「一パオロ、足りぬ」と男は言った。
アントニオは顔を上げた。この一室へ連れられて以来、耳に入るものといえば、錠の鳴る音、定型の祈祷、そして夜の務めが無事に明けることのみを気にかける看守の小言ばかりであった。それゆえ、目の前に立つ男の口から出た商人じみた繰り言は、いかにも場違いに思われた。男は平手に載せた麻布のずだ袋を開いて見せていた。羽織る外套の肘には、不釣り合いに明るい色の糸で繕った跡があった。
「……残りは、戻ったというわけか」
「二十六枚はな」
看守がカンテラを寄せた。司祭に連れ添われ、怒号も脅ましも口にせぬ男であったがゆえに面会を許したものの、今となっては余計な情けをかけたものだと悔やんでいた。明日には処刑される囚人を前に、何を今さら勘定のやり直しなど始めるのか。
アントニオはずだ袋を見つめた。見覚えがあった。路傍で襲った男の顔は忘れてしまっていたが、奪い取った折、口紐のあたりに硬貨が偏って寄った布の皺だけは、嫌に鮮明に思い出された。不快な記憶が蘇り、彼はそっぽを向いた。
「手元には、もう残っちゃいねえよ」
「見ての通り、あるはずもなかろう」
男は丸引き寄せ、腰を下ろした。その我が物顔の振る舞いが、アントニオの癪に障った。借金でも取り立てに来たかのように、男は気の済むまで腰を据える腹積もりらしかった。だが、この場における時間とは、もはや思いのままに費やせる代物ではないのだ。
「おれを直に見たと、世間に言いふらすがいいさ。格好の土産話にはなるだろうよ」とアントニオは吐き捨てた。
「土産話にするために来たのではない」
司祭は扉の傍らに佇んでいた。階段を上る途次、この来訪者が何を尋ねたがっているのかは耳にしていた。この面会が誰の慰めになるのか確信は持てなかったが、死を目前にした罪人にも、執行人の尋問とは異なる問いを受ける権利くらいは残されていようと判断したのだった。
「最後の一パオロを、」と来訪者は静かに続けた。「何に使ったのだ」
アントニオは鼻で笑った。いっそ罵倒されたほうがましだった。罵声ならば撥ねつけることもでき、肩を竦めて、何ものをも恐れぬ無頼漢の顔を取り戻すこともできよう。だが、寸分違わぬこの勘定立ては、彼をただの浅ましい盗っ人に引きずり戻した。袋を奪い、男を突き倒し、そこに金があり、力ずくで奪えると思ったがゆえに手を出した、二十七枚の銀貨の無残な現実に。
「……飯を食ったのさ」と彼は答えた。
男はずだ袋の口を、ゆっくりと閉じた。
「そうか」
それ以上、言葉は継がれなかった。一瞬、やり込めたかとアントニオは思った。だが、男は立ち上がろうとしない。
「それを聞きに来たのか」
「そうだ」
「なら、分かっただろう」
「お前の言うことはな」
看守が口を開きかけ、無益な問答を切り上げさせようとした。司祭がそっと看守の袖に指を添えて制した。来訪者の沈着さには、単なる強情とは異なるものがあった。男は、いま与えられた答えよりもずっと素朴で、そしてずっと重い何ものかを求めていたのである。
「あの金を奪ったとき、」と男はぽつりと言った。「お前は、わしがまだ働けると思ったのだろう」
アントニオは黙り込んだ。
「わしが立っていたからだ。足で立っている人間なら、また次の銀貨くらい稼ぎ出せると、そう踏んだのだろう」
囚人は、ずだ袋を握る男の手元に目を落とした。指が二本、曲がったまま強張っており、男が腕を引き寄せるたび、外套の縫い目が引き攣れるように僅かに動く。襲った瞬間の争いなど、もはや克明には覚えていなかった。記憶のなかでは、逃げおおせるだけの短い時間にすぎなかった。犯した罪の余波が、その後どうなるかなど、考えたこともなかったのだ。
「……あんたの腕のことなど、思いもしなかった」
「それが知りたかったのだ」
今度こそ、男は立ち上がった。丸が敷石の上で軋んだ音を立てる。アントニオの胸に、不条理な焦燥が込み上げた。男は欲しかった答えを得て、このまま立ち去り、階段の灯りも、娑婆の街並みも、明日から続く日々も、すべてを持ち去ってしまうのだ。囚人は、何の資格もないと知りながら、男を引き止めずにはいられなかった。
「待ってくれ」
来訪者が振り返った。
アントニオは上着の隠しに手を突っ込んだ。看守が一歩身構えたが、引き出されたのは真鍮の丸釦ひとつにすぎなかった。昼間、糸が解れかけていたのを千切り取り、捨てるでもなく持っていたものだ。いまや彼はそれを、恥ずべき粗悪な銭でもつまむかのように、親指と人差し指で挟んでいた。
「おれには、これしかねえ」
「取っておくがいい」
「あのパオロの埋め合わせじゃない」
「ならば、何のためだ」
自分でも分からなかった。ただ奪うだけの人間で終わりたくない一心で、何かを差し出したかったのだ。だがその振る舞いがあまりに浅ましく思え、彼は拳を握りしめた。赦しを乞うこともできたはずだ。司祭はおそらくその一言を待っていたに違いない。だが、一夜を明かせば死ぬ者に毛布を恵むような、安易な赦しを与えられることだけは耐え難かった。
来訪者はずだ袋を外套の懐へ収めた。
「わしは、お前に死んでくれと頼んだ覚えはない」と男は言った。
アントニオははっと顔を上げた。
「だが、おれは死ぬんだ」
「知っている」
「あんたは、二十六枚を持って帰る」
「そうだ」
ふたりは見つめ合った。もはや帳尻の合わせようがなかった。男には、奪われてもいない命を返す術はなく、アントニオには、明日にでも断たれる命を差し出したところで、犯した略奪を無に帰すことなどできぬ。ふたりのあいだで、足りぬ一パオロの金など今やとるに足らぬもの相となっていたが、それでもなお、すべての決着を綺麗に納めることを頑として拒んでいた。
司祭が道をあけ、男を送り出そうとした。敷居のところで、男は不自由な片手で外套の襟を合わせようと手間取った。アントニオはそのもどかしい仕草を、そして看守が無言で手を貸すさまを見つめていた。その何気ない労わりの光景は、断頭台の脅威よりも深く彼を打ちのめした。かつて自分が打ち据え、見ようともしなかった痛みの正体が、そこにあった。
重い扉が閉ざされた。アントニオは、誰もいなくなった丸の上に真鍮の釦を置いた。釦を差し出した瞬間、男が手を受け取ってくれるのではないかという浅薄な望みがなかったといえば嘘になる。盗人が差し出し、被害者が受け取る――そうすれば、互いに美談の役回りを演じて幕を引くこともできただろう。しかし男は、真鍮をその場に残していった。アントニオは指先でそれを弾いた。裏側には、解れた糸屑がまだぶら下がっていた。もはやこれを償いの証立てなどと偽る気は毛頭なかった。明朝、看守が迎えに来る頃には、それは誰も袖を通すことのない衣服から転がり落ちた、ただの釦屑にすぎないのだ。
「祈りを捧げますか」と司祭が尋ねた。
「……あの男のことを、金の袋以外の姿で覚えておきたいんだ」
司祭は静かに腰を下ろした。型通りの祈祷句を口移しに唱えさせようとはしなかった。アントニオは語り始めた。仕立て直された外套のこと、曲がったままの二本の指のこと、肘に走る不釣り合いに明るい糸の繕いのことを。言葉を詰まらせ、言い直し、記憶の細部を確かめるように手繰り寄せた。奪い去ったあの日以来初めて、奪われた男の面影が、銀貨の重みを押しのけて彼の心を満たしていた。
翌日、一八〇三年二月五日、アントニオ・ラヴァニーニはザガローロにて縛り首に処され、その遺体は八つ裂きにされた。処刑人の記録帳には、強奪した金額が記されている。「二十七パオロ」。ひとりの人間の命が消し去られた一行の片隅に、その数字だけが、過不足なく収まっていた。
