一八三九年三月二十五日、月曜日。ロンドンにあるダブリン定期船会社の埠頭へ、砂金を詰めた二つの木箱が届いた。ブラジルの鉱脈より掘り出され、帆船シー・ガル号に積まれて太西洋を渡り、ファルマス港を経てふたたび海路を運ばれてきた積荷であった。現地の鉱山会社代理人が受領を待つ手はずとなっていた。ファルマスからの送り状には、極めて貴重な貨物である旨と、しかるべき証文を携えて現れた者に引き渡すべしとの指示が記されていた。その書状を改めたのは、船主代理店ハートリー商会に勤める書記、ルーイン・キャスパーその人であった。
その日の午後、荷の荷印や特徴を違えぬ証文を手にした男が事務所に姿を現した。男の物腰には、日常の事務を滞りなくこなす者特有の落ち着きが漂っていた。波止場の荷揚料を過不足なく払い、便宜を図った波止場取締役に一シリングの心付けを握らせると、待たせてあった辻馬車へ二つの箱を積み込ませ、静かに去っていった。その場にいた誰一人として、男が正当な受取人であることに疑いを挟む者はいなかった。
それから数時間を経ずして、正規の代理店であるマーシュ商会の係員が、真正なる証状を携えて荷の引き渡しを求めてきた。だが、最初の馬車はとうに姿を消していた。四千六百ポンド相当と見積もられた砂金は忽然と失われ、その巨額の損失は海運会社の双肩にのしかかる危機となった。代理店側は直ちに警察の敏腕捜査官、リーとローの両名を雇い入れた。最初に箱を運んだ馬車の御者は、チープサイドで客を乗せ、ウッド街まで送ったのち、客がホルボーン方面へ向かう別の馬車へ乗り換えたと証言した。追跡の手がかりは、端緒を開いた途端に途切れたかに見えた。
それでも捜査官らは執念深く足取りを追い、箱を持ち去った男の身元を突き止めた。男はロンドン病院に近いニュー街十二番地に下宿したのち、マンセル街へ移り住み、そこから行方をくらましていた。男の名はヘンリー・モス。時計商ハイアムズの店で職長を務める職人であった。彼はルーインの父エリス・キャスパーと十六年来の知己であり、かつてはその下で働いたこともあった。息子のルーインもまた、ハートリー商会の書記となる以前に時計製造の徒弟を務めていた。モスの家の女中が、二人のキャスパーが家を訪ねてきた事実を証言した。盗難の当日、主人はめかし込んで出かけ、夜には埠頭のものと酷似した二つの木箱を辻馬車に載せて戻ってきたという。後日、居間の暖炉の火格子からは、木箱の焼き残った破片が見つかっていた。
警察の視線は、ストランド街の金精錬業者ヘンリー・ソロモンズにも向けられた。彼は貴金属商のブル商会に対し、嗅ぎ煙草入れなどの金器を溶かしたものと称して、千二百ポンド相当の金塊を売りさばいていた。四月六日、ランベス街警察署での尋問において、ソロモンズは売却の事実こそ認めたものの、それ以上の口を割ろうとはしなかった。しかし続く取り調べで、彼もまたキャスパー父子とともに嫌疑の渦中へ引きずり込まれる。このとき、自ら警察に出頭していたヘンリー・モスが、他の共謀者に不利な証言を行う約束を取りつけ、検察側証人として名乗りを上げたのである。モスの証言席への登場は、それまで不敵な態度を崩さなかったソロモンズの表情を一変させた。
モスの供述によれば、キャスパー父子は数箇月も前から計画を練り、積荷を横領しうる好機を窺っていたという。前年の十月、エリスはモスを呼び寄せて息子に引き合わせた。ハートリー商会の事務所へ偽りの書状を届けさせ、ルーインから木箱を受け取って父のエリスへ運ばせる手はずを命じたのである。街の荷担ぎ人夫では人目を引く恐れがあったため、モスが選ばれたのであった。計画の露見を防ぐため、エリス自身が現場近辺に姿を現すことは固く禁じられていた。
目当ての船が期日通りに入港しなかったため、計画はいったん延期された。キャスパー父子は船同士の衝突事故が原因だと取り繕い、あるいは箱が重すぎて運べぬなどと言い逃れをして、モスには十シリングのわずかな手当を渡しただけで、いずれ再び用立てると告げるにとどまった。その後、父子はモスに数通の手紙の写しを取らせたが、それらもまた別の積荷の横領を企てたものであったと見られる。三月二十四日、ターナー街でモスと落ち合った父子は、彼を自宅へ連れ帰ったうえで、翌朝マーク小路の角へ来るよう命じた。午前十時半、エリスは書状一通と青い布袋をモスに手渡した。モスがハートリー商会の事務所へ向かうと、ルーインは持参された書状を別の書類と引き合わせ、その裏面に埠頭へ提示すべき引渡指図書を裏書して、後ほど合流すると耳打ちした。埠頭に赴いたモスは、ダンという偽名で受領証に署名したのである。
モスは木箱を一筋に下宿へ持ち帰ったわけではなかった。最初の馬車でウッド街まで運んだのち、別の車に乗り換え、まず一つを自宅へ運び込んでから、引き返して残る一つを回収した。エリスは、辻馬車をニュー街の自宅のあまりに近くまで乗り付けたモスの軽率さをひどく詰った。やがて木箱は移動され、モスの裏部屋でこじ開けられた。中には小さな金属製の薬莢状の容器が詰まっており、壊されることなく分配された。木箱本体はモスと妻の手で火にくべられた。翌日になって、モスはその容器の中身が金鉱石、すなわち砂金であると知った。砂金はふたたび運び出され、幾軒かの隠れ家に分散して隠匿された。モスによれば、身を寄せていた義父デイヴィスの家へ金が運び込まれ、デイヴィスとエイブラハムズ夫人が小分けにして持ち去ったという。一方、公判においてソロモンズが語ったところでは、金の取引を持ちかけてきたのはアリスの父、エマニュエル・モーゼスであった。
この分け前の処分を巡り、共謀者たちの結束は脆くも瓦解した。ソロモンズはモーゼスとその娘から金を買い取った。その際、出所を分からなくするため、銅や銀を混ぜて鋳直した。己の取り分が不当に削られつつあると察したモスは、ついに口を開く決意を固めたのである。追い詰められたソロモンズもまた、買い取りの経緯を洗いざらい白状した。アリスは身の回りに金を隠し、幾度となく仕事場へ足を運んでおり、事前の交渉にはモーゼスが現れていたという。ソロモンズは現ナマと紙幣で代金を支払ったほか、アリスに対して数千ポンドの借受証を認めていた。弁護人から執拗な反対尋問を受け、モスとソロモンズの双方が、この企てが犯罪であることを初めから知っていたと認めた。彼らの口から語られたのは、互いに他者を出し抜き、少しでも多くの富を掠め取ろうと醜く争い合った分配の顛末であった。
一八三九年六月二十四日、中央刑事裁判所(オールド・ベイリー)において公判が始まり、審理は八日間に及んだ。ルーインとエリスのキャスパー父子はモスを唆して窃盗を教唆した罪に問われ、エリス、モーゼス、アリスの三名は盗品と知りながら砂金を収受した罪に問われた。陪審員らの前で、木箱が南米からいかにして届き、偽造書類がいかに提示され、ハートリー商会の書記がいかにそれらを引き渡したかがつまびらかにされた。モスはキャスパー父子との謀議と足取りを細大漏らさず語り、ソロモンズは金の鋳直しと転売の過程を証言した。したがって法廷の争点は、馬車に乗った男の特定にとどまらず、分け前の処分と横領に深く手を染めた検察側証人自身の罪責をも白日の下に晒すこととなった。
七月二日、裁判官による長時間の説示を経て、陪審はルーイン・キャスパーに対し窃盗教唆の有罪評決を下した。他の被告らも盗品等収受罪で有罪とされ、父エリスは犯行の事前および事後の共犯としても有罪を言い渡された。アリスについては父親の強い影響下にあったと認められ、情状酌量が勧告された。しかし、ここで予期せぬ法理上の疑義が持ち上がった。起訴状において、窃盗の正犯が「悪意ある何者か」と記されるのみで氏名が特定されていなかったのである。弁護側は、正犯の有罪が法的に確定せぬまま従犯や故買人を処罰することはできぬと主張し、裁判官らはこの異議に対する判断を保留した。
一八四〇年二月、裁判官らは起訴状の形式的瑕疵を理由にルーインに対する判決の執行を停止したが、他の被告らの判決は維持された。エリスとモーゼスには十四年の流刑、アリスには四箇月の禁錮刑が下された。一方、ルーインは身柄を拘束されたまま留め置かれた。三月六日、ヘンリー・モスを主犯として明記した訂正起訴状のもと、ルーインはふたたび法廷に立たされた。モスは罪を認め、検察側は彼が真実を明かして司法に協力した功を鑑み、これ以上の訴追を望まぬ旨を述べた。モスに下された刑は、わずか一日の拘禁であった。翌日、ルーインは新たな起訴状のもとで改めて有罪と認定され、七年の流刑に処された。
記録によれば、奪われた砂金の大部分は無事に回収され、海運会社が被った実害は比較的軽微に終わったという。されど、二つの木箱は馬車から馬車へ、隠れ家から隠れ家へとロンドンの闇を巡り、分け前を貪り合った者たちは最後には互いを売り渡して破滅した。八日間に及ぶ大裁判の幕切れを左右したのは起訴状の形式の訂正であったが、その巨大な悪の企図は、遠きファルマスから届いた一通の書状と、波止場の片隅で手渡された一枚のシリング銭から始まったのであった。
