身を寄せた納屋の薄暗がりの中で、ジョン・ジェソップとジョン・アロックの二人は、阿片チンキをきっかり半分ずつ分け合って飲み干した。生をともに棄てる覚悟であった。やがて人事不省の状態で発見されたものの、ジェソップのみが息を吹き返し、アロックはそのまま帰らぬ人となった。死に遅れた男は、友の自死を幇助した廉により、ノッティンガム巡回裁判所へと引き据えられることとなった。
一八八七年二月四日、公判の指揮を執ったのはフィールド判事であった。被告人ジェソップにかけられた嫌疑は、自裁未遂、ならびに検察側の法理において殺人罪を構成するとされたアロックへの自死幇助である。訴追側の論告は、簡明にして峻厳を極めた。すなわち、二人の男が合意のもとに死を謀った以上、法廷においてその盟約の責を負うべき者は、現に生き残った唯一の男をおいて他にない、というのであった。
二人は年来の友であり、ともに職を失い、路頭に迷う身であった。糊口をしのぐ術すら尽き果て、困窮の淵から這い上がる手立てはどこにも見出せなかった。公判前の供述によれば、死を切り出したのはアロックの方であり、一緒に命を絶たぬかと持ちかけたという。ジェソップもまた世を儚んでおり、その誘いに応じて後を追うことを約した。手元にはアロックが所持していた阿片チンキの小瓶が一つあったが、二人を冥府へ送るには量が心もとなかった。そこで二人は数軒の薬種商や薬局を巡り歩いて買い足し、手に入れた毒薬を一つの瓶へと合わせたのである。
二人はとある納屋へと足を運び、一滴の狂いもなく慎重に毒を分かち、それぞれがその半分を飲み下した。程なくして、二人とも意識を失った。昏倒しているところを近隣の者に発見され、懸命の蘇生処置が施された。ジェソップはやがて正気を取り戻し、徐々に快方へと向かったが、手当ての甲斐なく息絶えたアロックは冷たい土の下へと葬られた。均等な分配が保たれたのは、毒をあおる瞬間までであった。自ら死を選んだはずの男は、ただ一人取り残され、厳格なる裁判官の前に立ちすくむこととなったのである。
検察側は二つの訴因を掲げた。ジェソップ自身の自殺未遂罪、そしてアロックの死への加担――すなわち殺人罪である。国王側弁護人は、一方が生き延びたからといって納屋で結ばれた約定が無に帰すわけではなく、死者がもはや立ち得ぬ法廷において、生存者が裁きを受ける道が開かれたにすぎないと主張した。法廷ではホレース・スミスとブルース・ラッセルの両検察官がこの論陣を張り、対するアップルトン弁護人は、自死を主導して持ちかけることと、単にそれに同意して追従することとの間にある決定的な懸隔を陪審に訴えねばならなかった。
ジェソップは幾人もの関係者に対し、事の起こりを包み隠さず語っていた。その言によれば、発端はあくまで最初の小瓶を携えて心中を持ちかけたアロックにあった。しかし同時に、追加の毒薬の調達に加担し、薬を等分した事実も記録には明白に残されていた。突如として友の自決に居合わせただけの第三者では決してない。生存者は確かに死の謀議を承諾し、自らの取り分を飲み干していたのである。裁判の焦点は、かかる合意の存在をもって、友の命を奪った張本人と同一視し得るか否かの一点に絞られた。
検察官の解釈によれば、英国の法はこれに断固たる肯断を与えるものであった。当時の法において、自殺は「自己に対する殺人」とみなされ、その未遂は殺人未遂に等しかった。自ら命を絶ちおおせた者は現世の罰を免れるが、生き長らえた者は未遂罪として巡回裁判所で裁きを受ける。ましてや二人が合意の上で死を図った場合、双方が互いの死に対する共犯となる。一方が果て、他方が生き残ったならば、その生存者は自身の未遂罪にとどまらず、失われた相方の「謀殺」の廉によって訴追を免れない。検察はこの法理の厳格な適用を求めたのである。
これに対し弁護側は、「レジーナ対アリソン事件」の判例を引いて対抗した。その前例において被告人は、自ら毒を用意し、ためらう相手を説得してあおらせていた。しかしアップルトン弁護人が説くには、本件のアロックは端から死を決意しており、盟約を提案したのも彼自身であった。ジェソップは他者の固い決意に身を委ねたにすぎない。躊躇する者を言葉巧みに毒杯へと引きずり込んだ首謀者と、すでに死を決した友に殉じようとした追従者とを、同列に論じることが果たして許されるのか。アロックの殺意は合意に先立って存在していたのであり、後からの同意をもって教唆や謀殺と混同してはならないと弁護士は訴えた。しかし検察官にとってみれば、両名が計画を実行に移した以上、合意と相互の助力の事実だけで罪を問うには十分であった。
フィールド判事は、弁護側が試みたこの峻別を退けた。陪審への説示において判事は、二人の共通の企てが証明されたと認めるならば――そして判事自身はその証拠は十全であるとみなしていたが――、ジェソップに有罪の評決を下さねばならぬと命じた。陪審員らはアロックの死に関してこの指示に従い、生存者への情状酌量を付した上で有罪の答申を出した。弁護側が訴えた「発意者」と「追従者」の差異は排斥され、評決は二人の盟約を分かち難き一つの罪責として断罪したのである。
量刑の判断は判事に委ねられた。フィールド判事はジェソップに死刑を宣告した。のちに王室の恩赦により懲役刑へと減刑されることとなる。編述者の解説によれば、謀殺の評決が下された以上、判事には極刑を言い渡す以外の裁量はなく、救済はひとえに女王の大権たる特赦に委ねられていた。かつての慣例では、判事が形式的に死刑を宣告しつつも執行を差し止め、国王の慈悲による減刑を実質的に約束する手続きが存在したが、法改正によりその余地は奪われ、事実審たる陪審の判断に裁判官が私見を差し挟む道は閉ざされていたという。
減刑の決定が下された後も、原著者はこの不条理な法理に対する舌鋒を緩めない。彼は逆説を弄し、国家は法の名のもとに、ジェソップ自身が遂げようとして果たせなかった死刑をあやうく代行するところであったと指弾する。特赦は男の命を拾わせはしたが、人殺しの烙印を消し去るものではなく、歪んだ法文を正すものでもない。議会は日々の政争に埋没してこの問題に顧みることもなく、翌日のタイムズ紙もわずか数行の短信を投じたにすぎなかった。編述者は刑法の抜本的改正と法典化を強く訴えたが、かような地味な改革は政党の利害にも権力の獲得にも結びつかぬがゆえに、為政者は怠惰を貪り続けていると論駁した。彼にとって特赦とは、悪法が生んだ矛盾に対する遅きに失した弥縫策にほかならなかったのである。無論、これらは一編述者の私情に満ちた批判であり、法廷の公式見解ではない。しかし、判決の適法性と事の衡平性とは自ずと別義である。フィールド判事の奉じた厳格な法理に適っていようとも、人倫の眼から見れば依然として割り切れぬ痛恨を残すものであった。この議論の余波は、容易に収まるものではなかった。
