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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · 英国

放たれざりし一弾――ウィリアム・ヘイブロンの冤罪

巡査ニコラス・コック殺害の廉で死刑を宣告されたウィリアム・ヘイブロンは、辛くも減刑を得た。それから三年、希代の凶賊チャールズ・ピースが真犯人たるを自白する。その言の信憑性を吟味した末に国王の特赦が下るも、告白の経緯や補償金の多寡を巡っては、今なお記録の間に齟齬が残されている。

ウィリアム・ヘイブロンの訴訟記録は、二度にわたって閉じられた。最初は死刑宣告の鉄槌によって、二度目はニコラス・コック巡査を斃した真犯人が別に存在するとの公的な認定によってである。この二つの判断の狭間にあって、若き庭師は終身刑への減刑という名の桎梏に数年間喘ぎ、他方で罪を名乗り出た男は、自らの処刑を目前に控えていた。司法はその筋書きを覆したものの、被告から奪い去った歳月を返還することは叶わなかったのである。

一八七六年、ニコラス・コックはマンチェスター警察の巡査として、ウォーリー・レンジ地区の警邏に当たっていた。後年にH・B・アーヴィングの著述が伝えるチャールズ・ピースの告白によれば、ピースは押し込み強盗の最中に庭園へ潜入したところを警官らに発見され、コックに向けて発砲したのち闇に紛れたという。一方、『ロイヤル・コーンウォール・ガゼット』に転載された『マンチェスター・クーリエ』当時の記事は、事件直後の数時間に判明した事実を淡々と伝えている。コックは通行人と行き交って言葉を交わし、間もなく二発の銃声が響き渡った。やがて道端に倒れ伏す重傷の巡査が発見される。同僚や他の警官らが駆けつけたものの、凶器の銃は影も形もなかった。これら二つの記録は、その性質を著しく異にしている。新聞は渦中の初動捜査を写し取り、アーヴィングは後年にピースの口から出たとされる筋立てを書き留めているからである。

しかしながら、最初の捜査線が伸びたのは、あの庭園の闇からではなかった。発端となったのは、かつて巡査に向けられた脅迫の言であった。アーサー・グリフィスが伝えるところによれば、ウィリアムとジョンのヘイブロン兄弟は泥酔の廉でチャールトン=カム=ハーディの治安判事廷に引き据えられ、ウィリアムは法廷を立ち去る際、夜の帳が下りぬうちにあの警官を撃ち殺してやると言放ったという。このくだりには年記の紛れが見受けられる。グリフィスは一八七五年七月と記し、その記述に続けて同夜にコックが落命したかのように連ねているが、英国議事録(ハンザード)は犯行を一八七六年八月と明記し、アーヴィングも公判を同年十一月としている。一八七九年の議会質問もまた有罪宣告の月を八月としているが、十一月二十七日に開廷した公判の事実とは符合せず、議論の中の誤謬とみなさねばならない。アーヴィングは召喚と科料の日付を一八七六年七月および八月と位置づけている。二つの典拠を突き合わせることで、往時の編年記の瑕疵を隠すことなく、正しい時系列を復元することが可能となる。

その脅言は、複数の証人の耳に届いていた。当時の新聞は、コックと直前に言葉を交わした通行人シンプソンが銃声を聞きつけて取って返し、瀕死の巡査がかろうじて巡査部長を呼ぶよう口走ったと報じている。警察は直ちにヘイブロン三兄弟を拘縛し、初日のうちに彼らの長靴と現場の足跡との照合に及んだが、その鑑定結果は伏せられたままであった。宿所を知悉していたベント警視は手配を敷き、その住ま居を取り囲ませた。ウィリアム、ジョン、フランクの三人は寝床の中で縛についた。新聞の速報によれば、彼らの居室や庭を入念に家宅捜索したものの、犯行に結びつく物証は何ひとつ上がらなかったという。翌日、さらなる証跡と供述が集められた。グリフィスの筆録は、足跡が兄弟の長靴と寸分の狂いもなく一致したと結んでいる。

だが、これらの証拠が悉く判然たる事実を語っていたわけではない。コック巡査は息を引き取る前に、下手人の顔貌をしかと特定することができなかった。遺留された足跡は、発砲者の歩み板と兄弟の履物とを結びつけはしたものの、真犯人の人相も、確たる犯行時刻も指し示してはいなかった。マンチェスター市内の銃砲店からは、ウィリアムが実包の値段を詮索していたという新たな端緒がもたらされた。証人らはまた巡査への脅迫を口々に証言し、夜九時には床に入ったと言い張る兄弟を、十一時頃に酒場で見かけたと証言した。グリフィスによれば、被告らの弁明は反対尋問の前に脆くも綻び、各人の申し立てた不在証明はことごとく瓦解したという。事件草創期の新聞報道は、捜査結果が未だ公表されぬうちから、早くも過去の脅迫と巡査の死とを結びつけ、靴底の照合が進んでいる旨を書き立てていた。尤もらしい物語の構築と物的徴候の結びつきは、かくして真犯人の同定に先んじて独り歩きを始めたのである。

公判は一八七六年十一月二十七日、マンチェスター巡回裁判所において幕を開けた。弟ジョンには無罪が言い渡されたものの、主犯と目されたウィリアムのみに有罪の評決が下り、死刑が宣告された。内務省の政務官が後年に庶民院で言及したところによれば、裁判長自身、証拠の趨勢からしてウィリアムが自ら引き金を引いた男でないことは明白であると看取していたという。それにもかかわらず、積み重ねられた状況証拠と被告自身の不用意な言動が、陪審員らに犯行への関与を確信させてしまったのである。裁判長は法の手続きに従って極刑を言い渡したものの、刑の執行は直ちに停止され、終身懲役へと減刑されることとなった。

ここにおいて、「発砲した」ことと「関与した」こととの懸絶した相違が、鉛のような重みとなってのしかかった。恫喝の事実、交友関係、そして長靴の照合は立証されたが、薄れゆく意識の巡査による明確な面割りは為されぬままであった。陪審は、個々に見れば不確かさを孕む諸要素を、一つの総体として呑み込んでしまったのである。減刑という恩典はウィリアムを絞首台の露と消える運命からは救い出したが、決して無罪放免としたわけではない。世人は彼を、なお人殺しの汚名のもとに置き去りにした。

この法廷の傍聴席に、チャールズ・ピースの姿があった。H・B・アーヴィングの筆によれば、評決を見届けたピースはシェフィールドへと遁走し、ウィリアムは獄裏で刑に服し続けたという。一方グリフィスは、リーズ刑務所における自らの処刑を目前にしたピースが、一切の犯行をあからさまに告白し、それを受けて直ちに再捜査の端緒が開かれたと主張している。他方アーヴィングは、その詳細な自白はリトルウッド牧師に対して為されたものであり、この聖職者がピースの言葉を世に伝えたのだと論じている。このように二人の記録者は告白の直接の受取人を巡って見解を異にしており、議事録(ハンザード)も刑死の前に告白のあった事実は裏づけつつも、それを聞き届けた者の実名までは明かしていない。

無論、自白の一言のみを鵜呑みにすることは叶わなかった。名乗り出た男は別の殺人罪によってすでに死刑を宣告され、死を待つ身であった。ヘイブロンの公判を傍聴し、事件の公知の細目を熟知していた彼は、自らの最期を聊かでも殊勝に見せかけようと画策したとも考えられたからである。内務大臣は、この告白に対して最も厳格な調査を尽くさねばならぬと断じた。大臣は公判を担当した裁判長、王室法務官、ならびに練達の法廷弁護士に諮問を重ねた。綿密なる検証の末、ピースの供述は複数の枢要な点において動かぬ裏づけを持つと判断された。裁判長も法務顧問らも、等しくこの結論に首肯したのである。

一八七九年三月十七日、内務大臣は庶民院の壇上において、ウィリアム・ヘイブロンに国王の特赦を奏上する旨を公表した。大臣は、公判の当初より裁判長自身が「ヘイブロンは発砲者にあらず」との心証を抱いていたがゆえに刑の執行停止が命じられていた事実を改めて喚起した。新たな自白は、単に先行する評決を別の証言で塗り替えたにとどまらない。それは有罪宣告の当時に示されていた司法の疑義と、後日重ねられた周到な再捜査とが合流した帰結であった。ウィリアムは特赦を受け、獄門を出でて自由の身となった。

これに伴う金銭的補償もまた、独自の曲折を辿った。三月二十五日、内務大臣は、新聞各紙が取り沙汰した二百五十ポンドの支払いを確約した覚えはないとしつつも、同額の手当てを確保しており、出獄した青年の行く末をいかに保障すべきか協議中であると弁明した。グリフィスの記録は補償金の額を八百ポンドと伝えている。さらに下って一八八一年の議会において、ある議員はヘイブロンに給付された金額を千ポンドと見積もっている。これら諸記録の数字は一致をみない。議事記録は政府による救済金の拠出を証言してはいるものの、最終的な下付金の確定額を今日において断定することは困難である。

そして最後に、この痛ましき冤罪の端緒を開くこととなった巡査コックの死が残される。渉猟し得た諸資料は、犯人の面割りに資するほど詳細な彼のいまわの際の言葉を伝えておらず、後代の言説はむしろ同僚警官らの証言を主軸に据えている。真犯人たるチャールズ・ピースの素姓は、彼自身が犯した別の罪によって死刑を言い渡され、死の淵に立たされるまで白日の下に晒されることはなかった。その間にあって、脅迫の事実、実包の購入疑惑、ぬかるみに残された足跡といった「真実の断片」は、引き金を引かなかった無辜の青年の周囲へと手繰り寄せられ、彼を縛る縄目となったのである。

かくしてウィリアム・ヘイブロンの事件は幕を閉じた。吟味され、裏づけを得た自白の受容と、それに続く特赦によって。失われた青春の獄中歳月が払い戻されることは終ぞなかった。誤謬の公的な承認を欠いたまま刑の減軽が行われることもあれば、無実の証明が世に知らしめられたとて、かつて新聞紙上に刷り込まれ、囚人の身の上に刻みつけられた最初の物語を完全に拭い去ることはできない。本件の記録を繙く者は、証言によって裏づけられた恫喝、曖昧模糊たる面割り、恣意的に解釈された足跡、死刑囚ピースの告白、そして遂に青年の放免を勝ち取った議会の統制機能を、截然と区別して捉えねばならない。これらの差異を厳密に見極めてこそ、司法の矯正を単なる美談へと歪めることなく、そこに横たわる過誤の深さを正しく測り知ることができるのである。

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この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

靴底の帳面

完全な創作による独立した中編小説。煤煙たなびく工場の町で、若き靴職人が警察の官給長靴の修繕記録をつける役目を任される。ある夜、巡回中の警官が何者かに射殺され、遺体の傍らに残された足跡は、職人が修繕したばかりの靴底の刻印と酷似していた。その長靴が事件の前に他人に貸し出されていた事実を職人は知っていたが、それを証言すれば、履いて夜に出かけた実の兄に嫌疑が及んでしまう。ひとすじの泥の足跡と、破り捨てたい帳面を巡る緊迫の道程。確たる物証がいかにして偽りの筋書きを組み上げてしまうのかを描く、濃密な法廷犯罪劇。

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長篇小説(ロマン)

法廷の傍聴人

独自の登場人物と緊迫の展開で描く本格長編小説。ある殺人事件の法廷を端正な身なりの男が熱心に傍聴し、有罪判決が下るや群衆の中へと姿を消した。数年後、若き女性裁判書記官が過去の訴訟記録を整理するうち、事件当時の傍聴人しか知り得ぬはずの微細な事実が調書に紛れ込んでいるのを発見する。地方裁判所から古色蒼然たる監獄へと足跡を辿る彼女の前に、過去の殺害を告白した死刑囚が現れる。だがその告白は、魂の懺悔なのか、狡猾な計算なのか、あるいは当時の新聞記事の剽窃なのか。犯人の語る物語と真実の証拠との境界線に挑む、知的な歴史法廷ミステリー。

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大河三部作(トリロジー)

銃声の三つの残響

実在の人物を用いず、完全なフィクションとして紡がれる圧巻の三部作大河小説。第一部では警吏の死によって容疑をかけられた二人の兄弟と、その運命を無慈悲に分断する裁判の行方を描く。第二部では、別名を使って世間を欺き、無辜の若者が裁かれる法廷を平然と傍聴する真犯人の二重生活に迫る。第三部では死刑執行の期日が迫る中、遅すぎた告白、現場の物証、そして埃をかぶった司法記録の矛盾を突き合わせる女性調査員の孤独な闘いを追う。同一の夜に放たれた一発の銃弾が、三つの異なる視線を通じて再構成され、目撃されたもの、語られたもの、推論されたものの深淵を読者に問いかける。

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歴史的典拠と文学的再構成について

本稿はグリフィスの著作における「ウィリアム・ヘイブロン」の章全体の精読に基づく(同書全体ではない)。グリフィスはウィリアムが法廷に出頭した時期を一八七五年七月と記しているが、この編年は一八七六年八月の事件発生、ならびにH・B・アーヴィングの著述や当時の公判記録が示す一八七六年十一月二十七日〜二十八日の公判期日と矛盾する。また、一八七九年三月十七日付の議事録(ハンザード)の質問文中にある「一八七六年八月の有罪宣告」との文言も公判期日と整合しないため、審議中の事実誤認として扱い、客観的事実としては採用しなかった。一八七六年八月三日付の当時の新聞報道を精読したところ、コック巡査の死、ヘイブロン三兄弟の逮捕、未公表の足跡照合、凶器未発見の事実が確認された。なお、同紙の初期の要約記事では「Cook」および「Habon」という誤記が散見されるが、本稿では後代の確定した表記に従った。自白の相手について、グリフィスはピースが自身に直接告白したと主張し、アーヴィングはリトルウッド牧師への詳細な告白としている。一八七九年三月十七日の議事録は処刑前に自白が存在した事実を認め、内務大臣、担当裁判長、王室法務官らが重要事項において供述の裏づけを得たと明記している。下付された補償金の額は確定しておらず、グリフィスは八百ポンドとし、一八八一年のウィルモット議員の発言では千ポンドと試算されている。一八七六年の公判記録原本やファクシミリの直接閲覧は行っていない。

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