ジョン・スミスは、サラ・トンプソンを脅すつもりこそあれ、命までは奪う気はなかったと終始主張した。ロンドンはワッピングに近いエルミタージュ界隈の路上で、彼が女の胸元に短筒を突きつけていたところ、異変に気づいた通行人たちが引き離そうと割って入った。その揉み合いのなかで銃声が響き、止めに入ったひとりであるマシュー・ウォルデンが凶弾に倒れたのである。ニューゲイト監獄の記録が伝えるところによれば、それは計画的な謀殺などではなく、己の意を通そうと凶器を手にした男の粗暴が、無関係の第三者を巻き添えにした悲劇であった。
スミスはかつて軍籍にあった。その家柄や素性について編纂者は多くを知らないが、アン女王の治世下、フランドル各地を舞台に戦われた戦役において、歩兵連隊に属して武名高き働きを見せたと記されている。隊長は彼を重用し、ともに大胆不敵な軍功を好んだという。戦線において食糧の調達は両軍の衝突をしばしば招く危険な任務であったが、スミスが記録の中で「奇異なる功績」と称される武勇を示したのも、まさにそうした物資略奪の現場においてであった。
ある日、フランス軍の強襲に遭い、隊長は刈り取った秣を捨てて陣営へと逃げ帰った。スミスは主人の乗馬を連れ、両軍の中間に広がる野原で草を食ませるよう命じられる。見渡せば、フランス軍の砦のすぐ近くで、ひとりの少年が二頭の馬を引いている姿が目に留まった。着ていた黄色い仕着せと、ぎこちないワロン訛りの言葉遣いを頼みとし、スミスは敵兵を装えるものと踏んだ。隊長の馬を立ち木に繋ぐと、徒歩で間合いを詰めていく。少年は味方の兵が近づいてきたものと信じ込み、時刻や主人の身元を尋ねるスミスの問いに、疑うこともなく応じた。
起伏の陰となり、フランス軍陣地からの視界が遮られる瞬間をスミスは待った。間髪を入れず少年に飛びかかると、あらかじめ用意していた猿轡をその口に押し込み、両手を背後に縛り上げたうえで、二頭のうち優れた方の馬を奪って跨がり逃走した。ただちに警報が鳴り響き、背後から銃弾が浴びせかけられたが、彼は傷ひとつ負わずに自陣へと駆け戻ったのである。少年を拉致し軍馬を掠め取ったこの一幕は、記録においては男の剛胆さの証左として語られている。それは、血気盛んな犯罪者を前にした当時の編纂者が、いかにその武勇を伝奇的な逸話として飾り立てるかを物語るものでもある。
危険の渦中に飛び込んだのは、この一度にとどまらない。隊長とともに再び秣調達に出た折、金貨百ピストールを所持していた部隊の士官が小競り合いのなかで討ち死にした。夕闇が迫り、両軍ともが増援の到着を待つ緊迫した状況にあって、敵の監視の目をかいくぐり遺体を収容できる者はいなかった。スミスは、回収した金貨の半分を己の取り分とすることを条件に、危険な回収役を買って出る。隊長がこの条件を呑むと、スミスは地を這うように二百ヤードの距離を匍匐し、死者の懐から金貨を抜き取って、敵に気づかれることもなく無事に戻ってきた。
軍の解散後、スミスは水兵へと転身し、ビング提督の指揮下でメッシーナ海戦に従軍した。記録の注記は、一七一八年に行われたスペイン艦隊に対するビング提督の遠征に言及しているものの、彼がいつ退役したのかまでは定かにしていない。地中海からの帰還後に除隊を果たすと、スミスはロンドンへと舞い戻った。だが得た給金を忽ちのうちに使い果たし、路銀を得んとして小盗みを重ねるようになる。記録の筆者は、この転落の大きな要因として、のちに処刑されるウールフォードという悪友との交わりを挙げている。スミスはその処刑に立ち会ったのち、あろうことかその妻を我が身に引き取って暮らしていた。
惨劇の発端は、かつて深い仲にあった女との再会であった。サラ・トンプソンはスミスを捨て、別の男のもとへと去っていた。記録はその破局を、女が彼に負わせた背信として一方的に描き、サラ自身の言い分に耳を傾けることはない。ワッピングの路上で偶然サラの姿を認めたスミスは、通り過ぎるどころか、その胸元に短筒を突きつけ、罵詈雑言を浴びせて脅迫した。凶行を止めに入り、女をその手から救い出そうと、周囲から数人の通行人が駆け寄る。
その揉み合いのさなか、短筒が火を噴いた。弾丸はマシュー・ウォルデンを捉え、男はその場に斃れて息を引き取った。集まった群衆は一斉にスミスを取り押さえ、凶器を取り上げた。記録は裁判において事実関係が極めて明白であったと簡潔に記すのみで、法廷での証言や審理の細かな応酬には触れていない。スミスは次期のオールド・ベイリー開廷期において有罪の判決を受けた。サラに対する殺意の有無をいかに争おうとも、救助に駆けつけた者を己の銃で撃ち殺したという厳然たる事実は、覆しようもなかったのである。
獄中にあってもスミスは泰然とした態度を崩さず、己の身を滅ぼすことになった放埓な悪習を悔い、命を縮める引き金となった最後の過ちを嘆いた。面会に訪れる者たちに対しては、身を持ち崩した女たちの「罠」に決してかからぬよう戒めの言葉を吐いた。これらは当時の教訓的な説教や、彼が遺した手記特有の語り口であり、罪の因由を女へと転嫁する意図が透けて見える。しかし、処刑場で役人に差し出した書簡において、彼は妻を虐待し続けてきた事実を認め、彼女は自分には勿体ないほどの貞女であったと告白していた。はじめに妻のもとを去ったのも、借金苦と乗船のためであったと弁明している。さらにサラに対しては、決して殺害するつもりなどなく、装填された銃を胸に突きつけながらも自制心を保っていたと主張した。彼自身の言い分によれば、怒りに任せて女に投げつけたのは短筒ではなく蝋燭立てであったという。自制の証拠として持ち出されたこの細部すらも、所詮は己を正当化するための抗弁に過ぎなかった。
スミスはまた、艦上で盗みを働いたことは認めたものの、陸に上がってからの盗奪については頑なに否認した。だがこの否認は、ロンドン帰還後の数々の盗行を伝える年代記の記録と真っ向から食い違う。断頭台の足元に遺された文書は、必ずしも男の生涯を真実のままに映し出す鏡ではない。最後に彼は、自らの不始末によって妻や幼子たちが世間の誹りを受けぬよう、彼らは何ひとつ罪のない身であると言い添えた。この期に及んでの家族への気遣いは、彼が置き去りにしてきた家庭の存在を浮き彫りにするが、その言い訳めいた文言と、編纂者が記録にとどめた無残な事実との間の埋めがたい溝を消し去るものではない。
ジョン・スミスは一七二二年二月八日、タイバーンの刑場で処刑された。享年四十余りであった。軍服をまとい、戦場での蛮勇を上官に称えられた男の歩みは、何の関係もない通行人を路上で撃ち殺すという無惨な凶行の果てに幕を閉じた。年代記は悪友との交わりや女の惑わしを声高に論じるが、この痛ましい顛末において何よりも動かしがたい事実は、ただひとつである。スミスがサラ・トンプソンに銃口を向け、割って入った者たちの手の中で銃爪を引き、そしてマシュー・ウォルデンが無惨に命を落としたということ、それに尽きる。
