本文へ移動
Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · オーストリア

医官らの断ぜざりし毒薬

一八五七年、マリー・ニクルは幾度もの激しい嘔吐の果てに世を去った。母テレーゼ・ブラウンを受取人とする生命保険が結ばれてより、わずか数月のちのことである。初回の鑑定にて砒素が検出され、母には有罪の宣告が下る。しかし控訴審において再鑑定の不一致と医学校の疑義が重なり、毒物と死因との因果関係を確証する術は失われた。一八五九年、訴訟は打ち切られたものの、一八七一年の記録筆者はなおその罪を確信してやまない。

保険金の受取人は、母たるべしと定められていた。一八五七年一月、ウィーンの一角にある保険社を、初老の女が訪れた。十五歳の娘に生命保険を掛けたいのだという。娘には婚姻の予定があり、五千フローリンの持参金が約されているため、その保全を図りたいのだと女は語った。ただし、娘が没した折には、母親である己が金を手にする手筈になっていた。会社はこの申し出を受理した。数月のち、二期目の掛金が納められて間もなく、一本の訃報が届く。マリー・ニクルがシュターツの自宅で息を引き取ったというのである。

会社側は被保険者本人の出頭を求めており、もし姿を見せねば割り増し手数料を課す定式であった。同年一月十八日、ペーター・ブラウンが継娘のマリーを伴って現れた。そこに母テレーゼの姿はなかった。当時の記録は、六十余りの病弱な風貌をしたこの男と、傍らに立つ微笑をたたえた生気ある少女との際立った対照を書き留めている。証書は調印され、初回の掛金が支払われた。のちに訃報に接した支局長ベンヴェヌーティは、あの日の情景をありありと思い起こし、直ちに部下のひとりをシュターツへと走らせて内情を探らせた。

一八七一年にこの顛末を所収した『新ピタヴァル』によれば、母はテレーゼ・ブラウン、娘はマリー・ニクルと記録されている。母テレーゼは、軍医上がりの田舎医者であったペーター・ブラウンと再婚していた。ペーターは重い事故を境に患者の多くを失い、貴族の領地付き医官の職も免ぜられ、借財の山に喘いでいた。これに対し、テレーゼの先夫の子であるマリーは無類に健やかで、愛想よく、近隣の信望も厚かった。記録が描き出すのは、暗澹たる家計の逼塞のただ中に置かれた、無垢な少女の姿である。

一月十八日、五千フローリンの保険証書が結ばれ、初回掛金が支払われた。五月には二回目の納付も済まされた。この二つの期日のあわいに、娘は二度、激しい病に倒れている。四月、母の供したビールを口にしたのち激しく嘔吐したが、数日のうちに快復した。五月には、一杯の珈琲を飲んだ後に再び発作が襲った。近隣の医師ラドナーが診察し、激痛と嘔吐を確認したものの、その折には死に至る重患とは見なさなかった。五月十八日、往診に赴いたラドナーに対し、テレーゼは娘がウィーンの医師と近々縁組する手筈であると語り、病状は重いのかと問うた。医師が案ずるに及ばぬと答えると、彼女は静かにこう言ったという。「先生、見ていらしてください。この子は死にますよ」。それからわずか三時間後、マリーは事切れた。

不審を抱いた保険社は、日数の短さと症状の符合について医師に注意を促した。遺体は掘り起こされたが、検死解剖を経てもなお、直ちには死因を断定し得なかった。しかし、摘出臓器の分析を委嘱されたウィーンの化学者らは、致死量に達する砒素を検出したと報告した。これを受け、コルノイブルクの裁判所は刑事審理の口火を切った。疑いの目はブラウン夫妻へと向けられる。ペーターの薬局には砒素が保管されており、娘の飲食の一切はテレーゼひとりの手で調ぜられていたとの証言も上がっていた。

検察側は幾多の状況証拠を積み上げた。逼迫した家計、両親に転がり込む巨額の保険金、困窮した身には重すぎる掛金の負担。テレーゼは契約に際し、医師へ健康診断書の下付を執拗に求めていた。彼女がしたためた書簡には、老いゆく夫婦が無一文になるのを防ぐため、と記されていたという。娘の二度の発作はいずれも母の給した飲み物の直後に生じ、母自ら死を予告していた。さらに医師の証言によれば、娘の死後も彼女に動揺の色は薄かった。これに加えて持ち上がったのが、婚約と持参金にまつわる作り話であった。マリーはマエ某という医師に嫁ぐ手筈だったとテレーゼは言ったが、記録筆者はこれを、保険契約を糊塗するための虚構と断じている。そのような求婚者の存在を知る村人は一人としていなかった。

一八五八年一月十四日、開廷された公判には群衆と新聞記者が殺到した。ペーター・ブラウンはその二日前に獄死しており、法廷に妻と同席することはなかった。テレーゼは娘毒殺の嫌疑を一貫して否認した。マリーは望まぬ結婚を恐れ、家の借財を苦にして自ら命を絶ったのではないかと抗弁したのである。だがラドナー医師をはじめとする証言者らは、日頃の娘が健康かつ快活で、情夫の話も死の願望も口にしたことなどなかったと陳述した。化学者らは生体組織から砒素が検出されたと証言し、検察官はそこに、五千フローリンを狙った冷酷な計画殺人の動機を見出した。

下された第一審の判決は厳罰であった。テレーゼ・ブラウンは毒殺および保険詐欺の罪で有罪とされ、終身禁錮刑を言い渡された。弁護側は直ちに控訴した。初期の鑑定手続きの不備を突き、化学者アドルフ・シャウエンシュタインの所見を添えて抗告に及んだのである。ウィーンの上等裁判所は、医学校へ審理記録の鑑定を付託した。医学校側は砒素の存在そのものは否定しなかったものの、初回の鑑定手法は杜撰に過ぎ、有罪判決の確固たる根拠とはなし得ないと断じた。判決は破棄され、再鑑定が命じられた。

二度目の鑑定のために残された臓器組織は、わずかな量に過ぎなかった。別の二名の化学者は、そこからアンチモンと、微量ながら検出可能な砒素を析出させた。四名の鑑定医らは最終的に、体内から少なくとも二グレーンの砒素が検出されたという点では合意に至った。されど、肝心の死因を巡って医師らの見解は真っ向から割れた。ひとりは生前に投与された毒薬が死を招いたと主張し、もうひとりは毒死と断定することは不可能であると論じた。それにもかかわらず、裁判所は再び終身禁錮の判決を下した。上等裁判所はこれを再度破棄した。二人の医師の対立が解消されぬまま刑を科すことは許されぬという判断であった。検察側はこの差し戻しに抗弁したが、最高裁判所は破棄を支持した。かくしてウィーン医学校に二度目の諮問がなされた。その結論は、現存する資料によるかぎり、マリー・ニクルが砒素によって落命したと断ずることは不可能である、というものであった。

契約の調印から、はや二年の歳月が流れていた。保険証書は手元に残り、薬局に眠る砒素も、娘に与えられた不審な飲み物の証言も消えてはいない。しかし、鑑定と差し戻しが繰り返された果てに、かつて第一審判決を支えていた医学的確証は、裁判官たちの手から完全に零れ落ちていた。同一の記録が二度までも終身刑を導き出しながら、弁護側の疑義によって、司法は死因そのものの原点へと引き戻されたのである。

その差異はわずかな間隙に過ぎなかったが、決定的な意味を持っていた。体内に物質が存在することと、それが死をもたらしたこととは同義ではない。死因が不分明である以上、毒殺罪をもって断ずることは不可能であった。一八五九年八月三十日、裁判所は公訴を打ち切り、テレーゼの釈放を命じた。『新ピタヴァル』の記録筆者はこの結末を苦々しく拒み、母の有罪を信じて疑わず、初期の鑑定不備を激しく難詰している。その憤懣は記述の端々に滲み、人物描写や品性の評定にまで及んでいる。しかし、筆者が引き写した記録そのものは、主観の確信を歴史の審判へと昇華させることを許さない。

書の結びには、一八六〇年にテレーゼが下宿屋の女将から真珠の首飾りを盗んだ罪で有罪となり、九か月の禁錮刑に処された旨が書き添えられている。この追認の沙汰は、別の証拠によって裏付けられた、まったく別の非行に過ぎない。マリーの非業の死に決着をつけるものでは毛頭なかった。盗まれた首飾りには裁きが下った。しかし、マリーの死は、遂に誰にも裁かれることがなかったのである。

この歴史事件から新たな小説が生まれます

次なる刊行作品の選定にご参加ください

この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

ヴァルドゥーヌの証書

独立した短編小説。架空の町ヴァルドゥーヌ、一八八六年。身内が年金保険を結んだ直後、ひとりの針子が無残な死を遂げる。証書に記された文面に不審はなかったが、二人の立ち会い証人の筆跡は食い違い、町医者は往診の時刻を書き換えていた。若き女性公証人は、紙面に記された受取人が真の受益者ではない可能性に気づく。拙速な鑑定によって一家全員が断罪されるのを防ぐべく、彼女は封鎖された実験室の金庫をこじ開けねばならない。金銭、証拠、そして世評を巡る謎を追う短編小説。

投票数を読み込み中…

長篇小説(ロマン)

検体保管室

独立した中・長編小説。架空の港町ブレヴァン、一九一一年。貿易商の急死を受け、ある女性分析官のもとに封印された二つの検体が持ち込まれる。最初の報告書は未亡人の毒殺を告発していたが、第二の鑑定では捜し求める物質の痕跡すら確認できない。未亡人は固く口を閉ざし、船医は姿を消し、保険会社は公判を待たずに支払いを急ぐ。実験室の手順と封印の経緯を辿り直した分析官は、器具の洗浄不備という致命的な過誤の影を掴む。生体組織内の「存在」と「死因」を峻別すべく法廷を説得しようとする女性を描く法廷サスペンス長編小説。

投票数を読み込み中…

大河三部作(トリロジー)

セレーヌの三審

独立した全三巻の連作大河小説。架空の邦セレーヌを舞台に、三代にわたる司法官の一族が、奇怪な契約、毒見の薬、そして食い違う証言に彩られた怪死事件に対峙する。第一部では、死亡前日に結ばれた生命保険の闇に挑む若き女性判事を描く。第二部ではその息子が、二つの鑑定結果が真っ向から対立する実験室の迷宮へと踏み入る。第三部ではその末裔たる女性が、半世紀にわたり封印されてきた未解決審理の扉を開く。各事件はそれぞれ決着を迎えるが、受け継がれし一冊の実験手帳が、証拠の真実をめぐる問いを世紀を超えて継承していく。手帳で結ばれた三つの審理を描く大河連作小説。

投票数を読み込み中…

1つの事件につき1票(いつでも変更・取消可能)。多くの支持を集めた企画から順次書籍化を進めます。投票データの保存について。

他の小説企画をサロンで見る →
歴史的典拠と文学的再構成について

一八七一年刊行の回顧的二次資料に基づいており、当時の裁判原本そのものではない。章見出しには「一八五七年〜一八五九年」とあるが、OCR目録に見られる「一八六七年〜一八六八年」の記述は誤読であり、本文の年代記実と矛盾する。本文は、初回の砒素陽性反応、第一審の有罪判決、その後の鑑定の紛糾と結論の不一致、そして一八五九年八月の公訴棄却決定の経緯を伝える。編纂者は独自の倫理観から犯行を強く確信し、道徳的断罪を交えて筆を走らせているが、これらは客観的事実として確定されたものではない。のちに付記された窃盗事件とその服役は、マリーの怪死事件とは法的・事実関係において峻別されるべき事柄である。

← 事件記録室(全1,003篇)一覧へ戻る