マクラリンの教会の門が兵に固められた折、ジョージ・ウィシャートは信徒たちが門を破るのを押しとどめた。自らが説くのは平和の福音であり、自らのために一滴たりとも血を流してはならぬと諭したのである。彼はそのまま荒野へと出で、待ちわびていた群集を前に三時間余りにわたって説教を続けた。その日、聖職者たちは建物の扉を閉ざすことには成功したが、説教師の口を塞ぐことはできなかった。十九世紀にボローが筆を執った記録に描かれるこの一幕は、やがて彼を待ち受ける運命をあらかじめ告げていた。すなわち、異端として裁かれようとも、終始聖書の手前のみを頼みとして抗弁を貫く姿である。
イングランドより戻ったウィシャートは、ダンディーやモントローズの街で教えを説いていた。セント・アンドルーズ大司教デイヴィッド・ビートン枢機卿は、彼の説教に集まる聴衆が日に日に膨れ上がるのを苦々しく思い、ダンディーの市民に対し、彼を迎え入れることを禁じた。説教を終えたウィシャートの前に名士ロバート・ミルが現れ、この禁令を告げた。説教師はしばし沈黙したのち、自分は市民の魂の慰めのために尽くしてきたのであり、神の言葉を退けたとて試練を免れることにはならぬと応じた。ミルも信徒たちも引き止めることなく、彼はその地を立ち去った。
その地方にひと月ほど留まっていた折、ダンディーに黒死病が猛威を振るっているとの報が届いた。ウィシャートは直ちにとって返した。東の城門に立った彼は、堅く閉ざされた門を隔てて市民に語りかけた。病者は城壁の外に留め置かれ、健常な者たちは門の内にいた。彼は疫病が収まるまで街に留まり、裕福な家々が己の血族の介抱に追われるなか、貧しき者たちに糧食が行き渡るよう心を砕いたと記録は伝えている。
ある日、ウィシャートの暗殺を企てた疑いで、懐に凶器を忍ばせていた司祭ジョン・ウェイトンが取り押さえられた。その知らせは城壁の外に隔離されていた病者たちへ瞬く間に広まった。激昂した群集は城内へとなだれ込み、司祭の身柄を渡せと詰め寄った。するとウィシャートはその司祭を抱きかかえ、群集を鎮めようとなだめた。この男はただ、我らに迫る危険の何たるかを身をもって示したに過ぎない、と。命を狙われた当人が、暴徒の手から刺客の命を救い、司祭は事なきを得たのである。
のちに、ファイフ地方の病者を訪ねようとしていた折、ケニア卿なる貴族のもとへ急行されたしとの書状が届いた。モントローズを出て間もなく、ウィシャートはふと足を止めた。道中に罠の気配を感じ取ったのである。放った物見の騎馬兵は、街道の物陰に彼を待ち伏せる六十名もの伏兵を発見した。書状は偽りであった。彼は街へ引き返し、身の危険を案じる者たちの制止を振り切って、数日後にはエディンバラへと旅立った。
エディンバラへの道中、彼はインナー・ガウリーで一夜を明かした。記録によれば、同室に寝ていたウィリアム・スポルディングとジョン・ワトソンは、夜半過ぎに彼が部屋を出ていくのを目撃したという。庭に出たウィシャートは地に膝をつき、長いあいだ身を伏せて祈り続けた。夜が明けて仲間たちが問いただすと、彼は自らの旅路が終わりに近づいたことを告げ、試練に際して信仰が揺らがぬよう祈ってほしいと乞うた。この記録は後世の殉教者に死の予知を帰しているが、その胸中にいかなる予感が去来していたのかは、今となっては確かめようもない。
その後もリース、次いでハディントンで説教が行われた。厳しい寒気により道が凍てつく中、彼はハディントンを発ち、徒歩でオーミストンへと向かった。ジョン・ノックスが同行を願ったが、ウィシャートはそれを押しとどめた。記録に残るその言葉に従えば、「一人の犠牲で足りる」とのことであった。ノックスを伴うことなく、彼はオーミストンの領主の屋敷へと足を踏み入れた。
夜半、騎馬の一隊が屋敷を取り囲んだ。摂政の名のもとに捕縛に現れたのは、州長官のボスウェル伯であった。オーミストンの領主は当初、客人の引き渡しを拒んだものの、ボスウェル伯が身の安全を保証し、釈放または送還できる日まで責任を持って保護すると誓ったため、ウィシャートも出頭に同意した。彼はただ、闇討ちで命を奪われるよりは法に基づく死のほうがましであるとし、手続きの一切を公の白日の下に置くことだけを求めた。だが、その言質が守られることはなかった。エディンバラ、次いで自らの居城へと連行したのち、ボスウェル伯はついにウィシャートを枢機卿の手に引き渡し、大司教座の置かれたセント・アンドルーズへと護送させたのである。
ビートン枢機卿は高位聖職者たちを招集し、一切の猶予を与えずに裁判を進めようとした。摂政アラン伯は事の仔細を改める前に処刑を認めることをためらい、側近の一人もまた、領主の権力を囚人を断罪する刃としてはならぬと忠告した。アラン伯が裁判の延期を求めたのに対し、枢機卿は教会が世俗の権力に依存することなく処置を下し得ると撥ねつけた。かくして、すでに厳重な監視下に置かれていたウィシャートのもとへ、扇動および異端教義の罪による翌日の出頭命令が送りつけられた。すでに裁く者の掌中にありながら、形式的な召喚の手続きに従わされる不条理を、囚人は静かに見つめていた。
修道院の広間において、司教や聖職者団の前に引き出されたウィシャートは、長大な告発状を手にした検察官ジョン・ローダーと対峙させられた。次席修道院長ジョン・ウィンラムによる異端に関する説教をもって審理は幕を開けた。彼は異端を「頑迷に固執される誤った見解」と定義し、迷える信徒を連れ戻すために聖職者は神の言葉に通じていなければならぬと説いた。囚人は口を挟むことなく耳を傾けていた。自らの弁明の刻限が訪れると、彼はひざまずいて祈りを捧げ、スコットランドへ帰還して以来説いてきた教義を開陳する許しを求めた。だが聖職者たちは、聴衆を惑わす弁舌を禁じ、問に対してはただ「否」か「然り」かの簡潔な返答のみを要求した。
告発の内容は、教理上の相違と権力闘争とが入り混じったものであった。説教禁止令に背いて教えを説き続けたこと、秘跡、聖人崇敬、煉獄、聖像、告解、そして修道誓願を批判したこと、さらには摂政の権威を蔑ろにしたことなどが罪状として挙げられた。突きつけられる条項の一つひとつに対し、彼は自らが実際に語った言葉と、検察側が仕立て上げた主張との相違を整然と説き明かしていった。秘跡について問われると、聖書が教えるところを越えて主張することは何ひとつないと答え、聖体拝領を軽んじたとの詰問に対しては、ユダヤ人旅行者の異論を紹介したに過ぎず、それに同意したわけではないと釈明した。司教たちは、答えを長引かせて聴衆の同情を引こうとしているとウィシャートを詰った。
ウィシャートは公平な裁判官による裁きを求めた。これに対しローダーは、大司教にして大法官、かつ教皇使節たるビートン枢機卿こそが申し分のない裁判官であると応じた。ウィシャートは枢機卿の職権そのものを公然と否定はしなかったものの、神の言葉こそが己を裁くべき規範であり、捕縛の命を下した摂政の意向も審理に反映されるべきだと訴えた。傍聴席からは、裁く者と裁かれる者の立場がまるで似通っていると野次が飛んだ。ようやく条項が一条ずつ読み上げられることとなったが、ウィシャートがその告発を裏付ける聖書の章句を示すよう求めると、検察官はしばしば返答に窮し、次の罪状へと話を逸らした。
数時間に及ぶ審理の末、法廷は彼を異端と断じ、火刑を宣告した。ウィシャートは城守の詰所で祈りのうちに夜を明かした。翌朝、断罪された異端者には受ける資格がないとして、聖体拝領は拒絶された。彼は前日に説教を行った次席修道院長との面会を請うた。訪れた修道院長に対し、彼は自らの無実を告白した。その後、城守が彼を朝の食卓へと招いた。ウィシャートはパンと杯を祝福するあいだ待ってほしいと頼み、キリストの受難を想起しながら、同席した者たちに互いに愛し合うよう説き聞かせた。
城外では絞首台が組み上げられ、信徒による奪還を防ぐため城の威容を示す大砲が据えられた。聖職者たちは窓辺に絨毯を敷き詰め、褥をしつらえて高みから見物する構えであった。両手を縛られたウィシャートの歩みに、物乞いたちが施しを求めて群がった。彼は、もはやこの手は使えぬが、汝らに必要なものを神が授けてくださるよう祈ろうと答えた。処刑台の上に立った彼は、己の受難を目の当たりにしてもなお、自らが説いた教えを捨て去らぬよう群集に語りかけた。刑吏たちは彼の衣服に火薬の袋を括り付けていた。火が放たれると爆発が起き、その身を炎が包んだ。激痛のなかでも彼はしばし言葉を発し続けたが、刑吏が首の縄を固く絞め上げると、その声は途絶えた。
ウィシャートは一五四六年三月、セント・アンドルーズの地で処刑された。同年五月二十九日、武装した一団が城を急襲し、ビートン枢機卿を討ち果たした。かつてダンディーの街で司祭の命を救ったウィシャートは、もはやこの血の報復を押しとどめることはできなかった。彼の記憶はのちに改革派の人々によって掲げられ、ボローが薪の山の前での言葉として記した予言は、枢機卿の暗殺があたかも天命の成就であったかのような色合いを帯びることとなる。ダンディーの情景において、記録は暴徒の手に引き裂かれそうになった刺客を、身を呈して庇うウィシャートの姿を描いていた。自らの死を雪ぐための大義名分としてその名が唱えられる以前、彼は何よりもまず、他者の命を奪わせまいと抗う一人の人間であった。
