本文へ移動
Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
詐称と巨万の富 · 英国

借り受けし貴人の名

ハットフィールド事件――世間の耳目を集めすぎた祝言が、希代の詐欺師に破滅をもたらすまで。

祝言の報せは、新郎の思惑をはるかに越えて遠方へと響き渡った。男が頼みとしたのは、己の端麗な風貌と、名門の威光、そして名士の来訪に色めき立つ田舎社交界の軽薄さであった。だが、バタミアの美姫が貴族の紳士と轇轕(こうかつ)を結んだという記事が新聞各紙に躍り出たとき、当の貴族の親族一同が、本物の居場所をしかと把握しているという事態までは思い至らなかったと見える。

本物のアレグザンダー・オーガスタス・ホープ卿は、そのときウィーンの空の下にいた。

そして、メアリー・ロビンソンと婚礼を挙げたこの男の真の名は、ジョン・ハットフィールドといった。

先立ちし名声

男がこの地に姿を現したとき、その身のこなしにも外見にも、あえて素性を証す書類を求めさせぬだけの気品が漂っていた。誰もが男を高貴なる家柄の出、下院議員、詮索を差し挟むのも野暮なほどの資産家と信じて疑わなかった。男はそのような世間の思い込みを否定することなく巧みに利用し、借財を重ね、信用を取りつけ、あるいは手元の不如意を言いつくろう際にも、その「名」の響きに大半の仕事を片づけさせていたのである。

ハットフィールドのこれまでの人生には、幾重もの前歴があった。贅沢に溺れては借財を重ね、獄窓につながれては他人の施しを得て出獄し、また別の土地で同じ芝居を繰り返す。女たちに借金の肩代わりをさせ、甘い約束をばらまいては、新たな獲物を求めて姿をくらます――あとに残された者たちの苦難など一顧だにせぬままに。この過去を知る読者ならば、なぜ人々がやすやすと騙されたのか訝しむかもしれぬ。だが、彼を迎えた地方の人々には、その過去を知る由もなかった。男はつねに、新たな土地へと初めて足を踏み入れる「見知らぬ紳士」として現れたからである。

湖水地方のバタミアで、メアリー・ロビンソンは父の営む旅籠の仕事を手伝っていた。紀行文の類がこぞってその美貌を讃えたため、旅人たちは山と湖を愛でる傍ら、この娘を一目見ようと押し寄せていた。もし己の娘が同じ目に遭わされたなら激怒したであろう無遠慮な視線に、娘はつねに晒されていたのである。

ハットフィールドは、この娘の名声が己の虚飾にどれほどの箔をつけるかを、瞬時に見抜いた。

湖畔の旅籠にて

雨に濡れた上着を払い、茶を所望する旅籠の広間を思い浮かべてみるがよい。窓の向こうには旅人を惹きつけてやまぬ景勝が広がり、給仕に立ち働くメアリーの耳には、本人がそこにいることなど意に介さぬ客たちの噂話が絶えず入ってくる。そんななか、男はほかの俗物たちとは一線を画す態度で娘に言葉をかけた。好奇の眼差しによって見世物同然に扱われていた娘を、一人の尊厳ある人間として遇してみせたのである。

男は幾度も足を運んだ。人々はその風貌に、その所作に、そして彼がそこに座している光景に見慣れていった。身分が高貴と信じられているがゆえに、その言動の奇矯さすら特権として許された。貧相な無名の手合なら警戒を抱かせたであろう振る舞いも、彼にあっては貴族ならではの鷹揚さとして受け取られたのである。

いかなる言葉をもって男がメアリーの心を射止めたのか、正確なところは知る由もない。ただ、娘の前に提示された夢を思えば足りよう。己だけに向けられた格別の情愛、うらぶれた旅籠を抜け出す広やかな前途、そして単なる名所旧跡の添え物としてではなく、一人の女性として見つめられたという感慨であったはずだ。

祝言は一八〇二年十月二日、ロートンにて執り行われた。これほどの婚姻が世間に秘匿され続けるはずもない。報せは新聞に乗り、ハットフィールドが詐称したその高名な名は、男の手を離れて独り歩きを始めた。

本主のもとへ帰る名

ホープ卿の親族は、本人はウィーンに滞在している旨を公に声明した。その瞬間から、ハットフィールドが偽りの身分を守るために張り巡らせた策は、ことごとく裏目に出た。名が知れ渡れば知れ渡るほど、辻褄の合わぬ綻びは白日の下に晒されやすくなる。

ホープ卿と面識のあった治安判事ジョージ・ハーディングは、その名を騙る男との引見を求めた。ハットフィールドも、もはやこれまでの嘘をそのまま押し通すことはできなかった。姓は確かにホープであるが、議員として知られるあの人物とは別人である、と男は弁明した。窮余の策であった。あまりに明白な嘘だけを切り捨て、役柄の輪郭だけでも辛うじて維持しようとしたのである。

だが、そのような小細工は通用しなかった。逮捕状が発付された。監視下に置かれたハットフィールドは、当初これを単なる人違いの過失として片づけようとした。彼を拘束する正当な権限を持つ者たちに対してさえ、厚顔な態度ひとつで躊躇を生じさせる術を、男は長年の経験から熟知していたのである。そして男は、まんまと逃亡に成功した。

メアリーにとって、この失踪は夫の単なる出奔とはわけが違っていた。もはや帰りを待つべき夫の姿はなく、この家を去った男がいったい何者であったのかを突き止めねばならぬ破目になったのである。かつて彼女を祝福した巷の噂話は、一転して冷淡な響きを帯びた。新事実、憶測、過去の悪評が次々と耳に届く。誰もが、彼女が婚姻の前に知るべきであった男の過去の断片を、いまや勝ち誇ったように持ち寄ってくるのであった。

カーライルの法廷

ハットフィールドはウェールズで捕縛された。一八〇三年八月、カーライルの法廷において、男は三件の文書偽造の罪に問われることとなった。世人の関心は世を騒がせた偽りの婚礼へと向いていたが、裁判には司法としての論告がある。単に偽りの夫として振る舞ったことのみを理由に断罪されるわけではなかった。

男は無罪を主張した。しかし証拠はことごとく認定され、同年、男は絞首台の露と消えた。辻馬車に飛び乗っては脱ぎ捨ててきた数々の偽名と詐術の生涯も、ついには己自身の名のもとに幕を閉じたのである。

当時の記録は、男が刑場でいかに冷静であったかを強調している。最後の瞬間の様子を細かに記したがるのは昔日の記録の常であるが、死に際の潔さによって、現世の生者たちに加えた傷が帳消しになるわけではない。メアリーにとって、男がどのような態度で最期を迎えたかなど知る必要もなかった。彼女は、男がかつてどのような顔をして彼女の前に現れたかを、すでに骨の髄まで知らされていたのだから。

やがて、メアリーとその家族を支援するための義捐金が集められた。世間の好奇心は、今度は同情という形で罪滅ぼしを試みたのである。もっとも、男の正体を暴く契機を作ったのもまた、その好奇心を煽った新聞紙面であった。この世論の二面性は公平に見据えねばなるまい。婚姻を見世物に仕立て上げたその同じ熱狂こそが、詐欺師の密やかな逃げおおせを阻んだのだから。

華やかなる名の果てに

後年、メアリーはある農夫と再婚した。多くの伝記が末尾の数行で片づけてしまうこの事実こそ、深く省みられるべきであろう。世間がいつまでも囚われていたあの悲劇の枠組みの外へと、一人の女が確かにその足で歩みを進めた証なのだから。

バタミアの美姫と偽りの紳士をめぐっては、数多の物語や詩、芝居が作られた。だが、彼女自身はそのような虚像を望んだことなど一度たりともなかった。その後も旅籠の客の中には、彼女の身の上を知っていると口にして、本人が喜ぶとでも信じ込んでいる無神経な輩がいたかもしれない。彼らが知っているのは、世間が飽きもせず反芻し続ける「事件の断片」にすぎないのだという分別を持つ者は、滅多にいなかったはずだ。

本物のホープ卿は己の名を取り戻した。ハットフィールドは己の名もろとも命を失った。そしてメアリーの前には、裁判の判決のような華々しさとは無縁の、しかし尊い責務が残されていた――あの男の影など微塵もささぬ、当たり前の日々を積み重ねてゆくという営みが。

この歴史事件から新たな小説が生まれます

次なる刊行作品の選定にご参加ください

この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

ウィーンより届きし名

祝言の数日後、夫が遠き異国に滞在している旨を報じる書状が届く。だが、当の夫はいま目の前の食卓に腰掛けているのだ。

投票数を読み込み中…

長篇小説(ロマン)

偽りのホープの妻

夫が幾重にも重ねてきた偽りの半生を知る若き妻。彼に騙された者たちは皆、過去の破片を握りしめながら、それを口にせぬ理由を抱えていた。

投票数を読み込み中…

大河三部作(トリロジー)

三つの名を持つ夫

一人の稀代の詐欺師が置き去りにした三人の女たちの視点から描く三部作。彼女たちが男による償いを待つことをやめたとき、それぞれの道が交錯する。

投票数を読み込み中…

1つの事件につき1票(いつでも変更・取消可能)。多くの支持を集めた企画から順次書籍化を進めます。投票データの保存について。

他の小説企画をサロンで見る →
歴史的典拠と文学的再構成について

本件の経緯は『英国人名事典』(Dictionary of National Biography)およびナショナル・トラストの解説記録に依拠している。処刑の正確な日付については諸説が存在する。ハットフィールドが裁かれた罪状は文書偽造であり、偽装結婚そのものが司法判断の直接の根拠となったわけではない。

← 事件記録室(全1,003篇)一覧へ戻る