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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · フランス

ヴェルノンにて面影を認められし少年

1655年7月25日、ヴェルノンの町にて、物乞いジャン・モンルイソーの連れていた少年に、町民らは未亡人ジャンヌ・ヴァシュロの行方知れぬ息子を見出し、これを我が子と信じる者と疑う者に分かれた。父親は捕縛されて投獄、童子は施療院へ預けられ、ジャンヌは浴びせられる罵声を背に逃走を余儀なくされる。家々の語る来歴、公証文書、そして数々の証言が法廷で激しく相争う。1659年、ピタヴァルの記録によれば、パリ高等法院はモンルイソーに利する判決を下した。行方知れぬ子ジャックの落命を裏付ける証拠は、不備にして不完全と評された私的な二通の証明書に委ねられていた。

1655年7月25日の主日、ひとりの物乞いが少年を伴い、ヴェルノンの主教会へと足を踏み入れた。居合わせた町民のある者は、その童子に、この町に住まう未亡人が見失った我が子の面影を認め、またある者は似て非なるものと首を振った。その酷似ぶりに息を呑む者こそあれ、論争に決着がつく気配はなかった。父親は我が子に相違なしと言い張り、母親とされる当人はこれを頑なに拒む。パリ高等法院が裁断を下す以前から、この真偽定かならぬ人定により、通りすがりの旅人は容疑者へと仕立て上げられ、童子は世の耳目を集める係争の具と化し、母親は世間から糾弾される身となった。

事の発端は、ひとつの不在にあった。ジャンヌ・ヴァシュロは1640年5月、パリのシャトレ裁判所付公証人ランスロ・ル・モアンヌに嫁ぎ、ピエール、ジャック、ルイの三男をもうけていた。1649年1月にランスロが世を去ると、その遺言によりジャンヌが後見人に任ぜられ、パリの地で子らを育てていた。1654年9月、所用のためヴェルノンへ赴くこととなった彼女は、末子のルイを伴い、十四歳のピエールと十歳のジャックを祖母と女中のもとに預け置いた。ところが、この兄二人がクスタールという名の町人の息子らとともに姿を消してしまう。クスタールの子らはやがて親元へと連れ戻されたが、ピエールとジャックの行方はようとして知れなかった。

ヴェルノンより戻ったジャンヌは、必死に息子らの消息を訪ね歩いた。ピタヴァルの記述によれば、彼女は施療院の階段にて、子どもを連れた貧者に行き会ったという。その少年の顔立ちにジャックの面影を重ねつつも、彼女は同時に幾つかの差異を看取していた。父親へ施しを与えたジャンヌは、旅の合間に探してくれと行方知れぬ息子の身体の特徴を言いつけ、その場を辞した。この最初の巡り合いは、身内を認めたというような確固たるものではなかった。ただ、その少年がジャックであるのか、それとも単に似ているに過ぎぬのかという、かすかな疑念のみを残した。

1655年5月12日、ジャンヌは二人の息子の失踪を正式に訴え出た。それから二月後、かの物乞いが例の少年を連れてヴェルノンへと舞い戻ってきた。記録はその男をジャン・モンルイソー、童子をルイと記している。教会において、かつてジャックを見知っていた町民らは、少年の顔つきに長らく待ち望んでいた証を見出した。噂は瞬く間に広まり、人々の眼には、ジャンヌが我が子を家から遠ざけんとして物乞いと気脈を通じる冷酷な継母のごとく映るに至った。

モンルイソーと息子が宿を取っていた旅籠の前には、たちまち群衆が押し寄せた。国王代官もその場に居合わせたが、記録によれば、その騒擾を鎮める手立てを怠った廉で後に非難されることとなる。父親は捕縛された。判事は正規の入牢登記を経ぬまま彼を投獄し、足枷を嵌めさせたとピタヴァルは伝えている。少年は施療院へと送られ、ジャンヌは対質尋問のために呼び出された。彼女は罵詈雑言を投げつける町民の人垣を掻き分け、裁きの座へと引き据えられた。法廷において、モンルイソーは我が子であると言い募り、少年はジャンヌを母と呼んだ。しかし、ジャンヌは断固としてその少年が己の息子であることを否定し続けた。

訴訟はこの相克のただ中で混迷を深めてゆく。騒然たる渦中でなされた即座の認知は群衆の確信を裏付けるかに見え、ジャンヌの頑なな拒否は、彼女に対する疑惑をいよいよ深める結果となった。だが、その対質尋問のあり方自体に疑義が投げかけられる。未亡人側の弁護士によれば、少年は尋問にあたった者たちから誘導を受けていた恐れがあった。童子には宣誓も課されておらず、当時の資料からはその正確な年齢すら判然としない。少年はまず親族のひとりである未亡人クレテの家に預け置かれたが、すでにジャックであると信じ込んでいた者たちに囲まれて過ごしていたのである。モンルイソーはあくまで自己の正当性を主張して子の返還を求め、その日の夕刻、ジャンヌは追われるようにパリへの途についた。ピタヴァルによれば、彼女の出立後、憤激した町民らによって屋敷の窓ガラスが無残に叩き割られたという。

事件の調書は膨れ上がり、舞台は別の地へと移る。7月29日、国王代官の請求により予備審問が開始された。副後見人たるクロード・ル・モアンヌはジャンヌに対する糾問を求め、かの物乞いを拐かしの徒として告発した。8月11日、判事は少年に百リーヴルの仮給付を認めた。ジャンヌは直ちに控訴に及んだ。8月12日、パリ高等法院は彼女による訴訟手続きへの抗弁を認め、他所での追訴を禁じる命令を下した。しかしながら、ヴェルノンはノルマンディー高等法院の管轄下にあり、現地の法官らはパリの法廷の権威をすんなりとは認めようとしなかった。ジャンヌの小作人らに対する差し押さえが強行され、血統をめぐる諍いは、ここに管轄権をめぐる裁判所同士の確執へと姿を変えた。

パリにおいて、モンルイソーと息子は、当時請願審査官の職にあったラモワニョンによる審問を受けた。この場において、少年はモンルイソーを己の父と認めた。ヴェルノンではジャンヌを母と呼び、パリでは彼女を否むという、言動の背馳が生じていた。ピタヴァルの書録によれば1656年6月2日付の枢密院判決により、係争は最終的にパリ高等法院へと移送された。現地の風聞によってひとつの物語へと塗り固められていた主張を、法廷は改めて吟味せねばならなくなったのである。

そこへ、長男の手から新たな証拠がもたらされた。長きにわたる放浪の末、ピエール・ル・モアンヌが母のもとへと戻ってきたのである。ピエールの語るところによれば、パリを抜け出した彼とジャックは、サン=ヴァーストの近隣にて物乞いをしていたという。モントーという名の貴族が二人を十二日ほど屋敷に匿ったものの、ジャックは病に倒れ、そのまま息を引き取ったとピエールは証言した。彼の陳述を裏付けるものとして、司祭やモントー、地元の住人、慈善修道会の修道士らの署名が記された埋葬証明書が提出された。ピエール自身はその後逃亡し、無頼の徒として漂泊した末にパリへ戻ったという。ジャンヌにとってみれば、この帰還こそがジャックの失踪の真相を解き明かすものであり、モンルイソーの連れている童子が我が子ではない確証であった。

公判廷において、双方の弁護士は性質の異なる証拠を突き合わせて激しく論陣を張った。ジャンヌ側の弁護士は、両親の婚姻契約書、ジャックの洗礼証明書、ランスロの遺言書、そしてサン=ヴァースト近郊での死を裏付けるとされる証明書を楯に取った。さらには、物乞いとその息子が複数の証人から真の父子として見知られていること、そしてジャンヌ自身が決してその童子を我が子として引き取ろうとしなかった事実を強調した。対するモンルイソー側の弁護士は、同じく継続的な父子関係を示す証拠として、息子の洗礼証明書、自らの身の証し、少年の尋問調書、そして一貫した親権の申し立てを並べ立てた。あわせて、正規の令状なき拘禁の不当性を鳴らし、ヴェルノンで行われた捜査の手法そのものを弾劾した。

ヴェルノンの証人らの証言も決して一枚岩ではなかった。女中、隣人、親族、小作人、職人らは口々にジャックであると証言し、ある者はその顔立ちを、ある者は傷跡を、またある者はかつての屋敷での思い出を引き合いに出した。だがその一方で、未亡人クレテをはじめとする一部の証言者は少年をジャックとは認めず、ジャンヌが息子らに注いでいた深い愛情を証言した。傷跡の有無は有力な手がかりと見なされたものの、その傷をいつ負ったのかについて証言者らの記憶は一致しなかった。少年自身が数々の証言の場に同席していたため、大人たちの返答を聞いてそれを己の記憶として刷り込んだのではないかという疑念も払拭できなかった。法廷で交わされた弁論は、一見してすべてを氷解させるような決定打を欠き、個々の面影の信憑性をめぐって延々と争われることとなった。

ヴェルノンの補佐裁判官ルイ・モルダンは、自らの処置の正当性を弁明した。彼は事件の発端となった場には居合わせておらず、問題視された決定は複数の法官による合議のもとで下されたと主張した。国王代官もまた身の潔白を訴えた。法官らに対する疑念の根底には、土地の売却を断られたことに対するジャンヌへの意趣返しではないかという憶測があった。ピタヴァルはこれらの告発を記す一方で、法官らの否認と、本件の訴追が明白な陰謀によるものではなく、拙速な確信から生じた過誤に過ぎぬという弁明をも併せ載せている。

高等法院検事総長ビニョンは、双方の可能性を慎重に衡量した。モンルイソーの提出した証書と少年の重ねての証言は父子関係を裏付けるに足るものであり、ジャンヌの証書やジャックの死をめぐる証明書もまた有力な反証となり得たが、すべての疑問を晴らすには至らなかった。他方、ヴェルノンの二十一名に及ぶ証人は少年をジャックであると言い張ったものの、その記憶の信憑性や私利私欲、さらには法官らとの親疎関係が激しく吟味された。最初の主日にあれほど沸き立った群衆の熱気も、己が最初に抱いた思い込みを離れた客観的な証拠とはなり得なかったのである。

1659年受難週の木曜日、ラモワニョン院長の主宰のもと、パリ高等法院は判決を下した。ピタヴァルによれば、高等法院は下級審に対する一切の控訴を退け、モンルイソーの釈放と入牢記録の抹消を命じた。少年ルイはモンルイソーを父と認め、これに服従すべきこと、そして供託されていた扶養料はジャンヌへと返還されるべきことが言い渡された。ピタヴァルが総括するところによれば、物乞い側の保持する権利証書と監護の実態が、ジャックの死に関する「不完全ながらも」書面による証拠に支えられ、現地で集められた反証の数々を斥けたのだという。しかし、残された記録を見る限り、この判決とて、私的に作成された二通の証明書を動かしがたい真実へと昇華させたわけではなかった。

ヴェルノンにおいて、人々の記憶に頼った多くの証言は当初、事件に幕を引く決定打と思われたが、すぐさま別の疑念によって揺るがされた。高等法院の裁きの場にあって、それらはモンルイソーの有する確固たる身分証書を覆すには足りなかったのである。主文は少年の身柄の物理的な引き渡しを定めてはおらず、ただルイに対し、モンルイソーを父として敬い、従うことを命じたにとどまる。そしてジャックの死に関しては、兄ピエールの物語と二通の私的証明書が判断の拠り所とされたものの、その日付や文面、果ては埋葬の場所に至るまで疑義が残されたままであった。ピタヴァル自身、この証拠を「書面とはいえ、不完全なるもの」と評している。したがってこの記録から、ジャックが今いずこに眠るのかを突き止めることも、彼が辿った死の道行きを疑う余地なき事実として確定することも叶わない。裁判手続きの果てに残されたのは、ひとつの明快な司法判決と、決して明かされることのないひとつの家族の闇であった。

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中篇小説(ノヴェラ)

中継宿の扉

ピエモンテの架空の町で、ひとりの未亡人が見すぼらしい身なりの少年に、行方知れぬ我が子の面影を見出す。少年はある旅人を父と呼ぶが、思い込みにとらわれた町民らは、正しき家へ帰すべきだと騒ぎ立てる。法廷書記官の女性が人々の証言を書き留めるうち、誰ひとりとして同じ記憶を語っていないことに気づく。群衆の主観が人違いのまま判決へと雪崩れ込むのを防ぐため、彼女は事件の端緒となった広場から遠く離れた場所へ証人らを召喚しようと奔走する。人物、舞台、事件はすべて創作。ひとつの過酷な一日とその波紋を描く中編。

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長篇小説(ロマン)

証書と面影

架空の十八世紀フランスを舞台に、旅の途上に見失われたひとりの少年をめぐり、ふたつの家が激しく親権を争う。一方は公の戸籍を擁し、他方は旅路の風雪のなかで童子を慈しみ育ててきた。証人らはある時はその瞳を、ある時はその声を我が子と認めつつも、個別に訊問されるやその記憶はことごとく食い違ってゆく。下級裁判所が父親とされる男を投獄したのち、巡回裁判官の女性が審理をやり直す。一通の書面、ひとつの証言、そして少年自身の口述を突き合わせながら、決して確信めいた言を口にせぬ子どもの心の襞へと迫る。記録の重みと証言の脆さを追う歴史法廷長編。

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大河三部作(トリロジー)

路上の子ら

公に認められた名家と、路傍で子どもを育て上げた養育者との間で、その身元を奪い合われる子どもたちを描く三部作。第一部では、見世物小屋の少年が港町の未亡人から我が子として要求される。第二部では、若き女中が、彼女の生家を誰も知らぬ町民らによって正当な跡取りと祭り上げられる。第三部では、難民の童子が、相容れぬ二つの戸籍によってふたつの家庭の狭間で引き裂かれる。巻ごとに世紀と国を変え、それぞれに異なる司法的結末を迎える。情愛、記憶、そして冷徹な書類がそれぞれ相異なる家を指し示すとき、法廷はいかなる真実を紡ぎ出せるのかを問う大河法廷連作。

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歴史的典拠と文学的再構成について

本章の全文は source-integrale.txt(抽出後21,763語、OCRマスター行2411–5278、印刷頁40–99)に転記されており、重複部分を含む連続した区分ごとに順を追って精読された。古い活字印刷に起因する文字認識の乱れが著しく、ローカルのマスターテキストはファクシミリとの目視による校合を経ていない。原拠は1748年の編纂書であり、当時の一次資料そのものではない。時として矛盾を孕む論弁は各当事者の主張として引用され、結末の判断も「ピタヴァルの言によれば」という留保付きで記述されている。審査用準備資料。未承認、未刊行。

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