執務室の扉は、頑として閉ざされたままであった。屋敷の奥では叫び声が交わされ、人々が駆け巡り、アンヌ・バシュリエを傷つけた男の行方を追っていたが、夫の姿はいかなるところにも見当たらなかった。憲兵が扉を激しく叩いた。中から漏れ聞こえたのは途切れ途切れの曖昧な声のみで、助役が立ち会って開扉を命じるまで、彼らは外で待たねばならなかったのである。この閉ざされた扉の存在は、後の公判において、被害者の負った傷口に劣らぬ重みを持つこととなる。この夫婦の不和はかねてより周知の事実であり、公証人の不可解な沈黙は、その長きにわたる怨恨に戦慄すべき説明を与えるかのように見えた。
ジャン=シャルル・ビュラ=デュボワは、アンドル県のサン=ゴーチエで公証人を務めていた。その婚姻の歩みは、近隣の者が誰しも記憶にとどめるほど数奇な曲折を辿っていた。アンヌ・バシュリエと彼は、法制度に離婚が導入された直後に一度は離別を選んだ。夫は別の女と再婚したものの、やがてその第二の婚姻も解消し、あろうことか最初の妻と再び契りを結んだのである。互いのもとへ立ち戻りはしたものの、そこに安寧の日の訪れはなかった。法は夫婦の絆を解き、また結び直す便宜を与えはしたが、共に平穏に暮らす術までは授けてくれなかったのである。
やがて二人の諍いは、家庭の敷居を越えて外へと溢れ出した。ビュラ=デュボワは町長や帝国検事に対し、妻を逮捕してほしいと訴え出た。対する妻もまた、身の危険を訴えてやまなかった。彼女の弁によれば、かつて自宅において夜陰に乗じた襲撃を受けたことがあり、押し入った二人組のひとりはフランソワ・パテュラルであったという。この日雇い農夫は、近隣でも素行の悪さで知られていた。後年、シャンパニャックがこの事件に割いた記録にも双方の不服が記されているが、それら往時の訴えの一つひとつについて、その真否を裁定する手立ては残されていない。だが、1807年12月28日の夜が訪れた時、人々の脳裏にはそれらの禍々しい記憶が確かに燻っていたのである。
夜の十一時頃、床に就いて間もないアンヌ・バシュリエは、寝所の扉のあたりで物音を耳にした。起き上がって扉を開けると、突如として一人の男が襲いかかってきた。その者こそ、かつて告発したあのパテュラルにほかならなかったと彼女は証言している。格闘は凄惨を極め、彼女は喉や顔面、指先に傷を負った。だが、彼女は気力を振り絞って暴漢を台所へと押し戻し、その中に閉じ込めることに成功した。被害者は何者かの救援を待つことなく、自邸の構造そのものを逆手に取って凶手を封じ込めたのである。
女の叫び声を聞きつけ、使用人や近隣の者たちが駆けつけた。しかし、逃走者を捕らえようと台所に踏み込んだ時、すでにその場はもぬけの殻であった。窓の鉄格子が一本へし折られており、庭の欄干の傍らには、鼻眼鏡ならぬ鼻紙入れのハンカチ、片方の靴、そして足の傷口に巻かれていた襤褸布が残されていた。この粗末な遺留品は、夫婦仲を取り沙汰する世間の噂話とは比べものにならぬほど確かな手掛かりであった。何者かが窓から逃亡を図り、その歩みを支えていた物の一部を置き去りにしていったのである。
まさにこの時、夫の不在という事実が、事件の核心へと浮上した。アンヌは、いくら夫を呼んでも何の応答もなかったと訴え出た。ビュラ=デュボワは自らの執務室で寝起きしており、助役の強い命令を受けてようやく扉を開いたのである。その際、夫は奇妙な弁明を口にしたと伝えられている。外の騒ぎは耳に入っていたものの、夫婦の不仲は世に知れ渡っているため、下手に介入して身らぬ疑いをかけられるのを恐れたのだ、と。年代記の筆者は、これを伝聞の言葉として記録している。この点は慎重に扱わねばなるまい。これは居合わせた証人たちの記憶に残された言葉に過ぎず、彼の手による自筆の供述書が存在するわけではないからである。
夜が明けると、憲兵たちはほど近い馬小屋の梁の下に身を潜めていたパテュラルを発見した。その場には公証人の息子も同行していた。息子の問い詰めに対し、囚われの身となった男は、その父親こそが黒幕であると言い放った。屋敷に引き入れたのは父親自身だというのである。暴漢の捜索は、瞬く間に教唆者の追及へと姿を変えた。現場に居合わせた息子にとって、眼前の凶手はもはや見知らぬ他者ではなく、自らと同じ家名を背負う実の父を破滅の淵へと引きずり込もうとする存在と化した。
もっとも、パテュラルが当初口にした弁解は、後に語られた内容ほど整然としたものではなかった。治安判事の前に引き出された彼は、夕刻六時頃にビュラ=デュボワの屋敷を訪れ、公証人と酒を酌み交わしたのち、屋敷の女たちの目に触れぬよう小部屋に隠されたのだと申し立てた。事件の当日、二人の男が大麻畑で話し込んでいる姿が目撃されていた。公証人もその密談の事実自体は認めたものの、頼みたい農作業の打ち合わせに過ぎなかったと釈明した。パテュラルが屋敷に入り込んでいたことなど夢にも知らなかったと彼は否認した。このように、双方が認めるひとつの接触であっても、語る者の立場によってその意味合いは正反対へと転じたのである。
当初、パテュラルは公証人から凶行の謀議などを持ちかけられた覚えはないと言い張っていた。彼の弁によれば、人目につかずに立ち去れる機を窺って待機していたに過ぎないというのであった。さらに、襲いかかってきたのはアンヌの側であり、自分は彼女を殴打してはおらず、傷は女が勝手に負ったものかもしれぬとまで主張した。果ては、中庭の扉から逃走したと強弁したのである。だが、へし折られた格子の痕跡と庭に残された襤褸布は、この主張を真っ向から突き崩していた。物言わぬ証拠品は言葉を発しこそしないが、いかなる虚言のまかり通ることも許さぬ厳然たる重みを持っていた。
ところがその後、囚人は突如として「真相の暴露」を宣言した。ビュラ=デュボワから妻を絞殺する報酬として百エキュを約束されていたと、夫を公然と告発し始めたのである。判事は男の様子が酷く酩酊に近いことを見て取ったが、パテュラルは自らの言葉の重大さを十分に弁えていると言い募った。翌日も彼は同じ証言を繰り返し、兇行に及ぶ勇気をつけるため公証人から酒を与えられたのだと言い添えた。この新たな供述によって、それまでの証言に欠けていた「犯意」と「報酬」という決定的な輪郭が、ついに補し合わされた。それをもたらしたのは、他ならぬ、かつて謀議の存在を頑なに否定していた凶手自身の口であった。
司法は、これら変遷する供述のどこに真実を見出すかの選択を迫られた。冷え切った夫婦関係の悪評、大麻畑での密談、遅すぎた開扉、そして日雇い農夫の告発は、夫に対して極めて不利な心証を形作った。1808年6月19日、アンドル県重罪裁判所はビュラ=デュボワに死刑を宣告した。その一方で、パテュラルには無罪が言い渡されたのである。司法記録が伝えるこの結末には戦慄を禁じ得ない。アンヌが自らを傷つけた下手人として名指しした男が刑を免れ、背後で糸を引いていたと目された夫のみが極刑を言い渡されたのだから。
公証人は破毀院へ上告し、死刑判決の破棄を勝ち取った。事件はトゥールで審理のやり直しとなった。年代記の記述では、パテュラルの訴訟上の処遇について要領を得ない部分があるものの、一点だけ明白な事実を記録している。新たな法廷に立たされたのは、ビュラ=デュボワただ一人であった。弁護人は、法廷が真に立証すべき原点へと議論を引き戻した。夫婦喧嘩の絶えぬ不和は、殺害の命令を意味するものではない。それどころか、謀殺の未遂と喧伝されている襲撃そのものの実態すら、教唆者の存在を論ずる前に精査されねばならぬはずであった。
弁護人はさらに、事件当夜における依頼人の足取りを克明に再構成した。シャンパニャックの記録する弁護側の主張によれば、公証人は執達吏のボデュイを迎え、その後は執達吏の家へ赴いてその子供たちと戯れていた。床に就く前には妻アンヌの寝所へ立ち寄り、いつものように暖炉の火に覆いを掛け、「おやすみ」の挨拶を交わしていたという。これらの振る舞いは、開扉の遅れと同様に、夫の内心を直接証明するものではない。だがそれは、周到に企図された暗殺計画という先入観だけではもはや覆いきれぬ、もうひとつの事実の連鎖を法廷に突きつけたのである。
1808年12月18日、陪審員団は一致して、殺意をもった襲撃の事実は立証されていないとの評決を下した。ビュラ=デュボワには無罪が言い渡された。シャンパニャックはこの結末から、パテュラルは単なる窃盗目的で忍び込み、夫婦の不和につけ込んで告発を捏造したのだと結論づけている。しかしそれは年代記編纂者の解釈に過ぎず、陪審員たちが下した判断そのものとは一線を画す。記録を紐解く限り、真の狙いが盗みであったのかを確証することも、その後にこの夫婦がどのような運命を辿ったのかを知ることも叶わない。アンヌは負傷し、夫は一度死刑を宣告されたのちに雪辱を果たした。これらの厳然たる事実の狭間には、最初の裁判が安易に踏み越えてしまった断絶が今なお横たわっている。すなわち、破綻した家庭の不幸と、企図された謀殺との間を隔てる、決して埋めることのできぬ懸隔である。
