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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · フランス

干草場の扉

1873年、ビオレ村。遺言書と財産分与を巡る長年の諍いの果て、アントワーヌ・ジェロー=デュモンテルと同居していた青年フランソワ・マデベーヌが、家の中で死体となって発見された。『ガゼット・デ・トリビュノー』紙は、検察側の告発、被告の弁解、偽装工作の痕跡、そして陪審が下した評決――計画性は退けられ、情状酌量による故意の殺人――を報じている。県古文書館に眠る判決記録は、科された刑期が懲役十年に及んだことを今に伝えている。

女たちが夜道を戻ったとき、表の扉は固く閉ざされていた。待っていたはずのフランソワ・マデベーヌの姿はない。中へ呼びかけても返事はなく、明かりの漏れる気配もなかった。女たちは牛小屋に入り、祈りを捧げながら、道を行き交う物音にじっと耳を澄ませていた。夜の十一時頃、姿を現したのはこの家の家長アントワーヌ・ジェロー=デュモンテルであった。男は、客を見送るうちにフランソワが鍵を持ったまま出かけたのだろうと弁解し、自分は干草場の開口部から中に入ると告げた。そして女たちには、マデベーヌの生家へ行って夜を明かすよう言い渡した。翌朝、ようやく屋内に足を踏み入れたと語った男は、台所の扉だけはどうしても開かなかったと口にした。

この夜の出来事は、1873年5月18日付の『ガゼット・デ・トリビュノー』紙に詳しく記されている。同紙は、5月14日にピュイ=ド=ドーム重罪院で開かれた公判の模様を伝えた。記事はまず起訴状を読み上げ、次いで法廷の弁論を追うが、時には証人や被告の言葉に記者自身の私見を交えている。したがって、陪審が事実と認めたもの、検察官がアントワーヌの罪状として申し立てたもの、そして記者が法廷の審理を経る前から自明の事実として記したものを、慎重に見極めねばならない。

ジェロー=デュモンテル兄弟は、ビオレの地で三十年近く寝食を共にしてきた。その家には、兄のフランソワが引き取った小作人の子、フランソワ・マデベーヌも同居していた。新聞によれば、マデベーヌは兄弟の傍らで働き、周囲からは兄の落胤ではないかと囁かれていたが、兄自身がそれを公に認めることはなかった。この家におけるマデベーヌの立場と血縁の疑いは、後に重い意味を持つことになる。彼は単なる雇われ人ではなく、その家で育ち、一家の営みに深く関わってきた男であった。

1871年10月、兄フランソワ・デュモンテルは遺言書を認めた。不動産の用益権をアントワーヌとマデベーヌの間で等分し、動産を二人に遺贈する一方、所有権の本体は甥や姪たちに譲るという内容であった。同じ日、兄は正規の売買を装い、数筆の土地をマデベーヌへ生前贈与した。この遺産配分それ自体が直ちに犯行動機を証明するわけではないが、後に検察が暴き出す激しい確執の背景となったことは疑いない。アントワーヌは、それらの財産は兄弟共有の財嚢から購われたものであり、自らにも正当な取り分があると主張した。彼は1839年に遡る口頭の組合契約を盾に、リオンの民事裁判所へ財産分与を求める訴えを起こしていたのである。

法廷で明かされた予審調書には、脅迫の生々しい証言も連なっていた。検察の主張によれば、アントワーヌはピストルによる決闘を口にし、農具を振り上げてマデベーヌを脅し、殺害を予告していたという。1872年11月、アントワーヌから暴行傷害で告訴されたマデベーヌはリオンの軽罪裁判所に引き据えられたが、無罪判決を勝ち取っていた。『ガゼット』紙は、この一件以来、口を利かなくなった二人の間に、二月末か三月初めになって表向きの和解が戻ったと付け加えている。女中のマリー・ラコは、主人がマデベーヌに対して不自然なほど丁重に接するようになったと証言した。

事件の夜となった3月12日、ラコは夕刻の六時から七時の間に家を出て、百メートルほど離れたマデベーヌの生家での夜なべ仕事に向かった。台所には二人の男が残されていた。マデベーヌはじゃがいもの皮を剥き、アントワーヌは暖炉の火の番をしていた。いつもの刻限になっても、フランソワは女たちの輪に現れなかった。二時間が過ぎた頃、ラコはフランソワの妹で夜なべを共にしていたマリー・マデベーヌを伴い、家へと取って返した。表扉にはかんぬきが下ろされ、家中が闇に沈んでいた。二人は戸外で佇むほか術がなかった。

夜の十一時、アントワーヌがベルタンの水車小屋へ通じる小道から戻ってきた。フランソワは誰かを送りに出たに違いない、自分も鍵を持ち合わせていないと男は言った。そして干草場の隙間から忍び込むと言い張り、女たちに立ち去るよう三度も促した。根負けした二人は、ついにマリーの父の家へと身を寄せた。翌朝、男は数時間前に屋内に忍び込んだものの台所までは辿り着けなかったと告げ、病死か、あるいは自殺ではないかとほのめかした。マデベーヌの親族が駆けつけると、司法の役人が着く前に台所の扉を開けてはならぬと頑なに拒んだ。下手に触れれば自分が無用の疑いをかけられかねない、窓から入るのも泥の足跡が残って厄介な証拠になる、と男は制止したのである。

夕刻の五時近くなってようやく、村長代理が村人たちを伴い、内側の掛け金の位置をめがけて扉を破った。マデベーヌは暖炉の前に倒れ伏していた。その亡骸の傍らには、一丁のピストルが落ちていた。現場検証を引いた新聞の記述によれば、頭部の銃創は右耳の近傍から入り、前額部の左上へと抜けていた。傷のありさまから当初は自死も疑われたが、その見立ては長くは続かなかった。医師団は、本人がこの角度で自らに発砲することは物理的に不可能であると断定した。

台所には、検察側が決定的とみなした不審な痕跡がなおも残されていた。暖炉の火には灰がかぶせられていた。じゃがいもの皿には、血と肉片の混じり合ったものが村長代理の目に留まった。アントワーヌは当初そんなものはないと言い張り、次いでマデベーヌが鼻血を出したのだろうと取り繕った。男は皿を始末しようとしたが、村長代理が押し留めて保管させた。その夜、家具の番を命じられた者たちに対し、汚れが広がるからといってじゃがいもを捨てるようアントワーヌが頼み込んだと新聞は伝えている。この振る舞いは証拠隠滅の企てとして追及されたが、それが何を意味するかは司法の判断に委ねられるべき事柄であり、物理的な痕跡そのものとは峻別されねばならない。

捜査当局は扉の仕掛けについても実験を行った。外側から扉を注意深く操ることで、内側の掛け金を落とし、鍵前を閉ざすことができるかを確かめたのである。実験は成功し、鍵を持たずとも外から施錠して立ち去ることが可能であると判明した。これにより、不在の訪問者という男の言い逃れは瓦解した。追い詰められたアントワーヌは、屋内に別の男が潜んでおり、その者が干草場の階段から逃走したのだと語り始めた。しかし報告によれば、そのような不審者の足跡は何ひとつ発見されなかった。厳しく問い詰められた末、アントワーヌはついに自ら発砲した事実を認めた。

法廷で、男は犯行の瞬間について自らの弁明を述べた。マデベーヌに口汚く罵られ、顔に唾を吐きかけられたのだという。相手がフライパンを取りに背を向けた隙に、男は引き出しから弾丸の装填された一対のピストルを取り出し、一丁を暖炉の脇に置き、戻ってきたマデベーヌめがけて引き鉄を引いた。凶行を語りながら男は涙を流し、激怒のあまり前後を忘れたのだと訴えた。決して前もって企てていたわけではない、と男は主張した。一方、起訴状は犯行に先立つ明確な殺意の形成を認定していた。この二つの主張は、一点において鋭く対立していた――その凶行は練り上げられた謀殺の結末であったのか、それともその場の諍いが生んだ激情の発露であったのか。

裁判長による訊問は、兄弟の財産、マデベーヌと兄弟の関係、遺産分与の訴訟、そして発砲の瞬間の態勢へと及んだ。アントワーヌは怨恨を否定し、脅迫の事実も争ったが、かつてマデベーヌに決闘を申し込んだことだけは認めた。遺言書の内容に不満はなかったと言い添えつつ、マデベーヌに渡った財産は兄弟共有の金で築いたものだと主張した。ピストルを手にとる際、腰を浮かせただけで立ち上がってはいないと最初は言ったものの、重なる追及の末に、発砲時には立ち上がっていたことを認めた。架空の訪問者については、別の男が凶行に及んだかのように偽装しようとした事実を自白した。

裁判記録は、出廷した証人一人ひとりの証言を余すところなく伝えているわけではない。ただ、尋問を受けた者たちが検察の起訴事実を裏づけたと記すのみである。検事総長は社会への見せしめとなる処罰を求めつつも、情状酌量の余地を完全には排除しなかった。弁護人ラショーの熱弁が終わり、裁判長が審理の要点を総括した。『ガゼット』紙が評決の前に伝えたのは、そこまでの経緯である。

陪審員団は、故意の殺人には「然り」、計画性には「否」と答え、情状酌量を認める判断を下した。ピュイ=ド=ドーム県古文書館に「U 10303」の記号で保管され、県の歴史資料群に筆写された判決正文によれば、フランソワ・マデベーヌに対する殺人罪が成立し、アントワーヌ・ジェロー=デュモンテルには懲役十年の刑が言い渡された。時に七十四歳。当時の刑法が殺人に科していた重労働刑を免れたのは、六十歳以上の受刑者を懲役に減軽すると定めた1854年法によるものであった。判決はまた、男に訴訟費用の弁済を命じていた。

判決が下る前、新聞は被告を強欲で執念深く、復讐心に満ちた男と決めつけ、計画性は疑う余地がないと報じていた。しかし陪審員団はその予断には与しなかった。この差異こそが肝要である。アントワーヌはマデベーヌを故意に殺害した罪で有罪となったが、前もって練られた殺意までは証明されなかったと判断されたのである。閉ざされた扉、内側の掛け金、そして血に汚れたじゃがいもは検察の告発を補強したが、陪審の評決は、故意の殺人と計画的謀殺との間に厳然たる一線を画した。この裁判の結審も、不公平と争われた遺産の分配を元に戻すことはできず、兄弟が長年暮らした家の傷跡を癒やすこともなかった。司法の記録が後世に語り得るのは、ただ裁判官たちが下した冷徹な判断――一端の殺人、酌むべき情状、そして十年の懲役――その事実のみである。

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この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

内掛けの鍵

短編小説仕立ての独立した法廷ミステリ。寒村の殺人事件の記録を整理する若き書記補の女性が、内側からかんぬきを下ろされた扉がいかにして外から施錠され得たのか、その物理的矛盾の再現に挑む。家長の弁解、台所に残された不可解な痕跡、そして夜なべ仕事から戻った女たちの足取りは、一見すると矛盾に満ちていた。数時間の検証の果てに彼女が知るのは、からくりの解明だけでは「計画的謀殺」の決定打にはなり得ないという司法の壁であった。扉の仕掛け、一つの自白、そして故意と計画性の狭間に潜む闇を凝縮して描く短編。

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長篇小説(ロマン)

最後の生存者の分け前

史実を下敷きにした重厚な歴史長編小説。長年にわたり財産を分かち合ってきた二人の老兄弟の農家で、一通の遺言書が忘れ去られた生前贈与と未清算の負債を白日の下に晒す。その家で育てられた素性の定かならぬ青年が思いがけぬ相続人となり、取り分を奪われたもう一人の兄弟は、日常のあらゆる諍いを裏切りの証拠拠りと見なし始める。凄惨な死ののち、捜査官は長年積み重なった家族の経済関係を解きほぐさねばならず、証人たちの記憶もまた同じ脅迫を巡って食い違っていく。富の配分がいかに血族の絆を狂わせていくかを、数年にわたる歳月とともに描く大河小説。

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大河三部作(トリロジー)

三つの供述書

同一の女性裁判書記を主人公に据え、一巻ごとに一つの完結した事件記録を精緻に描く歴史連作三部作。第一巻は、密室の背後に横たわる死と、検察が申し立てた謀殺が単なる故意の殺人と認定されるまでの認識の落差を追う。第二巻では、自白が覆り法医学鑑定の真偽が命運を握る毒殺事件の深層に迫る。第三巻は、新聞の扇情的な報道を読んだことで証言を塗り替えてしまう証人と対峙する。幾多の法廷に立ち会う中で、主人公は書類への無邪気な信を捨て、現場検証の事実、検察の告発、そして陪審評決の三者を冷徹に見つめ分かつ眼を養っていく。

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歴史的典拠と文学的再構成について

原典となった同時代の報道記事は、証人尋問や弁護側の主張の大筋を伝えるにとどまり、検察の起訴状や記者の論評は陪審員の最終判断そのものを反映するものではない。報道の文中にも表現の齟齬が見られる。表題や起訴状では「計画的謀殺(assassinat)」と記されているのに対し、陪審員団は計画性の存在を明白に否定している。古文書館の判決正文が確定した法的身分は「情状酌量を伴う故意の殺人(homicide volontaire)」である。事件の舞台となった地名「ビオレ(Biollet)」は判決記録によって確認されているが、新聞記事の文字認識処理(OCR)では時に「リオレ(Riollet)」と誤認されている。なお、刑の執行状況や服役後の受刑者の動静については、資料上に一切の記録が残されていない。

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