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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · フランス

枕頭の偽証

一七八二年、リュネル。資産家ポーレの亡骸が井戸より引き揚げられた際、召使らと近隣の者たちは故人の名誉を守らんとして、その死の真相を隠蔽した。だが、これを不審とした実妹は、遺産目当ての謀殺であるとして彼らを告発する。ここに、五年の歳月を費やす泥沼の法廷闘争の幕が切って落とされた。

人々はポーレの亡骸を井戸の底から引き揚げた。しかるのち、床の傍らに倒れていたのを発見したと口裏を合わせたのである。誰ひとりとして、息のあるうちに救い出したなどと偽るつもりはなかった。その虚妄はただ、当時の法が自死の科に科していた過酷な不名誉から、故人の尊厳と、おそらくはその一族の誇りを守らんがための方便にすぎなかった。しかし、脱ぎ捨てられた衣服は姿を消し、水底には帽子が取り残されていた。あまつさえ、遺骸を密かに運んだ者たちの中には、遺言書による受遺者が含まれていたのである。かくして、彼らが死者を悼んで巡らせた警戒は、寸毫の狂いもなく、残忍な毒手による謀殺の嫌疑へとすり替えられていった。

ポーレはリュネルの街に居を構えていた。かつては実妹である未亡人ムルグとともに暮らし、当時の記録によればその仲はきわめて睦まじかったという。その平穏を破ったのは賭博であった。一七六八年頃、莫大な財を賭け事に失って精神の錯乱を来したポーレに対し、妹は準禁治産の宣告を裁判所に申し立てるに至る。これによって甥が財産管理人に据えられ、ポーレ自身はプロヴァンスのサン=レミにある施設へと収容された。年代記の筆者シャンパニャックは、その牢の番人たちと施された処遇を冷厳な筆致で書き残している。やがてポーレはこの幽閉の地を脱走してリュネルの近郊へと舞い戻ったが、自らを閉じ込めた妹を激しく怨嗟し、その姿を避け続けた。

田舎での潜伏生活を経て、法的な名誉回復を勝ち取ったポーレは、自邸と財産の占有を取り戻した。当初はヴァレス夫妻を雇い入れたものの早々に暇を出し、旧知の縁者を身辺に招き入れた。それがデュクロと、その妻マリー・コトンである。マリーはポーレの収容以前から彼に仕えており、夫のデュクロもまた幼少の折からポーレの身辺で育った男であった。夫妻には子があり、隣町に居を構えたまま通いで奉公をしていたため、その一家が主の邸内に寝泊まりすることはなかった。この細部にこそ、のちに彼の最期の夜を検証するうえで重大な意味を持つこととなる。

ポーレは幾度も遺言書を書き改め、夫妻への深い感謝を刻み込んだ。一七八〇年六月三日付の最後の遺言書においても、各所への遺贈を差し引いたのちの全財産を、彼らに引き継がせる旨が約されていた。記録の筆者はこれを、苦境を共にした篤き絆の証と見なしている。しかし、亡き主の実妹にとって、それはやがて血塗られた殺害の動機へと変貌を遂げることとなる。手厚い介抱と遺された金子——同じ人間関係であっても、語り手の視線ひとつでその相貌は一変する。遺言書という証文は厳然として残るが、そこに込められた真意を巡っては、誰もが自らに都合のよい解釈を語りたがるものだからである。

一七八二年九月、ポーレは狂ったように再び賭博へと没頭し始めた。ビリヤード台の前に夜を徹して居座り、伝えられるところでは約四千リーヴルもの大金を鎔かすように失ったという。彼は極貧の幻影に怯え、食事の一切を拒み、官憲の手が今にも自分を捕縛しにやってくると妄執に取り憑かれた。デュクロは彼を安んじようと、役人へ取りなしの申し立てをしたふりをし、恩赦が出たと偽りの言を弄して宥めようとした。シャンパニャックはこの狂乱を当時の医学用語を用いて書き留めている。今日的な診断名を下すことはせずとも、その記述を追えば、募る妄執、食の断絶、そして主の心身を鎮めんとした周囲の苦心惨憺たる様が克明に浮かび上がってくる。

十月三十一日、ポーレは何の予告もなくデュクロ夫妻の前から姿を消した。妹の住まう街へと赴き、宿屋から人をやって甥を呼び寄せたのである。これまで親族との再会を頑なに拒んできた男が、突如として面会を請い、過ちを悔いる言葉を口にして、その宿に一泊した。そして翌朝早く、彼は踵を返して去っていった。それから数日を経た十一月六日、ポーレは再び妹を連れてくるよう所望した。マリー・コトンはその夜、邸内に泊まり込んで看病に当たろうと申し出たが、彼はそれを退けた。記録によれば、マリーは主の異変を親族に急報せねばと案じていたものの、他言を無用に禁じる主の懇願に遮られ、明朝を待つこととしたのだという。

翌朝、マリーは買い出し用の籠を手に、まずポーレの邸へと立ち寄った。合鍵を用いて中へ入ると、寝所の窓が大きく開け放たれていた。主の姿はなく、普段着の衣服も見当たらない。声を限りに呼びかけたが、返答はなかった。彼女は夫のもとへ走り、デュクロがその鍵を手に引き返して邸内を隈なく捜索した末、ついに中庭の井戸の底に沈む遺骸を発見した。デュクロは親族へ急を報じるとともに、外科医のバルテルミを呼びに走った。その間に、マリーは隣人である靴職人のロンバールとその息子、そして娘婿を伴って戻ってきた。

亡骸は引き揚げられ、濡れた衣服を解かれ、水気を拭われて寝台の上へと横たえられた。検分に当たったバルテルミは、もはや蘇生の術なしと宣告した。記録が伝えるところによれば、あの一連の破滅的な口裏合わせが結ばれたのは、まさにこの瞬間であった。その場にいた誰もが自死と確信していた。そして、みずから命を絶った大逆罪人として遺骸が公の場で辱めを受け、引き回されるという当時の苛烈な刑罰を、誰もが恐れたのである。外科医は事の真相を伏せるよう一同に授けた。寝台の脇で行き倒れていたと証言せよ、と。脱がされた衣服は老ロンバールの家へと隠され、デュクロ夫妻は妹のもとへ「突然の頓死」を告げる使者を立てた。

親類縁者や野次馬で埋め尽くされた屋敷に、やがて司法官の手勢が踏み込んできた。マリーは申し合わせ通りの筋書きを口供し、他の証人たちもそれに倣った。だが、兄の死を知らされた未亡人ムルグは、つい先日の訪問を持ち出し、兄は全財産を己に譲渡する意志を示していたと言い募った。彼女の目には、デュクロ夫妻が新たな遺言状の作成を阻止すべく、先手を打って兄を手にかけたのだと映ったのである。未亡人は即座に告発に踏み切った。年代記の筆者は終始デュクロ夫妻を擁護する立場を取っているが、それでもなお、この黒い嫌疑がいかにして確固たるものとなっていったかを理解するに足る事実を書き残している。遺産の受取人たる者たちが、恩人の最期の場所について偽証を重ね、肝心の衣服はいずこかへ消え去っていたのだから。

遺骸の検死結果は、彼らの陳述と真っ向から衝突した。医師らは溺死との見解を下し、死体の各所に認められた打撲痕を調書に詳細に記録した。それでもなお、デュクロ夫妻は当初の嘘を頑なに突き通した。だが、井戸の水底からかつらと帽子が引き揚げられ、夫妻がそれを主の所持品であると認めるに及び、検察官は夫妻の即時逮捕を請求した。しかし予審判事はこれに踏み切らず、さらなる事実の究明を期して捜査の続行を命じた。この判断は、虚偽の証言や疑惑の目を拭い去るものではなかったが、妹の妄執的な推断が直ちに無実の投獄へと短絡することを、かろうじて押し留めたのであった。

十二月三日、さらなる家宅捜索が命じられた。もはや偽装を維持し得ぬと悟ったロンバール家の人々は、ついに密約の存在を白状した。隠されていた衣類が差し出され、その濡れそぼった痕跡は、遺体を井戸から引き揚げた折の経緯と寸分の狂いもなく合致した。井戸の水が汲み干されると、底の石や砂利の具合から、他殺による襲撃ではなかったかという憶測が再燃した。だが鑑定人らは議論を重ね、シャンパニャックが詳述する医学的見地からその可能性を明確に退けた。血痕のついた布も検証されたが、それは濡れそぼり血の滲む遺骸を拭き清めるために用いたものと判断された。痕跡そのものは消えておらずとも、発見直後の愚かな隠蔽工作を証人たちが告白したことによって、すべての符合が別の意味を帯び始めたのである。

外科医もまた、みずからが偽装を教唆した事実を認めた。判事は現場の所見、衣服、帽子、そして生前のポーレの狂乱に関する証言を突き合わせた。依然として収監の令を出すことはせず、疑惑の渦中にある六名——デュクロ夫妻、バルテルミ、ロンバール父子、そして娘婿のヴィアラに対し、法廷への直接出頭を命じるにとどめた。未亡人ムルグはこれを不服として控訴した。一七八三年八月八日、上級裁判所は未亡人の訴えを退け、デュクロ夫妻の身柄拘束を解いたものの、事件をさらなる審理のため第一審判事へと差し戻した。告発の暗雲は、なおも彼らの頭上を覆い続けていた。

一七八四年六月二十二日、リュネルの国王代官法廷はついに彼らから嫌疑の一切を免除する判決を下した。未亡人は訴訟費用の負担を命じられ、賠償金としてデュクロ夫妻に千五百リーヴル、ロンバール家に千二百リーヴル、バルテルミに三百リーヴルを支払うよう言い渡された。だが未亡人は再び控訴の挙に出た。一七八六年に至ってもなお、彼女は夫妻への有罪判決と、リュネル施療院の貧民救済に充てる名目での一万リーヴルの支払いを執拗に要求し続けた。この長き年月の間、判決によって権利を認められたはずの被告らは、雪だるま式に膨らむ訴訟費用の前に疲弊し尽くしていった。身の自由こそ保たれていたものの、裁判の炎は彼らのささやかな生活の糧を無残に焼き尽くしていったのである。

未亡人の死をもってしても、この怨嗟の法廷劇は幕を下ろさなかった。デュクロ夫妻は、勝訴判決の完全なる確定を勝ち取るべく、亡き未亡人の息子を相手取って訴訟を継承したのである。一七八七年八月十四日、トゥールーズ高等法院は被告六名の完全なる無罪を宣告し、原告の控訴を棄却して、損害賠償の支払いを命じた原判決を確定させた。あわせて、この無罪判決の主文を印刷し、告発者側の費用負担をもって街頭に広く布告掲示することを命じたのである。裁きは法廷の壁を越え、世の衆目に晒されねばならなかった。幾年にも及ぶ過酷な嫌疑の果て、彼らの潔白はいや増して広く知られる必要があったのだ。この果てしなき追奪劇の発端には、遺産を巡る血族の醜い執着のみならず、六人の凡夫が胸に宿した、ある哀しき思い違いがあった——死者の尊厳を守らんとするあまり、生きている者たちに対して真実を隠し通そうとした、あの一夜の過ちである。

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この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

隣家の麻布

一人の洗濯女を狂言回しに据えた歴史犯罪中編。資産家の頓死の直後、彼女のもとに染みのついたシーツの洗濯が持ち込まれる。それは見知らぬ他家の名が縫い込まれた布であったが、未亡人は詮索無用とばかりに返却を懇願する。やがて無実の奉公人が捕縛されるに及び、洗濯女は二枚の布が取り違えられた洗濯籠の行方を追うこととなる。奉公人の何気ない気配りが、周到に仕組まれた殺人計画の第一の物証へと変貌していく緊迫の法廷劇。

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長篇小説(ロマン)

沈黙の受遺者たち

亡き主の愛娘の将来を守るため、その不名誉な死の真相を隠蔽することに同意した三人の男女を描く長編小説。だが、遺言状が忽然と姿を消し、そのうちの一人が殺害の罪で告発されたとき、かつての密約は牙を剥いて彼らを追い詰める。一家の過去を知る女性代言人は、三人がそれぞれ遺言状の断片を密かに隠し持っていた事実に突き当たる。真実を語れば無辜の者を救えるが、その告白は彼らが命がけで守ろうとした娘の人生を根底から破滅させる——道義の隘路を描く心理サスペンス。

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大河三部作(トリロジー)

布告された判決録

冤罪を雪いだ無罪判決の公示板の印刷を請け負う公認印刷人を主人公とする三部作。第一部『血塗られた遺贈』は、紛糾する遺産争いと口封じに斃れた証人の謎を追う。第二部『偽りの裁断』は、本物の凶手を免罪せしめた偽造判決書の出所を巡る追跡劇。第三部『断獄の灰燼』では、数多の名家の暗部を記した記録を遺して急死した予審判事の謀殺の真相を暴く。法の名において公にされた判決の言葉が、時に新たなる殺意の引き金を引く連作法廷ミステリー。

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歴史的典拠と文学的再構成について

原典記録(V04)を完全に読了した上で執筆。原資料は被告六名に対して明確な同情を寄せる立場を取っており、当時の医学用語や告発内容をそのまま客観的事実として扱うことなく、後知恵による病名断定や犯行手口の断定は排した。一七八〇年六月三日の遺言作成、一七八二年秋の精神的錯乱、十一月六日夜から翌朝にかけての変死、十二月三日の再捜索の経緯を厳密に踏襲している。一七八三年八月八日の上告審判決は身柄不拘束と第一審への差し戻しを命じたにすぎず、完全な無罪宣告ではない点に留意。一七八四年六月二十二日のリュネル国王代官判決による免責と賠償命令、未亡人の死後も続いた控訴、そして一七八七年八月十四日のトゥールーズ高等法院による無罪確定および街頭掲示命令に至る司法手続きの段階を正確に描写した。未亡人ムルグが真犯人である証拠は歴史上存在しないため、その立場を保った。人名(デュクロ、マリー・コトン、ロンバール、バルテルミ、ヴィアラ)の混同を避け、前任のヴァレス夫妻との区別を徹底。死亡日時の厳密な確定を避けつつ、翌朝の発見の推移を破綻なく構築した。

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