注文の品が運ばれるたび、その場で勘定を済ませていた。喫茶店の日常において、さして耳目を引く振る舞いではない。客が銭を払い、給仕が器を下げ、楽団は調べを奏で続ける。1894年2月12日、サン=ラザール駅に程近いカフェ・テルミュニュスにおいて、エミール・アンリは何のゆかりもない客たちのただ中に身を落ち着けていた。男は店内の様子を静かにうかがっていた。後に法廷で語ったところによれば、席がさらに埋まるのを待っていたのだという。その忍耐は、誰かとの待ち合わせのためでも、流れる音楽に興じるためでもなかった。己の企てが巻き込む人命の数を、ただ一人でも増さんとする冷徹な算段にほかならなかった。
その青年は二十一歳であった。パリ・コミューン後の亡命を余儀なくされた家庭にスペインで生を受け、高等教育で科学を修め、商業の職歴も重ねていた。およそ自らが敵視する社会秩序から隔絶した無頼の徒という姿からは程遠い。立身の約束も、事務勤めの退屈も、薄給と厳格な身分秩序の現実も、青年は身をもって知悉していた。やがて公判の場で読み上げられる陳述書において、彼は教え込まれた規範との決別を物語ることになる。もっとも、その政治的自叙伝はある種の自己構築でもあった。青年にとって都合のよい失望の数々を拾い集め、暴力の行使に整合性を与え、あたかも純粋な論理的帰結であるかのように装ったのである。
このテルミュニュスの兇行に先立ち、ボン=ザンファン街の惨劇があった。1892年11月、カルモー鉱山会社の社屋を標的として仕掛けられた爆弾が警察署へ運び込まれ、そこで炸裂して複数の死者を出した事件である。1894年の逮捕後、予審の過程でアンリはこの犯行をも自供した。鉱山労働者の罷免闘争、ひいては資本家たる鉱業会社への怨嗟が動機であると語った。だが、その敵意は会社の重役のみにとどまらなかった。青年は、職務であれ社会的境遇であれ、自らが討つべき陣営に属するすべての者を等しく仇敵と見なしていた。
標的の無際限な拡大こそ、この事件の本質にほかならない。第二の爆弾がなぜ、見知らぬ人々の集うカフェへと投ぜられたのか、その理由がここにある。アンリはアナーキストに対する弾圧や家宅捜索、相次ぐ検挙、そして代議院爆破事件を受けたオーギュスト・ヴァワイアンの処刑を引き合いに出した。青年から見れば、国家権力は個々の人間を見極めることなく特定の集団を十一連綿と弾圧しているのであった。なればこそ、自らもまた個人の責を問うことなく、無差別に鉄槌を下す権利があるのだと強弁した。不当を告発する論理をねじ曲げ、殺戮の免罪符へとすり替えたのである。テルミュニュスの客たちが何を為し、いかなる思想を抱き、どう生きてきたかなど、青年は露ほども問わなかった。その場に居合わせたという事実そのものが、標的たる十分な理由であった。
その刻限が至ると、アンリは席を立ち、出口へと歩み寄った。爆弾は楽壇に向けて投げつけられた。それは頭上の照明器具に当たって跳ね返り、床に落ちて轟然と炸裂した。爆音と飛び散る破片、血に染まる肉片によって、平穏な店内は瞬く間に救護場と化した。一人の男がこの爆風によって命を落とし、無数の負傷者が出た。当時の報道や後年の集計によって被害の数理には相違がある。しかし、現実は単なる人数の多寡に尽きるものではない。宵のひとときを寛ぎに訪れた無辜の人々が、担架に乗せられ、手当てを受け、家路へと運ばれ、あるいは医師の手にかかりながら、自らを襲った不条理の意図すら測りかねていたのである。
アンリは逃走を図った。駅の雑踏へと逃げ込み、旅人の群れに紛れる目算であった。だが、青年の兇行を目撃した給仕や居合わせた客たちが追呼した。道すがら、さらに多くの男たちが追跡に加わった。起訴状には、西部鉄道の社員エティエンヌ、理髪師モーリス、そしてポワソン巡査の名が記されている。逃走するアンリは懐の拳銃を乱射した。数街区先で無事に取り押さえられるはずだった追跡劇は、逃走を阻もうとする人々の命を危険に晒す事態へと転じた。追いすがった者たちにも凶弾が命中した。
手傷を負いながらも、ポワソン巡査は怯むことなく青年に組み伏さった。両者がもつれ合って倒れ込むところへ他の警官らが駆けつけ、アンリを取り押さえた。怒号を上げる群衆の手から青年を守ることもまた不可欠であった。この目まぐるしい追跡のなかで、のちに青年の政治陳述がひとくくりの抽象概念に押し込めようとした「生身の人間たち」が立ち現れた。給仕、事務員、理髪師、巡査。彼らは誰一人として、体制の代弁者を気取って動いたわけではない。爆弾を投げ、脱兎のごとく逃げる男を目の当たりにし、ただそれを止めねばならぬと奔走したにすぎなかった。
拘引された青年は、当初偽名を名乗った。身元を洗う捜査はやがてアンヴィエルジュ街の下宿へと行き着く。そこでは犯行直後に何者かが立ち入り、室内から何らかの品が持ち去られていたことが判明した。捜査陣は、すでに身柄を押さえた実行犯とは別の疑義を追うこととなった。誰が兇行を知り、手引きし、あるいは証拠を隠滅したのか。検察は共謀の疑いを指摘しつつも、予審ではその全容を解明し得なかったことを認めている。爆弾を投げた男の正体は露見したものの、その部屋で起きた隠蔽工作は、司法の網の目を逃れたまま謎として残された。
四月に開かれた重罪裁判において、アンリは無罪を勝ち取ろうとする弁道を選ばなかった。すべての所業を認め、むしろその歴史的意義を法廷に刻みつけようとした。裁判長はなぜカフェを選んだのか、なぜ満席を待ったのか、なぜ逃げたのかを問いただした。記録に残る青年の答弁は、検察側が犯罪の悪質性と見なしたその点こそを、確信犯として誇示する姿勢に満ちていた。そして陳述の朗読が始まった。社会への憎悪、貧困への弾劾、報復の正当化が冷徹な筆致で綴られ、当時の世人を震撼させた。だが、その構築された弁舌の巧みさも、標的として肉体を損なわれた者たちにとっては何の償いにもならなかった。
アンリは民衆の苦難を一身に背負って語る身代弁者を自任していた。しかし同時に、多くの労働者が自らの行為を理解しないであろうこと、一部のアナーキストすらこれを否定している事実を自認せざるを得なかった。この告白は、彼が掲げた「虐げられし者の代表」という虚飾を根底から揺るがしていた。青年が語る貧しき人々は、彼に声を託したわけでも、爆弾を投げる許しを与えたわけでもなかったのである。法廷は、犯行を誇る一人の罪人と、その惨劇に歴史の免罪符を貼り付けようと抗う一人の闘士の相貌を同時に見届けることとなった。裁判長は死刑を言い渡した。
1894年5月21日、グランド・ロケット刑務所の傍らにて、アンリは断頭台の露と消えた。ジョルジュ・クレマンソーはその刑執行に立ち会い、死刑制度への根深い疑義を込めた記録を書き残している。早朝の薄闇の中で執行される国家の殺人に戦慄を覚えるのに、テロリズムへの共感など微塵も要しなかった。クレマンソーの遺した視点は、この事件を単に「処刑囚に同情を寄せる者」と「犠牲者の無念を悼む者」という二項対立に還元することを許さず、より重苦しく、人間的な問いを突きつける。アンリの兇行を断じて許さぬと同時に、司法が不可逆な死をもって応酬することをも拒むという峻厳な立場が、そこにはあった。
テルミュニュスの卓は、寛ぎの客を迎えるために設えられていた。アンリはその光景を、単なる標的の群れとして睥睨した。この事件の悲劇は、かけがえのない個々の営みが、撃つべき「階級」という名の記号へと無造作に還元されたその瞬間に宿っている。追跡の記録に刻まれた幾多の名、血を流した負傷者、帰らぬ人となった死者、そして証人たち。彼らこそが、あの広間に実在した生身の人間であった。調べの途絶えたあとに響き続けるものが、ただ青年の雄弁な宣言文のみであってはならないのである。
