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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · スイス

ロイス川の止まった時計

一八一六年九月、ルツェルン市参事会長フランツ・クサーヴァー・ケラーは別邸へ向かう夜道で行方を絶ち、三日後にロイス川の洲で遺体となって発見された。検視は他殺の痕跡を認めなかった。だが八年の歳月が流れたのち、窃盗の廉で捕縛された放浪の娘クララ・ヴェンデルが、ある盗賊団と二人の名望家による政治暗殺であったと口を割る。チューリヒへの移送と自白の再検証によって、過酷な拷問と露骨な矛盾が白日の下にさらされ、告発された名士らは無罪放免を勝ち得た。本書は一八七一年の司法記録を紐解き、虚構の自白が生み出された道程を辿る。

一八一六年九月十五日、消息を絶ってから三日後、フランツ・クサーヴァー・ケラーの遺体は、同行の家族が見失った小道から二百歩ほど隔たったロイス川の砂洲に打ち上げられていた。懐中時計の針は、九時二十六分で止まっていた。隠しには金銭が手つかずで残り、帽子こそ失われていたものの衣服は身につけたままであった。もっとも、両の膝は擦り切れ、懐のあたりには裂け目があった。検視の結果、転落によるものと見られる軽微な打撲痕が認められたものの、外力による暴力の決定的な痕跡は見出だせなかった。医師らは、急な眩暈と溺水が死因であろうと結論づけた。川は骸を返したが、いかにして水底へと呑まれたのかまでは語らなかった。

ケラーは、ルツェルンにおいて首長たる市参事会長(シュルトハイス)の重責を担う人物であった。九月十二日の夕暮れ、州営カジノに立ち寄ったのち、八時半頃に二人の娘を伴ってガイスマットの別邸を目指し市街を後にした。その近道は、折々に切り立った断崖の縁を縫っていた。折悪しくその夜は風雨が激しく斜面を叩き、吹き荒れる風が人の声を掻き消し、増水したロイス川が濁流となって轟音を立てていた。父を挟むように、一人は前を、一人は後ろを歩む娘たちの傘は、暗闇の中で散り散りとなった。険路に差しかかった折、ケラーは末の娘へ山側の安全な足場を行くよう声をかけた。それが、嵐の中に消えた最後の言葉となった。

翌朝、彼がガイスマットに到着せぬことが判明すると、直ちに捜索が始まった。隣人のヨーゼフ・プフィファー・フォン・ハイデックは邸宅と市街を往復し、親族に当たり、官憲へと急報を入れた。捜索隊は川岸を辿り、やがて奔流が遺体を吐き出した。『新ピタヴァル』の記述に従う限り、当時の検分において犯罪捜査の開始を促す要素は何一つ存在しなかった。止まった時計、ケラーが生前抱えていたとされる眩暈の持病、そして水辺の険路――それらをもって事故死と見なすに十分な説明が成り立ったのである。検視でも暴行を示す創傷は見出だされず、尊崇を集めた人物の遺骸は手厚く葬られ、一件は落着したかのように思われた。

しかしながら、死をもってしても政治の燻りは消し去れなかった。ケラーはいわゆる「自由主義派(フライジンニヒ)」の潮流に属し、ローマ教皇使節座と結んだ正統信仰・ウルトラモンタニズム(教皇至上主義)の陣営と対立していた。記録の編纂者は、双方の派閥が熾烈な権力闘争に明け暮れていた様を描き出すとともに、ケラーの政敵に対する編纂者自身の反感を隠そうとしない。市民の間では早くも自死を囁く者や他殺を疑う者が現れ、当局が流言蜚語の監視を命じたとも記されている。だが、これらの記述は、後年になって政治的疑惑がいかに一個の遭難事故へと投影されたかを示す鏡にすぎず、陰謀が実在したことの証左とはなし得ない。

この事件を再び掘り起こすこととなる女は、司法官でもなければ、当夜の目撃者でもなく、一八一六年のルツェルンに居合わせさえしなかった。当時わずか十二歳ほどの娘であったクララ・ヴェンデルである。事件から八年を経た一八二四年、二十歳となった彼女は、グラールス州ネーフェルスで起きた押し込み強盗の贓物を捌いた廉により、シュヴィーツ州で捕縛された。当初は買い取った品だと弁解したものの、翌日にはあっさりと前言を翻した。兄ヨハン(通称クリューシハンス)の名を挙げ、やがて自らも犯行に加わり、打ち破られた鉄格子の隙間から盗品を受け取った事実を認めた。

取り調べは長引き、裾野を広げていった。彼女の家系はいかなる市民権も持たぬ放浪民(ハイマートローゼン)の出であった。定住を許されぬ流浪の境涯は、常に官憲の監視と偏見の的に晒されていたが、その境遇自体を犯罪の証拠と同一視してはならない。クララは各地の放浪民の家系や潜伏場所を熟知しており、捜査官が裏づけを取れるほど詳細に現実の窃盗事件を語ってみせた。次々と名と事実を口にする彼女に対し、官憲は破格の関心を注ぎ始めた。当時の記録は彼女を饒舌で見栄っ張りな娘という偏見に満ちた筆致で描いているが、そうした道徳的評価を人物像の証拠と見なすことはできぬ。確かな事実はただ一つ、都合二十八回に及ぶ取り調べの中で、前回の尋問以降に「思い出した」ことはないかと絶え間なく畳みかけられ、その言説が紡ぎ出されていった点にある。

数か月が過ぎると、裏づけの取れる盗難事件の口供は尽きかけていた。編纂者によれば、尋問官らはここで「しかるべき教導」を施したという。自らもその語の曖昧さを認めるこの尋問の手法を経て、クララは突如として放火や殺人の記憶を語り始めた。ほどなくして、兄と元盗賊のカッペラーが率いる徒党が、ケラーをロイス川へ突き落としたのだと証言したのである。彼女の供述は川沿いの凶行だけに留まらなかった。男たちは犯行後、プフィファー邸や医師レオデガル・カラッジオーニの館で祝杯を挙げ、金を受け取ったと言い立てた。かくして、この二人の名士が政治謀殺の黒幕として名指しされたのである。

斯くして仕立て上げられた物語は、劇的な迫真力を備えていた反面、決定的な脆弱さを孕んでいた。死後八年を経て得られた変幻自在の供述に依拠しており、第三者の目撃者もなければ、名士らと犯行を結びつける物証も皆無であった。共犯者とされる者たちの名は二転三転した。クララは最初、白昼に二人の見知らぬ男が釣人のふりをして潜んでいたと述べたが、のちには九月の風雨荒れる夜の光景へと舞台を移した。風聞を耳にしたと語ったかと思えば、密議の場に同席したと証言し、さらには対岸から兇行をつぶさに目撃したと言い出した。『新ピタヴァル』が記すごとく、彼女はわずか八回の尋問の中で、役回りも時刻も天候すらも塗り替えてみせたのである。

やがて他の囚人らも自白に追い込まれ、プフィファーとカラッジオーニを共謀者として糾弾し始めた。一致する口供の多さに呑まれたルツェルン当局は、両名を逮捕した。一地方の政争は瞬く間に国家的大事件へと跳ね上がった。しかし、証言の一致は必ずしも真実の裏づけを意味しなかった。過密な牢獄に押し込められた囚人らの接触は遮断されておらず、対質尋問の場では互いの返答が筒抜けとなっていた。自白の細部は、尋問官が何を期待しているかを悟るに都合のよい環境の中で、次第にすり合わされていったのである。

事態を重く見た当局は案件を州間合同委員会へ委嘱し、一八二五年末、審理の場はチューリヒへと移された。新設の委員会に課せられた使命は、申立のあった謀殺の真相のみならず、それらの自白がいかなる経緯で引き出されたかを究明することにあった。身柄引き渡しの初回尋問において、囚人の大半は証言を翻した。当初自説を維持したのはクララと妹バルバラのみであったが、やがて二人も供述の一部を取り下げた。クララ自身、なおも揺れ動いた。一度は物語の全容を虚偽と認めたものの、時に殺害そのものは事実であり、プフィファーの教唆のみが作り話だったと強弁した。こうした逡巡は、彼女を信用に足る証人たらしめないばかりか、最後の言葉をそのまま真実と見なすことも許さない。問われるべきは、その証言を導き出した尋問のありようそのものであった。

クララの兄クリューシハンスは、拘禁中に暴行と脅迫を受けたと申し立てた。殴打ののち、尋問官から「ルツェルンでカッペラーとともに何をしでかしたか分かっているな」と詰問され、別の事件について話そうとすると「その件ではない、ケラーの件だ」と遮られたと証言した。編纂者によれば、記録には体罰の執行、水とパンのみの減食、足枷の装着が裏づけられていた。ルツェルンの取調官アム・ラインは懲罰の事実こそ認めたものの、囚人が主張するような二時間もの拷問は断固否定した。記録に残る過酷な処遇と、抗弁の余地を残す暴行の申し立て――その境界を見極めることが肝要である。

だが、事件の物的な核心は何一つ揺らいでいなかった。謀殺を裏づける致命傷は一切見出だされておらず、突き落とされたにせよ足を踏み外したにせよ、ケラーが川へ転落した事実があるのみであった。金銭も時計も遺骸に残されていた。被告らの語る道程は互いの供述と噛み合わず、娘たちが証言した経路とも一致しなかった。凶行の前に落ち合ったとされる宿屋にしても、『新ピタヴァル』によれば一八一六年当時にはすでに官命で閉鎖されていた。容疑者らが犯行の年の秋と主張した数々の余罪も、実際には翌年の犯行であることが立証された。何より黒幕と名指しされたヨーゼフ・プフィファーこそは、行方不明のケラーを夜を徹して探し歩き、捜索に加わり、官憲に通報した当の隣人であった。

矛盾の露呈だけで、あの一八一六年の闇夜の全貌を完全に再現することはできぬ。だが、これら杜撰な自白に重罪の責めを負わせることが不可能であると示すには十分であった。プフィファーとカラッジオーニに対する告発は崩壊し、両名には無罪が言い渡された。大規模な窃盗公判に巻き込まれた放浪民らの個別の処分については、原典は詳らかにしていない。これら別件の刑罰を、ケラーの死に対する有罪判決と混同してはならない。なお『新ピタヴァル』は、名士らが求めた損害賠償請求の結末について、確たる追跡がなされていないことを率直に認めている。

九時二十六分で止まった懐中時計は、当初、ただ一つの不慮の事故の瞬間を刻んでいたかに見えた。八年の後、クララ・ヴェンデルの放った言葉は、そこに謀殺の刻印を押し、下手人の名を刻もうとした。誘導尋問の篩にかけられる中で、その言葉はより重く、より政治的な虚妄を呼び覚まし、やがて自壊していった。チューリヒの委員会とて、後世の口供が決して取り戻せぬケラーの最後の数分間を完全に解明できたわけではない。しかし、彼らは少なくとも、自白と物証の懸隔を、そして物語の反復と事実の検証の峻別を、権力に知らしめたのである。捜査の真価は、引き出した自白の数にあるのではない。権力者、あるいは尋問官その人が「聞きたがっている声」に、いかに抗い得るかという一点にこそ存するのだから。

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中篇小説(ノヴェラ)

狂いが生じた帳尻

一八九〇年の架空の港湾都市。検疫日誌に、同一の貨物船が二つの異なる日付で二重に記されていた。若い書記官が禁輸品の密輸を隠蔽すべく帳簿を改竄した嫌疑で告発される。青年は疫病の混乱下、上官に言われるがまま書き留めただけだと叫ぶ。尋問のたびに新たな細部が「記憶」から引き出されるが、綴じ直された日誌の丁数はあべこべになっていた。書記官が無実の罪で投獄され港が閉鎖される前に、新米の文書筆記係は記録の本来の順序を復元しなければならない。証拠そのもののみならず、「証拠が積み重ねられた順序」の真実を追う短編小説。

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長篇小説(ロマン)

灯台のささやき

北海の孤島。猛烈な嵐が灯台の火を奪い、一隻の汽船が暗礁に乗り上げた。生き残った灯台守は合図の灯を点したと主張し、港湾長は灯台守が灯火停止の命令を無視したと責め立てる。その夜、通信の送受信を担った唯一の電信技手は、官庁の保身のために通信日誌の時刻が意図的に切り上げ・切り捨て処理されていることに気づく。致命的な判断を下した黒幕を暴くため、技手は組織の共謀を告発するか、無力な一人の灯台守に罪を背負わせるかの選択を迫られる。荒れ狂う嵐よりも重くのしかかる、組織の沈黙と証言の真贋を問う長編小説。

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大河三部作(トリロジー)

玻璃の口供書

二十年の歳月を隔てた三つの法廷劇が、放浪のガラス職人が遺した手記を通じて共鳴する三部作。第一部では、工房の女性頭領が特注品の破壊工作を疑われる。第二部では、見習い職人が放火の罪を着せられるが、関係者の供述は火元すら一致しない。第三部において、一人の女性判事が、過去二つの事件の証人たちが新聞の憶測記事を自らの「記憶」として語っていた事実を暴き出す。幾重にも反復された証言が、時の経過によって「真実」へとすり替わるのを拒む者たちの闘い。一冊の手帖が世代を超えて、共同体がいかにして自らの「確信」を捏造するかを白日の下に晒す歴史大河巨編。

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歴史的典拠と文学的再構成について

底本:『新ピタヴァル(Der neue Pitaval)』第3部第3版(ライプツィヒ、F・A・ブロッホハウス社、1871年刊)所収「クララ・ヴェンデル、またはルツェルンにおける市参事会長ケラー殺害事件(1816–1826年)」(350–388頁)。当該OCRテキストは通し行28895–30463行(9,558語、SHA-256: 8d3e32be8871b96e09e7c3e45dc95d716e4d9efd06b956ec479bc8fc74d88aa9)に及ぶ。先行事件は28895行直前で完結し、奥付等は30464行以降に続く。年代記は1816年9月12日のケラー失踪と15日の遺体発見、1824年のクララ・ヴェンデルの告発、ヨーゼフ・プフィファー・フォン・ハイデックおよびレオデガル・カラッジオーニの拘束、1825年末のチューリヒ移送、供述の撤回、申し立てられた拷問と認定された懲罰を記録している。編纂者は当時のルツェルン政界を自由主義派と教皇至上主義派の抗争として図式化し、反教皇至上主義的な論陣を張るため、その政治的評価や道徳的断罪は確立した客観的事実としてではなく典拠の主張として帰属させている。放浪民(ハイマートローゼン)の描写には当時の偏見が色濃いため、スイス国立博物館(2024年)等の歴史的知見を参照し周縁化の文脈を補正した。ハインリヒ・エッシャーによる1826年の一次記録の存在も確認されたが、確認時Google Booksのアクセス制限(HTTP 429)のため全編の照合は行っておらず、本稿はフラクトゥール体のOCR読取に基づき原典原本の直接校合を経たものではない。

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