一七八三年の『裁判公報』を繰ると、二つの判決文のあいだに挟まるようにして、奇妙な一文が見出される。判決言渡しでも弁論趣意書でもない。それは、ひとつの嘆願書であった。ユロー神父なる聖職者の手になるもので、結びには、読む者の胸を衝かずにはおかぬ一行が添えられている。――「K某への義捐を志される奇特の士は、本紙編輯室まで直接お寄せ願いたい」
この頭文字でのみ記された男の身の上を、ここに繙くこととする。
男は廉直な家柄に生まれ、手厚い教育を受けて育った。しかし父は一場の財も遺さず、ただ借財の山を遺して世を去った。息子は生来の律義さからその弁済を一身に引き受け、みずからの汗の結晶をもって購おうと誓った。神父の筆を借りれば「司法の眼」と美称される公職に任ぜられる権利すら買い取ったのである。しかし、みずから保証人となった負債の催促は厳しく、その真面目な努力をも挫くほどであった。窮鼠猫を噛むともいうが、差し迫る窮境のなかで男の頭に浮かんだのは、富裕な縁組みによってこの泥沼から脱するほかはないという道であった。
男には資産もなければ、後ろ盾もない。そこで身の上話を持ちかけたのが、みずからも不遇の身にあった、ある貴夫人であった。夫人は男に、平民の生まれではあるが身代豊かな娘を世話しようと持ちかけた。仲介役の夫人は男をその一家の住まう町へ伴い、引き合わせた。男の風采は好ましく受け止められた。ほどなくして、何らの強要も受けることなく、十全の分別を具え、すでに三十六歳という分別盛りの年頃に達していたその令嬢は、みずからの確固たる意志のもと、男と夫婦の契りを結ぶ旨の起請文に署名し、男にも同等の誓約を求めたのである。
三十六歳。この歳を心に留めておかねばならない。この事件のすべては、そこに凝縮されている。
男はパリへ戻った。ほどなく、婚約者が例の仲介夫人とともにこの都へ上ってきたことを知り、至極自然な情理の命ずるところに従って、娘のもとへと足を運んだ。しかし娘には父親がいた。事の次第を一言も知らされていなかった父の詮議から、娘は当分のあいだ身を隠さねばならぬと思い定めていたのである。
父親はただちに、パリじゅうの密偵の類をことごとく動員した。やがて娘の居所を突き止めた父は、罪は問わぬと偽りの言葉で誘い出し、不意をついて令状を取りつけ、娘を監禁してしまった。そればかりか男を相手取り、掠奪、誘惑、ならびに強姦の罪をもって告発に踏み切ったのである。
裁判は父親の膝元である町で執り行われた。そこは父が財力と信用を誇る土地であり、被告の男には路銀のあてもなければ、頼るべき知己もいなかった。その地の裁判官は、とうに成年を過ぎた大人の女への「強姦」とやらに義憤を燃やしたのか、あろうことか「司法の手続きという手続きを尽く踏みにじった」と神父は告発している。下された判決は、男を徒刑囚としてガレー船送りとし、仲介の夫人には破廉恥罪を科すという苛烈なものであった。
控訴審において、量刑はいくぶん宥恕された。櫂を漕ぐ役目は免ぜられ、男に科されたのは罰金と訴訟費用の負担、ならびに父親に対する損害賠償の支払いのみとなった。
だが、男には払える金など毛頭なかった。そもそも借財を清算するためにこそ、身を固めようとしたのではなかったか。そして当時の法において、科された賠償金を供託し得ぬ者は、それを完納するその日まで牢屋に留め置かれる定めであった。
ユロー神父がこの筆を執ったとき、男が獄窓の月を仰いでから、すでに十一年が流れていた。
一方の婚約者もまた、その日以来、父の手によって矯正院に幽閉されたままであった。いまだ壁の中に繋がれているとすれば、女は四十七歳。成人としての権利をもちながら、みずからの配偶者を選ぼうとした廉(かど)だけで、十一年もの歳月を監禁のうちに奪われた勘定になる。彼女の聴罪司祭も近隣の者たちも、彼女に乱心の兆候など微塵もなかったと証言していた。一方、事件当時すでに高齢であった父親は、神父によれば、嫉妬深く強欲な一族の者どもに籠絡されていたという。老い先短い老爺のまわりを取り巻き、娘が嫁いで財産が目減りすることを何としても阻もうとした相続人らの影が、ありありと透けて見えるではないか。
公報の読者たちが哀れみのエキュ銀貨を寄せたのかどうか、そしてK某がふたたび生きて牢の外の街路を踏むことができたのか、それは定かでない。ただ確かなのは、一七八三年のパリにおいて、仁慈をもって知られた国王の治世下にあってすら、成人に達した二人の男女が、紙に結婚の誓いを書き交わしたというただそれだけのことで、人生の十一年をともに奪われ得たという冷厳な事実だけである。
出典:『裁判公報』一七八三年版(一七八四年度購読者向け合本)、ユロー神父の嘆願書より。
