りすることは、あまりに無神経な怠慢というほかはない。判決とは常に事の終わりに下されるものであり、罰すべき罪業のみを冷酷に照らし出す一方で、そこへ至る道のりの薄暗がりを闇の中に置き去りにする。
ガスナーもまた、一所に落ち着いて暮らせるだけの金を手にしたことがあった。他人の指図を仰ぐことなく、自らの手で扉を押し開けられる我が家である。だが一七八一年、夫婦揃って捕縛されたことで、その安寧は無残に破綻した。逃亡、スイス、チロル、転々とする流浪の日々、そして新たな男の影。かつては救いへの脱出口であったはずの街道そのものが、彼女の生きる形となってしまった。
旅路にあって、多くを携えることはかなわない。それゆえ、僅かな獲物から最大の利を得ねばならなかった。
閉ざされた市
エリザベータは、子供の靴下の紐をゆっくりと結び直した。商人の怒号はなおも続いている。不意の騒動によって一時の権力を得た小役人風の男が、さも重大な任務を帯びたかのように尊大な態度で通行人を見定め始めた。
「誰一人気取って動くな!」
少年が口を開きかけた。彼女はすっと人差し指をその唇にあて、寒くはないかと小声で尋ねた。大人たちがこれほど血相を変えている折に、なぜそんな些事を気にかけるのかと怪訝そうに、子供は首を横に振った。それでも彼女は手提げ籠から古びた上着を取り出し、少年の肩へと羽織らせた。布の下には、人目に触れてはならないものが包み込まれていた。
にわか監視役の男が二人の前へと歩み寄ってきた。男はまずエリザベータの顔を凝視し、次いでその籠を見下ろした。彼女は求められるよりも早く、自ら籠を差し出した。底にあったのは、手入れ用の糸と一握りのパン、あまりに貧乏じみて見慣れた粗品ばかりで、検分した男自身がそれに注意を払ったことを気恥ずかしく思うほどであった。
「何か見かけなかったか?」
「ただ人の波でございますよ」と彼女は答えた。「市の立つ日でございますから」
近くにいた数人が失笑を漏らした。だが、巾着を奪われた商人にその戯れ言を楽しむ余裕などあろうはずもなかった。商人は少年を、そしてその肩に不自然に掛けられた上着を指差した。エリザベータは、繋いでいた小さな手が自分の掌から引き抜かれるのを感じた。子供は己が改められようとしていることを悟ったのだ。それまで従順だった少年の恐怖は、もはや彼女の術数で禦ぎきれるものではなくなっていた。
まだ何か手はあったかもしれない。人目を逸らす仕草か、あるいは運が味方した時にのみ「盗賊の神技」などと後世に持て囃されるあの一瞬の機転を繰り出すこともできただろう。しかし、彼女はただ少年を見つめ、何もしなかった。
代償
上着が滑り落ちた。金巾着が乾いた音を立てて石畳に転がった。ほんの一刻前まで怒号を交わさねば聞こえぬほどの喧騒であった市場に、その音だけが異様に明瞭に響き渡った。
商人は巾着を拾い上げ、数え、また数え直した。目の前に金が戻ったことによって、それが一瞬でも消え失せていたという事実がいっそう信じがたく思えるようであった。通路を塞いでいた男が、エリザベータの腕を乱暴にねじ上げた。少年は泣き叫んだ。女泥棒を待ち受ける過酷な運命を知ってのことではない。見知らぬ他人の手が、自分をここまで連れてきてくれた女から無慈悲に引き離そうとしたからであった。
ガスナーの流浪の道は、こうして終焉を迎えた。一七八八年、オーバーディッヒンゲンの露と消え、その波乱に満ちた生涯は幕を閉じた。犯した罪と科された極刑との間には膨大な調書が存在するが、後世の人々が記憶に留めたのは、もっぱら伝説を彩るにふさわしい華々しい挿話ばかりであった。家族との情愛、果てしない逃避行、日々の営みの労苦といったものは、酒の肴の噂話には残りにくい。
とりわけ、悪漢狩りの名手として知られたシェンク・フォン・カステル伯爵から鮮やかに財布を掠め取ったという話は、広く語り継がれた。口から口へと伝わるうちに、長年磨き抜かれた巷説特有の、危ういほどの完成度を帯びていった。女盗と裁き手、一塊の財布と痛快な報復、すべてが辻褄の合いすぎる美談に仕立て上げられたのである。だが、厳密な史料批判を試みるならば、どこまでが実際の加担で、どこからが後世の粉飾であるかを見極めねばならない。
耳に心地よい物語だからといって、一言で語り尽くせる講談が真実の重みを増すわけではないのだ。
少年の胸に残ったもの
――それから長い歳月が流れ、自活できるだけの年頃となったあの子の姿が、ある酒場にあった。夜の灯の下、一人の男が「黒衣のリース」の神出鬼没の手口を講釈している。卓を囲む客たちは、一杯食わされた伯爵の無様さに笑い転じ、貧民の女が権力者の鼻を明かした奇策を喝采していた。青年は黙って耳を傾けていた。あの日の市場の記憶から、奪われた金の額も、商人の青ざめた顔もすでに失われていたが、ただ一つ、自分の肩からあの古着が剥ぎ取られた瞬間に覚えた底知れぬ屈辱だけは、鮮明に焼き付いて離れなかった。
「あの女はな、ただの一度たりともヘマをやらかさなかったのさ」と語り手が得意げに断言した。
大人になった少年は、杯に伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。違う、と口を挟むこともできただろう。手提げ籠の貧相なパンのこと、捕らえられた腕の痛々しさ、何の断りもなく利用された幼子の信頼について証言することもできただろう。だが青年には分かっていた。強者が地に落ちる物語に快哉を叫びに来た者たちの前で、そうした生々しい細部など誰の胸にも響きはしないのだと。
彼は席を立ち、酒代を卓に置いた。
戸口のところで、なぜ結末まで聞いていかないのかと誰かが呼び止めた。青年は「結末なら知っている」とだけ答えた。背後で再び巻き起こる哄笑を背に受けながら、彼は無意識のうちに、僅かな銭の入った自らの懐へ手をやった。そして、今度は誰にも見咎められなかったその手の動きに、かつてと同じ羞恥を覚えながら、静かに腕を下ろした。
