世の裁判には、ただ一個の人間を裁く法廷もあれば、その背後に横たわる一個の植民地そのものを裁く法廷もある。元陸軍少将にして風下諸島総督代理の職務にあったルイ=フィリベール=フランソワ・ルーセル・ド・ブランシュランドの公判は、紛れもなく後者であった。反逆者を上訴の道なく断罪すべく、1793年3月10日の法によって司法宮に設置された革命刑事裁判所――その壇上において証言台に立ったのは、実のところサン=ドマング島そのものにほかならなかった。
まず口を開いたのは、市民ユーグであった。語るは洋上の情景である。彼はアガト号とカストール号の二隻の軍備を検分する任を帯びていた。新任の国民衛兵隊長ボレルなる者を洋上に迎えるための船である。ユーグはグリモアール艦長に対し、その到着を護衛せよと命じた。艦長は命に従うと約したものの、命書の冒頭から「国民の名において、法の名において」という文言を削らぬ限りは肯んぜぬと渋った。はたしてグリモアールは、ボレルを護衛するどころか、海上でボレルとその一行を捕縛し、サン=マルクの獄へと引き渡してしまったのである。証人は言った。総督ブランシュランドは書簡を送り、この凶行を是認したのだ、と。
次いで、官報の紙面がいまなお色鮮やかに留める一画が描き出された。二隻の戦列艦と二隻のフリゲートを従え、ポルトープランス沖へと威風堂々現れた総督の姿である。総督は、帽章に黄と緑の二色を翻した幕僚たちを従え、意気揚々と市街へ凱旋を果たしたのだという。さらに証人は、プラロトなる一人の愛国者の惨死を物語った。
被告は眉ひとつ動かさず答弁に及んだ。植民地議会の決議を追認した廉で責めを負わされているが、植民地の民を代表する者らの議決を認めて、何が罪科に問われようか。帽章について申せば、自身は常に青白赤の三色章のみを帯びており、我が部下の士官らがそれ以外のものを佩用していたなどと、この証人に立証できるはずもなかろう、と冷ややかに言い放った。
だが、農園主にして植民地委員の任にあるオギュスタン=ジャン・ブリュレの証言は、さらに容赦のないものであった。ブリュレによれば、かのプラロトは革命に対する最も不倶戴天の敵が巣食う町、サン=マルクへと送り込まれたのだという。「かの将軍の奸計が、いかなる結末を生んだかは申すまでもありません」と彼は言を継いだ。哀れなる愛国者は己の佩刀をもって八つ裂きにされ、骸は海へと投げ捨てられたのである。
さらに、グラン・リヴィエール教区の長たるブリュレは、みずからが十箇月にわたり身を投じた死闘の様を語り聞かせた。蜂起した反乱の頭目らは「国王万歳」を叫び、みずからを王軍将軍と名乗り、胸にはサン=ルイ勲章を佩用していたと彼は断じた。頭目の一人たるジャン=フランソワのごときは、聖霊勲章の青き綬を帯び、「フランス国王万歳!」と記された繻子の帯を翻していたという。総督の手元には八千の兵力があったにもかかわらず、平野部で叛乱の芽を摘むことなく、みすみす山岳地帯へと戦火を延焼せしめた。ブリュレは、とても筆舌に尽くしがたい凄惨な言葉をもって、繰り広げられた虐殺の数々をなぞった。
そして不意に、法廷の静寂を破り、証人は一枚の軍旗を打ち拡げた。ドンドン国民衛兵隊の旗であった。反徒に奪われ、のちにル・カップの竜騎兵隊長の手によって奪還されたものである。そこには「国民、法」の文字が塗り消され、ただ「国王万歳」の文字のみが無残に残されていた。陪審らは身を乗り出し、その布目を凝視した。
官報の記述は、この戦火のくだりを最後に突如として途絶えている。読者の前には、白き飾緒の垂れるかの軍旗が、かつて翻っていた二千リーグの彼方の熱帯の丘陵から遠く離れ、司法宮の薄暗い一室で人々の手から手へと無言で渡されてゆく光景だけが残される。そしてこの公判が投げかけながら、ついに解き明かすことのできなかった問いが重くのしかかる――サン=ドマングは果たして、いかなる革命の毒によって命脈を絶たれようとしていたのか。
『新裁判所官報』1793年、パリ革命刑事裁判所、ルイ=フィリベール=フランソワ・ルーセル・ド・ブランシュランド公判記録。
