八年もの間、下働きを務めてきたその屋敷において、マリーは主の娘その人であった。食事の折には主人と同じ食卓に席をあてがわれながら、家名を名乗ることだけは頑なに拒まれていた。父は臨終に際し、召使いへの手当と同様にわずか六百リーヴルを遺贈したに過ぎず、母は娘をあたかも受洗の教え子(名付け子)であるかのように装って他家へ嫁がせた。医師の遺品の中から一通の古い書簡が姿を現さぬ限り、この若き女は、いかなる取り決めも認めたがらなかった真実――自らが仕えるその家こそが生家の血筋であること――を、決して我が手に掴むことは叶わなかったのである。
疑惑の産声
ジョアシャン・コニョは医師を生業としていた。1589年、すでに齢を重ねていた彼は、バール=シュル=セーヌにて当時二十九歳であったマリー・ナシエを妻に迎えた。二人の間には幾人かの子が生まれたが、長命を保ち得たのは長男クロードのみであった。1597年、コニョは職を得てフォントネー=ル=コントへと赴く。妻は二年後に夫の後を追い、その地で一人の女子――マリーを出産した。しかし、妊娠七か月での早産であったことが、夫の心に不義の疑念を抱かせることとなる。受洗簿には紛れもなく両親双方の名が記されていたものの、夫の胸底に巣食った疑惑を拭い去ることはできなかった。年代記には不貞を裏付ける証拠など何ひとつ記されておらず、ただ父がその疑妄を生涯の身の処し方として貫いた様が綴られている。
背負い籠の赤子
1601年、コニョは妻と幼子を伴ってパリへと移り住んだ。彼はマリーを背負い籠に入れさせてサン=マルソー場外領まで運ばせると、一人の錠前鍛冶の妻にその身柄を託した。養育料の額を定め、初月分を前払いし、子の洗礼名のみを告げて家名は決して明かさなかった。乳母を探す男とそれを引き受ける女――その委託は何の変哲もない日常の取り決めとして始まった。しかし、姓を秘匿し続けた医師の沈黙こそは、のちに女が正当な養育費を請求する手立てを奪い、何食わぬ顔で姿を消すための周到な布石であった。
編纂者シャンパニャックは、母がこの遺棄を黙認した背景には、長男クロードへの偏愛があったと指弾している。記録によれば、母はおよそ一年後に素性を隠して一度だけ子の様子を見に訪れたものの、二度と姿を見せることはなかったという。母性に寄せる年代記の筆鋒は容赦がない。だが書き残された事実を追うだけでも、マリーの身に起きた過酷な運命は明白である。やがて仕送りが途絶え、錠前鍛冶の妻は頼るべき宛てもなく、自らの細腕ひとつでいつまでも他人の子を養い続けることなど叶わなかった。彼女はやむなく、幼子をトリニテ施療院へと預け入れた。
富める父、孤児の娘
やがて、手元に残した長男クロードも病に倒れ、帰らぬ人となった。手塩にかけて育てた跡継ぎを失いながらも、夫婦が手放した娘を呼び戻すことはなかった。それどころか、両人は全財産を互いに贈与し合う契約を取り交わしている。その間、医師コニョの出世の道は順風満帆であった。王妃マルグリットの知遇を得て近侍となり、莫大な富を築き上げたのである。年代記は、この華々しい成功とマリーの零落とを鮮烈に対比させる。養育料の支払いを止めた男は、決して困窮に喘いでいたわけではなかった。医師の財力も名声の恩恵も一切受けることなく、娘は遥か遠くの底辺で歳月を重ねていた。
偶然の再会
縺れた糸を再び手繰り寄せたのは、ほかならぬあの錠前鍛冶の妻であった。彼女はマリーを施療院から引き取り、公証人の代筆職人のもとへ年季奉公に出していた。赤子を預かってから十四年ほどの歳月が流れたある日、彼女はサン=ジェルマン場外領に住む柳細工職人の妻を訪ねた。その折、往来を通り過ぎる一人の男の姿に、かつて幼子を預けにきたあの男の面影を認めたのである。友人はその名を即座に口にした。それこそ近隣に居を構える、シャリテ病院の医師コニョその人であった。この思いがけない邂逅によって、長年宙に浮いたままであった負債に、ようやく支払うべき主の居所が判明したのである。
錠前鍛冶の妻は知恵を絞り、コルドリエ修道院の病床にある修道女を診察させる口実を設けて彼を呼び出させた。門前で待ち伏せした彼女は、娘を引き取ること、そしてこれまでの養育費を清算することを厳しく迫った。対するコニョは巧妙に話をすり替えた。背負い籠を担いでいた男こそが実の父親であり、自分はその場に付き添ったに過ぎないと言い張ったのである。だが、代筆職人のもとでマリーが患っていると知るや、医師は二度にわたって娘のもとを見舞った。やがて錠前鍛冶の妻が夫婦の屋敷へ談判に押しかけると、医師は娘を連参するよう求めた。
下女としての帰還
母はマリーを見るなり、この娘が一年にどれほど稼ぎ出せるかを詮索した。その問いかけは、実子をすでに雇い人として値踏みする冷淡な視線であった。錠前鍛冶の妻はそのような論点のすり替えを断固として拒んだ。小間使いを周旋に来たのではなく、託された赤子を親の手に返すために来たのだ、と。埒が明かぬと悟った彼女は、コニョをサン=ジェルマンの代官裁判所へ提訴した。公廷での醜聞を恐れた医師は示談を選んだ。彼は四百リーヴルの支払いに応じ、マリーを下女として雇い入れることを承諾したが、自らは決して父ではない旨を一筆書かせた。裁判沙汰を避けるための「慈善の施し」と称して事態を決着させたのである。
かくしてマリーは生家の敷居を跨いだ。示談は養育費の負債を幾分か償いはしたものの、親子の絆に対する偽りの覆いは剥がされぬままであった。その後の八年間、娘は実の両親に召使いとして傅き、同じ食卓で飯を食んだ。与えられた名は「マリー・クロワッサン」。年代記の記すところでは1625年、ジョアシャンが八十六歳で世を去った際、その遺言書にも下女の名義のまま六百リーヴルが遺贈されただけであった。残された未亡人は、自らの名付け子という体裁を取り繕い、娘相応の身分の男へと彼女を嫁がせることで、欺瞞の幕を引き続けようとした。
暴かれた古書簡
だが、運命は一通の手紙によって覆される。亡き父の遺品整理の折、母の手元にあった文書のなかに、かつて母自身がしたためた手紙をマリーは見つけ出した。そこには「幼きマリー」の身を案じ、仕立てていた着物のことなどが親密に綴られていたのである。若き女はその紙片を手元に残そうとしたが、母は力づくで奪い返した。シャンパニャックは、その時の哀願の情景を生々しく活写している。マリーは他言無用を誓い、ただ母の口から実の娘であると言葉をかけてもらいたいと泣き崩れた。だが母は、あまりに歳月が経ちすぎたこと、そして己の世間体を理由に、どこまでも実子と認めることを頑迷に拒んだ。過去の沈黙を守るため、更なる沈黙を重ねたのである。
未亡人はやがて、財産こそないが子連れのランスの旧徴税評議員と再婚した。マリーは幾度となく母へ哀訴を重ねたが、ことごとく撥ねつけられた。もはや「母」と呼びたいという情愛の問題だけに留まらなかった。ジョアシャンが遺した莫大な資産が義理の家族へと掠め取られようとする一方で、実の娘はあてがわれた下女の身分に永遠に縛り付けられようとしていたのである。窮余のマリーは、サン=ジェルマン代官裁判所へ訴え出た。親たちが家庭内の便宜として闇に葬ってきた不義理を、今度は司法の場で正さねばならなかった。
代官裁判所はコニョ未亡人に対し、マリーを正式に実の娘と認め、亡夫の遺産から相応の取り分を分配するよう命じる判決を下した。高等法院も控訴を棄却し、原判決を支持した。シャンパニャックの記録には判決の正確な日付も法廷での審理録も残されていないが、その結末のみを明確に伝えている。マリーは己の正当な名と権利を勝ち取ったのである。かつて錠前鍛冶の妻が未払いの養育料を求めて医師を訴え、次いで娘自らが、我が家における「見知らぬ他者」の軛を脱するために母を訴えた。二度にわたる司法への訴えが、形を変えて引き継がれてきた非情なる棄児の鎖を、ようやく断ち切ったのである。
