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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · フランス

コキュラルの石飼い葉桶

コキュラルおよびロデーズ、1824年〜1827年。ピエール・バリエは、施療院へ向かったはずの母がモンペリエへの道中で命を落としたと弟妹に告げた。だが、行方の知れぬ男の名が記された受取証と、村の旧家の石飼い葉桶から現れた遺体が、その言を根底から覆す。殺意を頑なに否定し、死刑宣告ののちに新たな弁解を口にしたバリエに対し、陪審は有罪の評決を下した。1827年、露と消えた男の裁きの記録。

積み上げられた古家具の奥、粘土で目張りされた石の飼い葉桶の中から、マルグリット・ブジュの亡骸は見つかった。長男のピエール・バリエは、弟ジャンと妹マリ=アンヌに対し、母はモンペリエの施療院へ護送される途上、事故に遭って命を落としたと語っていた。護送を請け負ったというカンボンヌなる男の足取りはつかめず、モンペリエの施設に母が収容された記録も皆無であった。真実の遺骸は、遠く離れた地ではなく、コキュラルの生家の内に隠されていたのである。

1824年9月、ピエール・バリエは生家で六十歳になる母と二人きりで暮らしていた。シャンパニャックの記録によれば、マルグリットは狂気の患いがあり、母自身の身の安全のみならず周囲のためにも施療院へ送らねばならぬと一族は考えていたという。長男であるピエールがその手配を一手に引き受けた。当時、弟ジャンと妹マリ=アンヌは村を離れ、他国へ稼ぎに出ていた。

ピエールが語るところによれば、エスパリオンの商人にしてモンペリエに地所を持つアレクサンドル=フレデリック・カンボンヌなる男と契約を交わしたという。四百四十フランの手当と引き換えに、母をモンペリエまで護送し慈善施設へ預ける手筈であった。ピエールの述懐では、母が出立を激しく拒んだため、エスパリオンの憲兵に手を借りて無理やり連れ出さねばならなかったという。さらに後になって、その護送馬車が横転して母は頭蓋を砕かれ、搬送先の施療院で息を引き取ったと言い添えた。

バリエ家の子供らは、しばしばパリへ稼ぎに赴いていた。1824年10月、ピエールはジャンおよびマリ=アンヌとともに帝都へと上った。翌年1月、弟妹は兄の口から、母が護送馬車の転覆事故で世を去ったと知らされる。ピエールはまたコキュラルの親族へも手紙を送り、喪に服すよう伝えた。ところが、その後モンペリエ方面から戻った旅人たちの口から、母の消息を聞く者は一人もいなかった。5月、ジャンは兄から託されたカンボンヌ名義の四百四十フランの受取証を携えて村へ戻ったが、調べを進めても、その男の実在はおろか、モンペリエにマルグリットが入所した痕跡すら見当たらなかった。

なんの便りも得られぬまま旅人たちが次々と戻るにつれ、村には暗い疑惑が立ち込め始めた。マルグリットはこの土地を一歩も出ていないのではないか、という囁きである。近隣の者たちは、その頃になってピエールの不審な姿を思い起こした。母を施療院へ手配した気丈な長男の顔ではなく、9月の末、陰鬱に取り乱した様相で「今夜泊めてくれ」と近隣へ懇願して回っていた男の姿である。生家に一人でいると風が扉を激しく叩き、その不気味な物音に怯えきって、とてもあの家には居られないのだと漏らしていた。

さらにもうひとつの不自然な処置が、生家へと人々の視線を向けさせた。パリへ発つ直前、ピエールは伯父との間に小作契約を結んでいたが、家の奥にある物置小部屋だけは自らの専用として明け渡さなかったのである。そこへ古家具や薪を雑然と積み上げ、入り口を頑丈な板壁で塞ぎ止めていた。アルブーズの医師カプラードは、未亡人バリエの行方が知れぬと耳にするや、「あの物置の中にこそ、亡骸が横たわっているのではないか」と言い放った。この言葉は司法の手へと届いた。すでに改められた隠し場所ではなく、家屋そのものから切り離されたかのような、忌まわしい一隅を指していた。

司法官らがその物置へ踏み込んだ。折り重なる家具の山をどけると、土粘土で隙間を塗り込められた飼い葉桶の中から、果たして一体の遺骸が現れた。腐敗の度合いは身元の確認を許すに足るものであった。ジャンは変わり果てた母を認め、村の者数名もマルグリットに相違ないと証言した。マリ・クラッセルという女性は、かつてひょう疽を患って失われた左手の指の第一関節を指し示した。家族の作り話によってモンペリエへ送られたはずの女は、ここコキュラルの地にいたのであり、かつて彼女を知る者たちの手によって、動かぬ証拠が白日の下に晒された。

その頃、ピエールはパリのバック通りに身を寄せ、同郷の者が多く就く水売りとして糊口をしのいでいた。警察へ逮捕令が下り、彼はロデーズへと連行された。予審判事の前で、彼は殺害への関与を一切合切否認し、あくまでカンボンヌに預けたと言い張った。だが、モンペリエにもエスパリオンにもそのような商人の記録はなく、モンペリエの中央施療院に母が収容された事実もなかった。自ら触れ回った事故死とコキュラルでの死体発見という決定的な矛盾を問いただされると、彼はただ「奇跡が起きたとしか申せません」と答えるのみであった。

重罪裁判所の公判において、裁判長はパリで出会ったという辻馬車の御者についての証言を糺した。ピエールはその男の仲介でカンボンヌと引き合わされたと主張したが、御者の名も居所も知らぬと答え、カンボンヌの素性すら定かではなかった。かつてエスパリオンかロデーズの施療院へ母を受け入れられるよう手を尽くすと約束してくれていたジャラベール弁護士に対し、この護送契約のことを一切相談していなかった事実を認めた。また、出立の場に立ち会わなかったのは「見送るのがあまりに辛かったからだ」と言い逃れた。憲兵の立ち会いについてもピエール自らの口から聞いたという証言者が複数いたが、法廷の彼は「彼らの聞き違いだ」と突っぱねた。さらには、母の死はモンペリエからの書状で知ったと述べつつ、差出人の名は忘れたと言い募った。なぜ母の亡骸がコキュラルの飼い葉桶に隠されていたのかと再び糾問されると、彼はただ「分かりません」とうなだれた。記録は、問いを投げかけられるたびに彼の首が胸元へと力なく垂れ下がった様を伝えている。

三十余名に及ぶ証言人が出廷した。医師カプラードの予見を証言する者も相次ぎ、医師自身も証言台に立って、いかなる疑念からあの物置を怪しんだかを詳らかにした。犯行そのものを目撃した者はいなかった。しかし検察官は、偽りの出立、実体のないカンボンヌなる人物、母を受け入れていない施療院、板で閉ざされた密室、そして桶の中の屍骸――これら幾重にも重なる間接事実の連鎖こそが、直接の目撃証言の不在を埋め、犯行の事実を証明するに余りあると論告した。

弁護に立ったのはグランデ弁護士であった。かのフアルデス事件でも弁論を張った名うての法廷人であり、シャンパニャックの記すところによれば、その雄弁は傍聴人を幾度となく揺さぶったという。しかし陪審の下した答えは、峻厳たる有罪であった。1826年11月17日、裁判所はピエール・バリエに対し死刑を宣告した。判決の言渡しを聞くや男の虚脱は極まり、憲兵らに両脇を支えられなければ監獄へと歩むことすら叶わぬ有様であった。

破毀院は上告を棄却し、国王への恩赦の願いも容れられなかった。1827年2月19日、ロデーズの地において、ピエールは護送馬車に乗せられ刑場へと引き出された。跣足に下着一枚の姿、その頭部には罪人を示す黒い布が被せられていた。傍らには刑務司祭が寄り添い、うちひしがれ沈痛な面持ちの死刑囚は、司祭の祈りの声にじっと耳を傾けているようであった。

死刑が定まって以来、彼はカンボンヌの作り話を捨て、別の弁解を口にするようになっていた。母は狂気の発作を起こして転落死したのであり、血まみれの遺体を見つけたものの、助けを呼べば自分が疑われると恐れるあまり、飼い葉桶に隠したのだという。これこそが、シャンパニャックの記録に留められたバリエの最後の弁明であった――男は命脈の尽きる間際になって、母の死の場所をコキュラルの生家の内へと引き戻したのである。

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この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

水売りの受取証

短編小説:パリの辻々で水を売り歩く若き男のもとへ、故郷アヴェロンの妹から、覚えのない一通の領収書が届く。それは亡き母のために工面した金が、親族の何者かによって横領された証しであった。男は水汲み場の客たちへ、受取人に記された名を伏せたまま探りを入れる。だが、第二の偽受取証がもたらされたとき、兄妹は母の終の棲家が奪われる前に、筆跡を偽った真犯人を暴き出さねばならなくなる。身内を疑う苦悶を描く探索の物語。

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長篇小説(ロマン)

飼い葉桶の部屋

長編小説:父を喪った娘は、兄が家産を売り払うため、健在の母を「施療院へ入所した」と偽り死んだことに仕立て上げている恐るべき企てに気づく。手許に残された受取証には、村のだれ一人見知らぬ商人の署名があった。生家を離れまいと頑なに拒む母を匿いながら、屋敷の若き女支配人は、売買契約が結ばれる前に公の入所台帳を突き止め、兄の虚飾を打ち破ることができるのか。家督の利権と一族の執念が軋み合う法廷サスペンス。

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大河三部作(トリロジー)

追放の水汲み場

三部作小説:帝都へ流れ着いた貧しき水売りが、窃盗犯の偽のアリバイ工作に手を染める第一部。施療院の偽造受取証を用い、引き裂かれた地方の一族の遺産が周到に収奪されてゆく第二部。そして、無実の者を断頭台へ送った偽証を悔いる目撃者が告白を試みる中、真犯人の影がその肉親へと迫る完結部。一枚の紙片が呼ぶ罪と、遠く離れた家族の哀歓を重厚な筆致で描き出す歴史犯罪巨編。

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歴史的典拠と文学的再構成について

第七巻第二十四節を全篇照合(予約時の語数換算1,558語、SHA-256一致)。記録者シャンパニャックはマルグリット・ブジュを精神錯乱(aliénation mentale)と記述しており、本文でも後世の医学的断定を避け、原典の表現を忠実に踏襲した。ピエールは当初、母がモンペリエへの途上で死んだと主張し、コキュラルで遺体が見つかった理由を「分からぬ」と逃れていたが、死刑判決後に「母は転落事故で死に、嫌疑を恐れて桶に隠した」と供述を翻した。この死刑確定後の異聞は被告自身の主張として記録に残るものであり、客観的に立証された事実ではない。公判では三十二名が証言台に立ったが、直接の殺害現場を目撃した証人は皆無であった。陪審は1826年11月17日に有罪の評決を下し、上告および恩赦はいずれも棄却され、1827年2月19日にロデーズで死刑が執行された。なお、原典中において問題の商人の名は「アレクサンドル=フレデリック」と「フレデリック=アレクサンドル」の双方が用いられているが、本文では前者で統一し、記録上の表記揺れとして扱った。その他の陳述や証拠の創作付加は一切行っていない。

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