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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · 英国

第四十五号の自由――言論弾圧と暴動の狭間に

週刊紙『ノース・ブリトン』第四十五号の刊行を機に、ジョン・ウィルクスは起訴、投獄、そして議員除名という過酷な運命に直面した。しかし法廷は、彼を拘束した包括捜索令状を不法と断じた。カムデン・ペラムの編述になる年代記は、一個人の法廷闘争がいかにして群衆の熱狂を呼び覚まし、「自由」を叫ぶ声が司法の枠組みを踏み越えて暴力へと転化していったかを冷徹に描き出している。

一七六三年、『ノース・ブリトン』紙第四十五号の筆鋒を咎められ、ジョン・ウィルクスは名誉毀損罪で告発された。翌年二月、当人不在のまま開かれた法廷で有罪の評決が下る。外地への逃亡を経て一七六八年に帰国した彼は、かつての宣告に対し、王座裁判所において改めて身を処さねばならなかった。同年四月二十七日、裁判所は保釈の是非を審理する運びとなったが、本人の出頭もロンドンの昂揚を鎮めるには至らなかった。監獄へ向かう護送馬車は押し寄せた群衆に阻まれ、馬は外され、囚われの身のウィルクスはスピタルフィールズの酒場へと押し流された。彼はこの混乱に乗じて熱狂的な信奉者らの手をすり抜け、自ら監獄へ出頭して収監されたのである。カムデン・ペラムの記録が物語るこの一件は、「ウィルクスと自由を!」という叫びとともに幕を開けた。敵手が筆禍を口実に追い落とそうとした男を、群衆は一個の象徴へと祭り上げようとしていた。

今回参照した一八八七年版の回顧録において、ペラムはウィルクスを二つの不穏な文書――『ノース・ブリトン』第四十五号、および諷刺小冊子『女論考』――の著者として描き出す。前者は政府への痛撃であり、後者は敬虔を重んじる編纂者の倫理感を著しく損なうものであった。編者の筆致には嫌悪が露骨に滲み出ており、群衆を「迷妄に囚われた徒党」、ウィルクスの愛国心を「利欲にまみれたもの」と断じている。しかしその偏見にもかかわらず、記された事実の推移は、単なる扇動家と筆禍事件の枠に収まらぬ複雑な相剋を浮き彫りにしている。記録はまた、非難を浴びた不当捜索、違法と宣告された包括捜索令状、そして法を盾に権力を誇示せんとする者たちと法そのものとの間に生じた鋭い齟齬をも詳細に伝えている。

『ノース・ブリトン』紙上でことさらに指弾されたのは、財務卿秘書官にしてキャメフォード選出の下院議員サミュエル・マーティンであった。第四十五号の刊行から一週間を経た一七六三年四月三十日、ウィルクスは被疑者の名を明記せぬ包括令状によって捕縛され、私文書を押収された上でロンドン塔に幽閉された。この拘束の不当を訴え、民事訴訟裁判所に人身保護令状の請求が申し立てられる。この最初の逮捕劇から数か月後の同年十一月十六日、彼はマーティンとの決闘に及んだ。相手の手により深手を負ったウィルクスは、数週間にわたり床に伏し、一時は生命も危ぶまれた。『女論考』に対する訴追も影を落とすなか、彼は公判を前にして療養を名目にフランスへと脱出した。

司法の争点は、当局が用いた捜査手続きの当否へと波及していった。私文書の押収に関与したロバート・ウッドに対する民事訴訟において、首席裁判官プラット卿は包括捜索令状の適法性を厳格に審査した。一七六三年十二月六日、陪審はウィルクス勝訴の評決を下し、千ポンドの損害賠償を認めた。ただし、この民事判決は文書誹毀の刑事責任を免ずるものではなかった。刑事公判を前に国外へ去ったウィルクスに対し、一七六四年二月、ミドルセックス特別陪審は不在審理のまま両文書について有罪を宣告した。司法記録によれば、法務総裁が空席の折、当時法務次長であったサー・フレッチャー・ノートンが告発状を提出していたという。有罪にとどまらず、彼はバッキンガムシャー民兵団の指揮権を剥奪され、下院から除名され、さらには法の保護を奪われる「法外放置処分」に付された。この処分は、後の帰国を経てようやく取り消されることとなる。

帰国を告げたウィルクスを、支持者たちは英雄として迎えた。ギルドホールに姿を現した彼の馬車から馬が解かれ、人々はあの聞き慣れた合言葉を連呼しながら、腕力で車を牽いて邸宅まで送り届けた。この熱烈な歓呼は、彼の名と、かつての不当逮捕や文書押収への抗議運動とが不可分に結びついたことを示していた。だが、民衆の喝采は司法の判決でも免訴でもない。かつて下された有罪評決に対する量刑の言い渡しは、依然として彼の頭上に重く垂れ込めていた。

四月二十七日、訴訟手続きに従い、ウィルクスは再び王座裁判所の法廷に立った。廷吏の監視下で出頭した彼に対し、裁判所は保釈の申請を却下し、王座管轄監獄への収監を命じた。護送の道中、またしても群衆が馬車を取り囲んで馬を外し、彼をスピタルフィールズへと連れ去った。しかし、ウィルクスは自らを解放された身と称える人々の只中にとどまりはしなかった。夜の十一時頃、彼はひそかに群衆を抜け出し、監獄へ赴いて自ら官吏の手に身を委ねたのである。この身の処し方は騒乱を鎮めるどころか、民衆が権力の手から奪い返した男が、みずから進んで司法の手続きの中へと戻っていくという、奇妙な逆説を世に際立たせる結果となった。

それから数週間のうちに、王座裁判所はかつての法外放置処分を無効と裁定した。これは一七六三年に包括令状が不当と認められ賠償金が下された民事裁判とは別個の判断であり、名誉毀損そのものを無罪としたわけではなかった。国王側は過去の有罪評決に基づく刑の執行を求めた。裁判記録によれば、弁護側は法務総裁の欠員中に法務次長ノートンが職権を行使した正当性を争い、さらに訴訟の争点確定後に告発状が修正された瑕疵を衝いた。だが裁判官らはこの両論を退けた。記録はさらに、上院への過誤修正令状請求において、「趣旨(purport)」と「文言(tenor)」の差異が争われたと記す。法廷内で法理の応酬が続く間も、監獄の周囲には不穏な群衆がたむろしていた。治安官は解散を命じるべく兵を率いて現れ、暴動鎮圧法が読み上げられたが、群衆は応じない。ついに発砲命令が下った。ペラムの記録によれば、死傷者が続出し、現場から遠く離れた場所を通りかかっただけの無辜の通行人までもが凶弾に倒れたという。

一七六八年六月十七日、裁判所は量刑を言い渡した。『ジョージ三世年代記』の判決抄録には翌十八日付の記録が残る。『ノース・ブリトン』に対して禁錮十か月と罰金五百ポンド、『女論考』に対してはさらに禁錮十二か月と五百ポンドが科された。加えて七年間にわたり善行を保つための保証金を供託せねばならなかった。この時点で、ウィルクスはすでにミドルセックス選出の下院議員に当選を果たしていた。有権者に向けた声明の中で、彼は司法がかつての令状を違法と認め、法外放置処分を破棄した事実を想起させた。彼は議会への返り咲きを自らの著作に対する免罪符としてではなく、自らに向けられた不当な権力行使に対する有権者の明確な審判であると位置づけた。争いはもはや法廷の壁を越え、投票所と街頭こそが、「ウィルクス」という名の持つ真の重みを決する場となっていた。

騒然たる日々のなか、街頭の熱気は司法記録の枠組みを完全に踏み越えていた。暴徒化した民衆は窓ガラスを打ち砕き、市民に祝意の灯火を掲げるよう強要し、「自由」の連呼に唱和せぬ者を容赦なく打ち据えた。ペラムの筆はビュート卿の邸宅や市長公邸に向けられた投石に触れ、市長夫人の寝室の窓までが破られたと記す。合言葉はもはや為政者への異議申し立てにとどまらず、個々の家路を脅かし、私的な生活空間にまで踏み込む暴力的な同調圧力へと変貌していた。当初は囚われ人を庇護した群衆が、今や旗幟を鮮明にせぬ一般市民に威圧を加える存在となっていたのである。ラウォツキ伯爵の馬車に投げ込まれた飛来物は、記録によれば伯爵自身の手で受け止められたという。水夫たち、次いでスピタルフィールズの絹織物職人、艀引や鋸挽きといった都市の労働者たちもまた賃上げを求めて立ち上がった。彼らは請願書を提出するにとどまらず、徒党を組んで船舶の航行を阻止し、乗組員を拘束した。編纂者ペラムはこれら一連の出来事を「騒乱」の一語で片づけているが、その記述の行間からは、ウィルクス擁護とは一線を画す労働者固有の生活要求が透けて見える。

つまるところ、ペラムの筆致は騒動を断罪し、民衆の熱情を軽信の産物として片づけようとする。しかしその叙述をもってしても、そこに渦巻いていた多種多様な怒りの実相を一括りに塗りつぶすことはできず、ウィルクスの内なる動機に対する編者の酷評を動かしがたい事実として鵜呑みにすることもできない。記録が暴動による流血と為政者による弾圧の事実を伝える一方で、包括令状や恣意的な捜索に対する異議申し立てが正当な法の手続きによって承認されたこともまた確かである。後年、ウィルクスの名はその光彩を失い、一七九七年に世を去ったと同記は結ばれている。しかし彼の闘争が残した問いは、一人の文筆家の毀誉褒貶をはるかに越えて生き続けた。国家権力が一人の物書きを断罪せんとする時、その手段が拠って立つ法の正当性そのものが、白日の下に晒されねばならないのである。

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中篇小説(ノヴェラ)

第四十五号の植字工

架空のロンドンの印刷所を舞台にした中編小説。刷り上がったばかりの紙葉と親方の私文書を包括令状によって差し押さえられる危機が迫る。無実の罪を着せられた見習い工を救うため、女性植字工は注文台帳を炉にくべるか、それとも裁判官のもとへ届けるかの決断を迫られる。夜を徹した葛藤と、証拠を守ることがかえって保管者を窮地に追い込む法廷の皮肉を描く。

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長篇小説(ロマン)

不在者たちの活字

選挙の熱気に揺れる架空の都市を舞台にした長編小説。製本工房の若い女工が、亡命先で客死したジャーナリストの手紙を見つけ出す。議会に議席を得た彼女の兄は公表を望むが、母は再度の暴動を恐れる。一つの文書をめぐり弁護士と職人の解釈が鋭く対立する中、一冊の記録を胸に、名誉を救う道は完全なる真実かそれとも沈黙かという究極の選択が問われる。

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大河三部作(トリロジー)

禁じられた紙葉

三つの架空都市と三世代にわたる運命を描く三部作。第一部では偽造された差押令状の真相を追う見習い工、第二部では除名処分を受け有権者の前で身の処し方を問われる孤立無援の代議士、第三部では故人の遺した小冊子の罪を裁く女性裁判官の苦悩を追う。一冊の印刷台帳が時代を超えて受け継がれるなか、叫ばれる「自由」と合言葉の名のもとに行使される暴力の懸隔を浮き彫りにする。

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歴史的典拠と文学的再構成について

本稿は一八八七年にT・マイルズ社より刊行されたカムデン・ペラム編述録(序文日付:一八四〇年七月一日)に基づく。本書は後世の編纂物であり、公判記録の全文ではない。原著の章構成ではマーティンとの決闘が逮捕の記述に先立って置かれているが、一七六三年の人身保護令状手続きに関する記録では包括令状による拘束およびロンドン塔への移送は四月三十日とされ、大英図書館所蔵文書(Add MS 41354)目録では決闘の期日は十一月十六日とされている。また、判例集『ウィルクス対国王裁判』(97 E.R. 123)の抜粋によれば、一七六四年の評決と一七六八年の拘束は明確に区別され、本判決言渡しは一七六八年六月十七日、刑期は十か月および十二か月の通算とされる。『ジョージ三世年代記』所収の公認記録は六月十八日付である。現存する司法資料および目録の抄録を参照したものであり、草稿原本そのものを網羅的に実見したものではない。ウィルクスおよび群衆の心理的動機に関するペラムの論評は、編者固有の見解として留保される。

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