千八百五十九年六月二十六日、日曜の朝四時、ブランドー夫人はパンを買い求めるため、アスマンスハウゼンの村を出てリューデスハイムへと向かった。その帰途、ビンゲルロッホのほど近くで、葡萄畑の板塀が打ち壊されているのが夫人の目に留まった。板囲いの背後には夥しい血溜まりがあり、その先には血に塗れた一本の杖と蝙蝠傘が転がっていた。続いて通りかかった船頭のフランツ・フォルシュナーもまた、第二の血溜まりと、血に染まった手巾、引き裂かれた黒い肩掛けを目撃した。川辺の石にも、赤黒い斑点が点々と残されていた。散乱する品々や地均しの跡は、何者かの遺体が川へと引きずり込まれたことを物語っていたが、誰が討たれ、誰が刃を振るったのかは、未だ厚い闇に包まれていた。
その後、現場を検分した男たちによって、さらなる物証が拾い上げられた。へし折れた小幅板、土を踏み荒らした跫音の跡、鉛の握り玉が脱落した鈍器、そして幾つもの刃を備えた折りたたみ小刀である。その刃の一枚には、「シュミット」の名が刻まれていた。石垣の傍らからは数本の鍵も見つかり、そのうちの一本は家具の錠前を思わせた。捜査官らは散乱した衣類、裂け目、血痕を精査し、血の滴りが続く跡を道まで辿っていった。遺体そのものはラインの急流に呑み込まれ、捜査はまず、持ち主を失った無言の遺留品を手がかりに始めざるを得なかった。前夜の十時頃に人の呻き声を耳にしたと語る職工もいたが、ほかの通行人らは何ひとつ不審な物音に気づいていなかった。
それから四日を経た六月三十日、アスマンスハウゼンの水際にて、ついに一具の女の骸が引き揚げられた。顔面を覆う傷や無残に裂かれた着衣にもかかわらず、土地の者らは、五日前にニーダーヴァルトの山中で一人の男と連れ立って歩いていた婦人に相違ないと見定めた。決定的な証拠となったのは、足元であった。靴下に金色の小玉を用い、エミーリエ・ロータイゼンの姓名と年号が見事に刺繍されていたのである。当時の検視調書によれば、頭部には鈍器による打撲傷、両手には防禦創、頸部・胸部・腹部には数箇所の刺突傷が認められ、死因は腹部深くに達した創傷による失血死と鑑定された。浮かび上がった遺骸によって被害者の素性と凶行の惨たらしさは定まったものの、犯行の動機は依然として謎のままであった。
エミーリエは千八百二十年、プロイセン領ウドルフ村の生まれであった。父の遺産を継いだものの、種々の負債によって身代は目減りしていた。彼女はカッセルに身を寄せ、知人宅の間借りを転々としながら、身辺に公債証書を忍ばせていた。記録によれば、彼女は合せて七百ターラーに相当する二通の証券――プロイセン国債一通とヘッセン信用貸付文庫の債券一通――を所持していたとされる。しかし死後、その双方ともに行方が知れなくなっていた。川岸で拾われた鍵は、彼女がカッセルで借りていた部屋の調度とことごとく合致した。この符合により、遺留品の一部に確かな名が与えられ、強奪の意図が浮かび上がったが、連れ立っていた男の正体はなお知れなかった。
やがて、ヴィースバーデンから一条の端緒がもたらされた。六月二十九日、ノルテと名乗る男が、エミーリエ・ロータイゼンを受取人とし、ハンブルクの局留め郵便で一つの行李を発送していたのである。ある宿屋の宿泊帳簿を調べると、編纂者の言によれば定職を持たぬ資産家を名乗るヨハン・ハインリヒ・ノルテが、実の妹と称する若き女と同宿していた事実が判明した。宿の証人らは、二人の背格好や衣服の様子が、ライン川の畔で見かけられた男女と酷似していると申し立てた。だが、宿へ戻ってきたノルテは一人きりであり、全身埃にまみれ、疲労困憊の体であった。ある者には連れの女がフランクフルトの知己を訪ねていると告げ、別の者にはマンハイムかハイデルベルクにいると言い逃れていた。この辻褄の合わぬ物言いが強い疑念を呼び起こしたが、捜査陣はさらに、あの痕跡が残る小径を実際にその男女が歩いたのか否かを立証せねばならなかった。
ノルテは、六月二十五日にアスマンスハウゼンやニーダーヴァルトへ足を踏み入れた事実はないと断固として否定した。ヴィースバーデンの停車場でエミーリエとはぐれ、待ちわびた末に一人フランクフルトやホンブルクへ足を伸ばしたのだと弁じ立てた。さる女と一夜を共にし、翌日宿に戻ったのだという。六月二十七日付でカッセルの宿主らや私設秘書ツィン宛てに届いた、エミーリエの署名入り書状三通は、翌日にフランクフルトから投函されていた。それらには富裕な貴婦人に伴われてハンブルクへ発つ旨と、カッセルに残した荷の扱いが記されていた。ノルテはさらに、エミーリエからの第四の書簡を受け取ったが紛失したと主張し、六月二十八日のフランクフルト消印がある封筒のみを所持していた。その手紙で行李をハンブルクへ送るよう頼まれたのだと彼は申し立てた。だが編纂者の記すところによれば、筆跡鑑定人は三通の手紙および封筒の宛名をいずれもノルテの手によるものと断定し、用いられた紙質や体裁も彼がかつて出した書簡と一致した。辻乗合馬車の御者らも、ホンブルクへの立ち寄りや男が主張する心付けの記憶を真っ向から否定した。己の無実を証立てるはずの往復書簡は、検察側の見立て骸においては、犯行の発覚を遅らせるための奸計と化していった。
ほかの証言の数々もまた、ノルテがエミーリエと行動を共にしていた事実を裏付けていた。二人は六月二十五日にヴィースバーデンを発ち、汽車でリューデスハイムへ下り、小舟に揺られてアスマンスハウゼンへと渡っていた。案内人の先導でニーダーヴァルトを登り、道中の茶屋の者らも二人の姿を鮮明に記憶していた。その夜、フィッシャー夫人の店で飲食を共にしたのち、九時頃になってリューデスハイムへの道を徒歩で引き返していったのである。証人らは、ノルテの風貌、ヴェストファーレン訛りの語り口、その身なりを具に語り、程度の差こそあれ彼をその男と指し示した。鍛冶職人のカスパー・トレンツは、その夜更け、杖も持たず、ズボンの裾を脛のあたりまで泥水と埃で汚したノルテと行き交ったと証言した。川辺に残された痕跡と重なり合う細部であったが、これもまた凶報を耳にしたのちに思い合わされた追憶の証言にほかならなかった。
血痕の付着した杖と小刀もまた、本件の重大な環をなしていた。ノルテは葡萄畑で見つかった杖は己のものではなく、件の小刀など所持したこともないと頑強に抗弁した。しかし事件の前、彼が真鍮の石突きを嵌めた杖を携えていた姿は複数の者に目撃されていた。犯行現場近くに転がっていた鉛の握り玉はその杖から脱落したものであり、証人らは折れた杖が男のものであると認めた。刃物鍛冶のシュミットは、血に染まった小刀を、かつてノルテに売り渡した品とほぼ間違いなく見定めた。ノルテ自身も似た刃物を購入した事実は認めたものの、それはカッセルの宿に置いたままだと言い張った。だが、その品が発見されることはなかった。現場で拾われた鍵に至っては、試用の結果、二人がヴィースバーデンの宿で使っていた箪笥の抽斗を開くことが証明された。ノルテは戻った当日に合鍵を新造させており、古い鍵を失った経緯について二転三転する弁明を弄していた。
消えた公債の行方は、物質的な証拠を金銭の生々しい動きへと結びつけた。記録によると、ノルテは二百ターラーの債券を債権者への返済に充て、五百ターラーのプロイセン国債を「H・ノルテ」の自署をもってフランクフルトの銀行家に売却していた。彼はエミーリエから奪ったことを否認し、ヴィースバーデンで彼女から正当に譲り受けたのだと強弁したが、編纂者に言わせれば、その入手の経緯について納得のいく説明を果たすことはできなかった。手に入れた大金は、積年の借財を清算し、旅路を続ける資となった。凶行の前、債権者らは返済を烈しく迫っており、資産家の令嬢との間に進めていた縁談も破談に瀕するか、化けの皮が剥がれかけていた。もっとも、この動機は検察側が組み上げた論理の産物であり、困窮と証書の所持という事実のみから直ちに致死の凶行そのものを再現し尽くせるわけではない。
度重なる尋問の場において、ノルテは一貫して容疑を退け続けた。衣服にこびりついた血痕は、六月二十七日に下肢静脈瘤の治療のため蛭に血を吸わせた際のものであり、宿の寝具を汚さぬよう血止めの布をズボンに当てていたためだと釈明した。編纂者も確かにその日ノルテが蛭による治療を受けた事実は認めているものの、血痕の広がりについての申し開きには疑義を呈し、鍛冶職トレンツの目撃談や警察が探知した着衣の洗い落としの痕跡と対比している。同章の伝えるところによれば、勾留中のノルテは同房の囚人に対し、出所した暁にはハンブルクからアスマンスハウゼンとリューデスハイムの村長宛てに二通の手紙を出すよう唆したという。そこには自分が凶行に及んだ真犯人であり、すでに海を渡って警察の手の及ばぬ地に逃れたと書き記す手筈になっていた。ノルテはその見返りに報酬を約束し、さらに女囚を介してホンブルクでの偽のアリバイを立てる偽証人を仕立てようとさえ画策した。編纂者はこれらを捜査を撹乱せんとする悪辣な工作として書き連ねているが、これらは陪審員らが下した評答そのものとは峻別されねばならない。
ハーナウの陪審法廷は、被告人の頑なな否認を退け、ノルテが公債証書を強奪する目的でエミーリエ・ロータイゼンを殺害したと断定、有罪の評決を下した。裁判所は斬首による死刑を宣告し、上級裁判所もこれを支持した。弁護人は、犯行地であるナッサウ公国においては死刑が科され得ない法制であった点などを挙げて恩赦を請願したが、君主はこれを退けた。処刑の前夜、教誨師の牧師が最後の自白を促したものの、ノルテは磔刑に処された盗賊が受けた赦免の譬えを引くのみで、己の罪を認める言葉を口にすることはなかった。千八百六十一年一月十一日、彼はハーナウ近郊の刑場へと引かれ、露と消えた。編纂者による一章は、その後、道徳的かつ宗教的な断罪の言辞をもって結ばれている。しかし厳然たる司法の手続きそのものは、被告人の告白を何ひとつ得られぬまま、その幕を閉じたのであった。
