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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · フランス

獄壁の夜

1809年、クロード・ヴュイヨームは監獄の夜を過ごしていたにもかかわらず、妻殺害の咎で告発された。同房の囚人二名が裏切り、確たるはずの不在証明は彼を極刑の淵から救いえなくなる。

妻を手に掛けてなどいないと証言するため、クロード・ヴュイヨームには指し示すことのできる確かなものがあった。彼を収監していた獄舎の名、錠を降ろした看守の名、そして夜をともに明かした同房の男たちの名である。常識をもってすれば、何をおいてもまず確認されるべき無二の弁解と思われたはずであった。しかしそれは、数か月に及ぶ勾留を免れさせもせず、有罪の宣告を覆しもせず、ついには死刑の言渡しをも押し留め得なかった。この一件において、監獄を囲む石壁は、ひとつの村に渦巻く風聞よりも脆いものにすぎなかったのである。

ヴュイヨームは、トゥール近郊のビュリニー村で耕作の手伝いとして働いていた折、モーリス・ダリーの未亡人であったマドレーヌ・ポワロを妻に迎えた。彼が二十二歳、女は四十をとうに越えており、先夫とのあいだに二人の子を育てていた。子らの分も含め女が管理していた財産は、この若者がかつて知ることのなかったゆとりを家庭にもたらした。1833年にこの顛末を記した記録作家シャンパニャックは、両人の年齢と身代の隔たりに、のちに訪れる悲運の必然的な説明を見出そうとしている。だが、それは記録者の抱いた見立てにすぎない。彼自身が書き残した事実が如実に物語るのは、二人のあいだに子が生まれてのち、諍いの絶えぬものへと変貌していった夫婦の姿であった。

マドレーヌは夫の素行をなじり、別居を望むようになった。夫は離婚を求めたが、妻はそれを受け入れようとはしなかった。近隣の者たちは二人の口論をことごとく知っており、のちに捜査官たちが尋問に訪れた折にも、その記憶を克明に呼び起こすことになる。不和というものは、裁判官の記録簿を埋めるよりはるか以前から、世間の格好の噂の種となるものだ。語り継がれる雑言、邪推される悪意、そして新たな凶事が起きたときには、誰もがすでに真相を知り尽くしていると思い込む方便を与える。この地にあっては、現世に残された女の生前の訴えが、死によって、不在の男を追い詰める証言へとすり替えられていった。

1809年1月31日、トゥール軽罪裁判所は、暴行の咎によりヴュイヨームに三日間の拘留刑を言い渡した。控訴期限が切れたのち、彼は服役のため自ら出頭せねばならなかった。2月10日の宵、彼はビュリニーの村を離れ、クレジルにある実母の家で夜を明かした。翌朝、村の知己を一人伴ってトゥールへと向かった。十時頃、監獄の門番マルタンが営む小さな居酒屋に到着し、腕に掛けていた農夫用の仕事着を預けた。この衣服はのちの足取りをめぐる証言において重義を持つことになるが、彼が獄壁の内に留まるあいだ、ずっと酒亭の預かりとなっていた。

その日は公の手続きで暮れた。ヴュイヨームは看守に出頭を告げ、獄の書記ゴードーを伴って判決を執行する執達吏のもとへ赴いた。所定の費用を払い、代手を訪ね、ふたたびマルタンの店へと戻った。かくして、2月11日の夜七時に収監されるまで、幾人もの者が彼の姿を目撃していたのである。ほかの囚人たちと夕食をともにしたのち、カルタの手合わせから言い争いが生じた。看守が割って入って場を収め、一同をそれぞれの房へと戻した。ヴュイヨームは、看守の居室に隣接する「ピストル」と呼ばれる特別な雑居房に、五人の男たちとともに押し込められた。

彼はジャン=バティスト・ボワローとひとつの寝台を分け合い、残る二つの寝台にはジャン=バティスト・マッソン、シャルル・グリ、ジェラール・ジャコー、シャルル・メニエが横たわった。弁護側の記録によれば、彼は腰の痛みに苦しみ、夜中に幾度か時刻を尋ね、夜明け前に起き上がったという。六時頃、扉を開けてくれと内側から叩いた。これらは、謎解きのために都合よく仕立て上げられた架空の行動ではない。それこそ、証言と照合されねばならなかった正確な事実そのものであった。事件のすべては、この一室と、外から施錠された扉、そしてそれが何時に開かれたかを語り得る男たちをめぐって展開することになる。

そのころビュリニーでは、マドレーヌが2月11日の夜を近隣の家で過ごしていた。十一時頃、娘のバルブ・ダリーを連れて帰宅した。娘は寝床に入り、とりたてて不審な物音も聞かずに眠りに落ちた。明くる朝、傍らに母親の姿はなかった。人々が探し回った。近隣の古井戸の水面に頭巾が浮かんでいるのが見つかり、やがてその骸が引き上げられた。首に傷があったことから、他殺の疑いが持ち上がった。しかし検視に当たった医師は、その傷は深部に達しておらず、死因は溺死であると判断した。家屋の内部からは、血痕のついた刃物と血の跡も発見された。

原典の章題は、自殺を自明の事実として掲げている。だが詳細な記録の中にあるのは、当時の医師の見立てや現場の痕跡、そしてのちに弁護人が主張した論理にとどまり、我々がみずから死の真相を断定するに足るだけの公文書は残されていない。そうした沈黙をあえて埋めずとも辿ることができるのは、猜疑が膨らんでゆく軌跡である。夫婦の不和は衆知の事実であり、夫がトゥールに身を寄せていたことはまだ村中に知れ渡っていなかった。村長はヴュイヨームに対する追及を求めた。不在証明が精査されるより先に、告発の切っ先にはすでに一人の男の名が刻まれていたのである。

凶報が監獄に届いたのは2月12日であった。ヴュイヨームには一時帰宅の許可が下りた。帰途のさなか、村じゅうが自分を人殺し呼ばわりしていると聞き及んだ彼は、クレジルの親族のもとに留まり、翌日になって二人の身内を伴ってようやくビュリニーへ向かった。見張りの兵により、我が家への立ち入りは阻まれた。やがて憲兵が彼を拘束しに現れた。予審判事の前で、彼はトゥール監獄で夜を明かした事実を申し立てた。それにもかかわらず、その後の数か月にわたって審理は続けられた。七十名を超える証人が召喚され、その陳述の多くは、マドレーヌが生前こぼしていた恨み言や、街道で見かけたという真偽定かならぬ目撃談の蒸し返しであった。

もっとも痛烈な打撃となったのは、同房で夜を過ごした二人の男の証言であった。はじめはヴュイヨームをかばっていたボワローが、のちに変心し、彼は夜中に部屋を出て行ったと言い出したのである。マッソンはさらに踏み込み、ヴュイヨームは床に就きもせず、夜の十時から十一時のあいだに何者かが扉を開けて彼を出し、朝になるまで戻らなかったと証言した。二人の言葉は食い違っていた。別の三人の囚人は、朝の四時頃に外の扉が開く音を聞いたと述べた。これらの言葉は、牢抜けがあったとする仮説を裏付けるかに見えたが、それならば扉の構造や出入り口の鍵、他の同房者全員の証言と辻褄を厳密に突き合わせる必要があった。

5月10日、起訴が決定された。ヴュイヨームは獄中で病に倒れた。高熱に冒され、受け答えもままならぬ身のまま尋問の場へ担ぎ込まれたと記録は伝えている。7月16日、ナンシー重罪裁判所にて公判が始まり、審理は三日間に及んだ。検察側の証人六十四名が証言台に立った。陪審は有罪の評決を下し、裁判所は死刑を言い渡した。数多の証言の重みが、弁護人の見解によれば破綻と矛盾に満ちていたはずの告発を押し通してしまったのである。かつて身の潔白を示す盾であった監獄は、いまや、命の綱である上告の結果を待つための場所へと変わり果てていた。

彼の弁護人ブレッソンは、不在証明を立証し、そもそも他殺など存在しなかったことを論証するための弁明書を刊行した。シャンパニャックの記録によれば、不穏な証言の背後で決定的な役割を果たしたのは、ダリー家の遺産をめぐってヴュイヨームと対立していた助役アベモンであったという。この助役がボワローとマッソンを唆したと記録者は指弾している。だが、これはあくまでその年代記が記す告発として受け止めねばならない。助役に対する有罪判決の記録も、偽証罪の個別調書も残されていないからである。変転極まりない証言にすがりついた告発が、いかに危ういものであったかを認めるために、過去の人物へ今さら裁きの鉄槌を下す必要はあるまい。

1809年9月7日、最高司法機関である破棄院は、手続き上の瑕疵を理由に判決を破棄し、審理をメスに移送した。この破棄は直ちに無罪を意味するものではなく、再審の扉を開いたにすぎなかった。そしてその法廷において、陪審は満場一致でヴュイヨームを無罪と答申、裁判所は彼の釈放を言い渡したのである。シャンパニャックはその正確な月日を記していない。マドレーヌはこの世を去り、夫は断頭台を免れた。長きにわたる審理の果てに残されたのは、ひとつの恐ろしくも簡素な問いである――閉ざされていたとされる扉の鍵を確かめるまでに、いったい幾人の言葉を聞かねばならぬのか、と。

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この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

雑居房の鍵

監獄の看守の娘だけが、真夜中に扉が開かれた真の理由を知っていた。真実を語れば一人の囚人の無実が証明されるかもしれないが、それは父親が密かにある一家へ差し伸べていた禁断の施しを白日の下に晒すことを意味していた。己の沈黙がもたらす結末も知らぬまま、娘は予審判事の前で証言の選択を迫られる。登場人物と結末を創作で描く中編。慈悲の行いがいつしか断罪の証拠へと変貌し、肉親を守るためにその意に背かねばならなくなる葛藤を描く歴史法廷劇。

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長篇小説(ロマン)

その男を見た者たち

時代を二十世紀初頭へと移した長編推理小説。同じ夜、同じ男を見かけたと十人の証人が口を揃える不可解な事件の弁護を、一人の若き女性弁護士が引き受ける。時刻の辻褄は合い、現場も近く、証言はいずれも揺るぎない。だが、誰もが判で押したように同じ文句を繰り返していた。その言葉の出どころを辿るうち、彼女は土地をめぐる因縁と過去の恩義の絡み合いを突き止める。噂が人から人へといかに伝播し真実を歪めるか、そして村落の掟に抗い、いかにして個人の記憶の自由を取り戻すかを問う法廷サスペンス。

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大河三部作(トリロジー)

正義の門

地方の小さな監獄と運命をともにした、ある一族の三代にわたる姿を追う大河三部作。第一部では、牢抜けの嫌疑をかけられた囚人を守ろうとする看守の闘いを描き、第二部では、その娘が偽名で出獄した謎の女の行方を追い、第三部では、孫が破取られた帳簿の頁の謎に挑む。各巻それぞれに独立した謎解きを配した完全創作の物語。同じ石壁が時代とともに恐怖の場、逃れの隠れ家、そして秘密の砦へと姿を変えてゆく中、世論の荒波に抗って確固たる証拠を守り抜くことの過酷さを重厚に描き出す。

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歴史的典拠と文学的再構成について

唯一の後代史料であるシャンパニャック著『司法年代記』(1833年、82–100頁)の全文翻刻に基づく。原公判記録およびブレッソン弁護士の弁明書原本は未参照。原典の章題は自殺を断定しているが、本文は年代記および弁護側の主張の引用にとどめ、現代医学的診断や独自の断定は避けた。首の傷は当時の医師見立てによる。2月12日の出獄時刻は原典内で91頁(14時)と92頁(19時)とで矛盾するため割愛した。2月11日19時の収監と同夜の経緯、弁護側の主張とボワローおよびマッソンの証言の相違を明記。1809年7月16日の公判開始後の有罪判決日は原典に記載なし。同年9月7日の破棄院による破棄は手続きの不備によるものであり、無罪判決ではない。メスでの再審における満場一致の無罪判決の日付も原典に記載がない。助役アベモンへの嫌疑はシャンパニャックの記述に基づくものであり、偽証罪等での有罪判決は存在しない。嫉妬や年齢差を短絡的な動機とする俗説は排した。婚姻時の年齢は夫22歳、妻40歳超(裁判時ではない)。1月31日の暴行罪の被害者は原典に特定がなく、妻に対する暴力とは断定していない。

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