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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · フランス

バルベット街の凶変

一四〇七年、オルレアン公ルイはパリの街頭頭角にて、ブルゴーニュ公「無畏公」ジャンの一党と目される手勢に襲撃され落命した。この凶行の正当化とそれに続く報復の連鎖は、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の泥沼の権力闘争を決定づけた。のちの一四一九年、ジャン無畏公もまたモントローの橋上における王太子との会見の場で斃れることとなる。年代記は第二の暗殺について複数の異説を伝えるのみで、何者が下手人であり、いかなる命によるものであったのか、確たる真相を定めるには至っていない。

オルレアン公の手がなお手綱を握り締めていたその刹那、バルベット街の闇をついて武装せる一隊が公を取り囲んだ。凶行の刻限は夜の七時半前後とされる。一四〇七年のその夜、公の従者は一頭の馬に相乗りした二名の小姓と、先触れを務めるわずかな従卒にすぎなかった。この殺害劇はオルレアン家とブルゴーニュ家の確執に終止符を打つどころか、報復という新たなる業火をもたらし、その責の所在をめぐっては今日に至るまで諸説が相半ばしている。

すでに数年にわたり、両門は宮廷の主導権をめぐって激しく相克していた。シャンパニャックの年代記によれば、ブルゴーニュ公ジャン――通称「無畏公」――は重税に喘ぐ民衆の不満を巧みに煽り、パリ市内に確固たる与党を築いていたという。対するオルレアン公もまた兵力を集結させつつあった。両陣営の衝突がいよいよ不可避と見えた矢先、両者は突如として和解を遂げる。年代記の筆者はこの和睦を偽りの協調と見なし、互いに腹に一物あったと断じるが、当時の心底を窺い知る確たる証拠は残されていない。史料が語る外形的事実にとどめるならば、両公は公の面前で親愛の情を交わし合い、枕を並べて臥し、同じ杯の聖体を拝し、義兄弟の契りを結んだと記録されている。

その盟約も束の間、オルレアン公はバルベット街において兇刃に倒れた。十八名の刺客が一斉に襲いかかり、一隊を率いていたノルマンディーの士爵ラウル・ドクトンヴィルが先陣を切って斬りつけたとされる。手綱を握る公の片腕を刎ね飛ばし、次いでその頭蓋を砕いた。主君の危急を救わんと身を挺した小姓のジャコブ・ド・メールもまたその場で切り伏せられた。行手を照らしていた従卒らは狼狽するばかりで防ぎ得ず、下手人らは追手を阻むため路地に火を放ち、闇夜へと姿を消した。

年代記には、慎重を期して風聞の域を出ぬと断ぜざるを得ない一節も書き留められている。近隣の家屋より頭巾で顔を覆った一人の男が現れ、倒れた公にとどめの棍棒を振り下ろしたというのである。その男こそブルゴーニュ公その人であったとの噂が囁かれた。しかしながら、原典はこの嫌疑を裏付ける物証を示さず、それを立証すべき再捜査の経緯にも触れていない。ただ襲撃者らが公の手勢であったこと、そして翌日の葬儀にジャン無畏公が列席し、自ら謀殺せしめたはずの犠牲者の前で空涙を流したと記すのみである。

オルレアン公の未亡人と遺児が裁きを求め、糾問の手が伸びるや、ジャン無畏公は領地フランドルへと逃れた。だが程なくして千人余りの武勢を従えて都へと舞い戻り、記録によれば、この凶行をあろうことか自らの政治的勲功へと仕立て上げたのである。貴族院は大理石の法廷への出頭を命じたが、公は武装した手勢を率いて堂々と乗り込み、国家を疲弊させ王冠を危うくした君側の奸を誅伐したまでであると、公然と凶行の正当性を主張した。

公を弁護した托鉢修道士ジャン・プティは、聖書に記された幾多の弑逆の叙述を引き合いに出し、この暴挙を義挙なりと弁舌を振るった。シャンパニャックはこの詭弁を痛烈に論難している。神聖なる教典が単に事実として記した暴行を、法規の如く曲解したと指弾するのだ。されど民衆はこの弁論に熱狂し、ジャン無畏公を英雄として迎え入れた。かくて法廷の審理は正義の執行の場であることをやめ、公権の美名のもとに暴力の行使を正当化しあう、二大陣営のむき出しの抗争の場と化した。

かくして勃発した内乱は、ブルゴーニュ派と、オルレアン公の岳父アルマニャック伯の名を冠したアルマニャック派との凄惨な私闘へと発展した。年代記によれば戦乱は七星霜に及び、権勢を握った側が敗者を絞首台へ送り、暗殺し、あるいは火刑に処した。ジャン無畏公に煽動されたパリの肉屋の徒党が、この惨劇で大きな役割を果たしたという。争いは軍勢の衝突や首魁の断罪にとどまらず、市井の路地にまで染み渡り、隣人を不穏分子と密告するだけで捕縛と死へ直結する恐怖が街を覆った。

一四一八年、ジャン無畏公はついにパリを制圧し、狂気の国王と国権を手中に収めた。公に従う兵卒らは肉屋や皮剥ぎの暴徒と結託し、アルマニャック派の屋敷を襲撃しては、住民を牢獄や断頭台へと引きずり出した。年代記は、国王派の忠臣らが城塔から槍衾の上へ、あるいはセーヌ川の濁流へと投げ落とされた様を描き出す。私腹を肥やす盗賊らも党争の混乱に便乗した。シャンパニャックは四肢の切断や婦女子への暴行など数々の惨禍を書き留めているが、本稿においては要点のみを記すにとどめよう。すなわち都の陥落は、客観的な裁判の体をなすこともなく、ただ政治的帰属のみを理由とした報復の狂宴を招いたのである。

年代記が描き出す宮廷の情景もまた、陰鬱を極めている。狂気に囚われたシャルル六世は、飢えと着た切りの窮状に打ち捨てられ、国中は兵乱と塗炭の苦しみに呻吟していた。王妃イザボー・ド・バヴィエールは双方の公爵の間を立ち回り、私利を図ったと責め立てられている。もっとも、王妃の私生活に及ぶ非難は年代記作者の党派的悪罵の色濃く、厳たる史実と見なすことは慎まねばならない。ある日、狂乱の発作に襲われた国王が、王妃の傍らにいた男を捕らえさせ、麻袋に縫い込めて川へと沈めさせたという異聞も記されているが、これとても確たる証拠を伴うものではない。

国王が党派の調停者たる威信を喪失したこのフランスにおいて、ジャン無畏公の覇権は揺るぎないものに見えた。ブルゴーニュ派がふたたびパリへ乱入した際、王太子の忠臣タンギ・デュ・シャテルは、主君を外套に包んで救い出し、ムランへと辛くも落ち延びさせた。やがてブルゴーニュ公は、のちのシャルル七世となる王太子との直接会談を望み、妥協の道を探り始めた。この申し出の動機が、戦乱への厭戦であったのか、悔悟であったのか、あるいは底知れぬ権謀術数であったのか、記録の行間からは判然としない。

一四一九年、会見の地はモントローの橋上に定められ、両者の対面のために仮屋が設けられた。ジャン無畏公は胸中の惑いを振り払い、約定に従って十名の騎士のみを連れて橋上へと進み出た。だが、そこで待ち受けていた武装せる一党によって、公は惨殺されたのである。伝えられる経緯の責の所在は一様ではない。ヴォルテールが記すごとく、タンギ・デュ・シャテルが王太子の御前で太刀を浴びせたともいわれ、あるいは王太子自らが兇行を指図したと糾弾する声もある。いずれの説を真実と断じるにも、史料はいまだ決定的な証を欠いている。

父の非業の死を受け、ジャン無畏公の嗣子フィリップは報復の裁きを叫んだ。高等法院は大理石の法廷へ王太子を召喚し、欠席裁判のまま死刑を宣告したうえ、臣民に臣従の誓いの解除を申し渡した。シャンパニャックは、のちにシャルルがジャンヌ・ダルクの奮戦を得て王冠を取り戻し、イングランド軍を駆逐した事実を付言している。また、王太子を無実と見なし、この暗殺はオルレアン公旧臣らの遺恨と、ジャン無畏公自身の軽挙が生んだ悲劇にすぎぬと説く史家の見解も併せて引いている。

最初の暗殺は、指図した首魁の権勢そのものによって免責された。対する第二の暗殺は、欠席裁判の判決をもってしても、後世の諸記録をもってしても、いまだ決着のつかぬ嫌疑のなかに漂っている。二つの死の狭間で、路上の凶刃はいつしか政治の正当化の方便へと姿を変え、さらなる断罪の口実へと転じた。モントローの凶変の真の黒幕が誰であったのかという結論以上に、この告発の連鎖が孕む不条理こそが、本年代記が読者の胸に遺す問いにほかならない。

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この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

三つの印章

橋の袂で無惨な骸となって発見された急使エティエンヌ・ロルミエ。その懐からは、仇敵たる三人の諸侯の印章が見つかった。公爵家の写本師の娘アリーヌは、それらの印章が同一の休戦を告げる別々の偽書に捺されていた事実を突き止める。両家が血で血を洗う報復の火蓋を切ろうとするなか、彼女は無実の者の処刑を阻むべく、偽筆の主を追う。登場人物および事件はすべて架空の物語である。密書を偽造した黒幕の狙いと、闇に葬られた兇行の真相とは。宮廷の暗闘を描く歴史法廷ミステリ。

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長篇小説(ロマン)

橋下の約定

和睦の場が一転して血の惨劇と化したモントローの会見を背景に描く、架空の歴史警察小説。若き姫君の侍女マルゴ・ド・ソレルは、小礼拝堂で刺殺された小姓の遺体と、王太子の関与を匂わせる封印された密命書を見出す。だがその書状は、対立派閥を陥れるべく事件の直後に書記官によって偽造されたものであった。兇行の目撃者となった弟の命を救うため、マルゴはパリとディジョンを結ぶ使者の足跡を追う。登場人物および事件は架空の創作である。小姓を手にかけた真犯人は誰か。策謀と執念の追跡劇。

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大河三部作(トリロジー)

休戦の血痕

仇敵同士の交渉のたびに繰り返される三つの凶行――毒殺された急使、評議室で討たれた小姓、条約の途上で斃れた諸侯。現場に残された書状はことごとく敵対陣営を指し示していたが、そこに捺された蝋の印影には、肉眼では見分けがたい微細な欠陥が共通して刻まれていた。若き彩飾写本師アリックス・ド・ボーヌは、それらの印章が一つの工房で刻まれた偽物であることを暴き出す。登場人物および事件はすべて架空の物語である。泥沼の内乱の再燃を阻むべく、彼女は姿なき偽造者を追い詰めることができるのか。

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歴史的典拠と文学的再構成について

原典通読済。該当章は一四〇七年および一四一八年の年号を掲げ、バルベット街におけるオルレアン公ルイの暗殺、一四一八年のパリの虐殺、そしてモントローの橋上における会見と暗殺の顛末を詳述している。第一の暗殺について章内では十一月二十一日との日付が示されるが、考証上不確かな要素を含むため本文中では年号の記載にとどめた。ジャン無畏公の没年たる一四一九年については、一連の事件の編年および補足指示に従って採用したものであり、当該章そのものにはモントローの事件の正確な年号は記されていない。シャンパニャックによるジャン無畏公の動機、イザボー王妃やシャルル六世をめぐる風評、虐殺の主導権に関する断定は、いずれも年代記作者の党派的論争としての性質を明記して扱った。一四〇七年の現場でブルゴーニュ公自らがとどめを刺したとする巷説も、原典の記述に従い風聞の域を出ぬものとして整理している。一四一九年の凶変については、ヴォルテールがタンギ・デュ・シャテルの刃と断じたこと、および王太子の指図を疑う説の双方を併記し、いずれをも断定しなかった。既存記事台帳(public360およびcap400)との重複確認済:オルレアン公暗殺、ジャン無畏公の横死、モントローの事件を扱った既刊記事は存在しない。

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