ジョゼフ・ルシュルクは、ただ友人に付き添ってそこへ足を踏み入れたにすぎなかった。告発者との面会の約定があったわけでもなく、司法官の執務室で過ごすわずかな時間を恐れるいわれなど毛頭なかった。連れの男は、捜査の折に押収された書類の返還を求めに来たのである。手続きさえ済めば、ふたり揃って立ち去るはずであった。その場には、二人の女もまた控えの間で待機していた。女たちは入ってきた男たちを注視し、その姿に凶賊の面影を重ね合わせた。
面通しをすべき者と引き合わされる者をあらかじめ引き離すという初歩の手続きすら顧みられなかったこの偶然の邂逅から、ひとつの死刑宣告が紡ぎ出されることとなった。しかし、世に名高い「リヨン便駅馬車襲撃事件」のすべてが、単なる不運な暗合に帰せられるわけではない。一人の人間の容貌が断頭台へと至るには、その後に積み重ねられる供述、対質尋問、そして法廷の審理が欠かせない。疑義がひとつひとつ押し流され、あるいは押し流されたかに見えねばならぬ。疑惑が確信へと変貌を遂げてゆくその果てしない過程は、治安判事ドーバントンの執務室において、まさに端緒を開いたのである。
一七九六年四月二十七日、リヨン行きの便駅馬車がリューサン近郊の街道において襲撃された。郵便取扱人と御者が凶弾に倒れた。賊徒どもは金貨と、イタリア方面軍へ送られるはずであった数百万フランものアシニャ紙幣を強奪した。奪われた二つの命、莫大な被害額、そして国家権力の最も日常的な運行――駅馬車の往来――に対するあからさまな蹂躙であった。凶賊を乗せて走った街道は、いまやその足跡を吐き出さねばならなかった。
旅人に給仕した者、すれ違った者、あるいは不審な影を見かけた者たちへの取り調べが進められた。宿駅に立ち寄り、騎馬の旅に必要な品を求め、容貌や衣服の記憶を残していった男たちがいた。それらの証言は貴重であったが、同時に極めて脆いものでもあった。酒を注ぐ宿の給仕は、数日後に裁判官の前でその客の人相風体を証言せねばならぬとは夢にも思わぬからである。記憶というものは、のちに証拠へと仕立て上げられる運命にあるとは知らぬまま、無意識のうちに形作られていたにすぎない。
捜査の糸口はクリオルへと繋がり、シャトー=ティエリにて盗品を所持していた彼が拘束された。その周辺から、司法の手は次々と関係者を捕らえていった。後に釈放されることとなるゲノも、身分証明の書類を官憲の手に預けたままであった。彼はその返還を求め、同郷ドゥエの知己であるルシュルクを伴って出頭したのである。こうして、この事件において最もやましいところのない行為――自らの素性を知る役所へ進んで足を運ぶという振る舞い――が、一転して破滅的な軽挙の様相を帯びることとなった。
居合わせた二人の女は、入ってきた男たちを見て犯人に違いないと言い放った。ルシュルクの自由は、この瞬間に断ち切られたのである。
彼には確立された社会的地位があり、家庭があり、その潔白な素行を証言できる知己もあまた存在した。それは周囲の人々が驚愕した理由を説明し得ても、告発そのものを覆すには至らなかった。いかに信望ある名士とて罪を犯さぬとは限らず、法廷にとっては世評の高さと犯行の物理的不可能性とは別義であった。弁護側は、普段の素行という安寧の領域を離れ、はるかに狭隘なアリバイの立証へと追い込まれた。駅馬車が襲撃されたその時、ルシュルクはどこにいたのか。誰が彼を目撃したのか。それは何時何分であったのか。
彼がその日パリにいたと証言する者たちが現れた。その一人、宝石商のルグランは、書き留められた日付によって記憶の確かさを裏付ける帳簿を所持していた。紙の上に刻まれた記録は、口頭の証言だけでは果たせぬ確実性を与えるかに思われた。ところが、その日付に書き直された跡が見つかったのである。ルグランには偽証の疑いがかけられ、アリバイを補強するはずであった記録は、一転して被告を追いつめる凶器へと変貌した。
この一行の訂正跡が及ぼした影響は、紙面に占める面積をはるかに超えていた。他の証言が物理的に消滅したわけではない。しかし、証言の色合いが一変したのである。弁護側の証人の一人が帳簿に手を加えたのだとすれば、それに続く者たちが自らの記憶に手を加えていないと誰が言い切れようか。被告を救おうとする助力そのものが、今や疑惑の新たな糧となった。彼が街道で目撃されたという追及にとどまらず、その痕跡を消し去るための組織的な隠蔽工作が存在するのではないかという猜疑の眼が向けられた。
八月の公判において、証言の数々は互いに激しく衝突しながらも、決着を見出せぬままであった。ある者はルシュルクをパリで見たと断言し、ある者は賊の逃走路上で目撃したと言い張った。だが、この矛盾の只中に、ひとつの名前が浮かび上がった――デュボスである。クリオルと関係のあった女、マドレーヌ・ブレバンは、人違いが起きていると頑なに主張した。手配されている男は法廷に立つこの人物ではなく、ブロンドの鬘をつけ、彼に酷似した別の男であると。
酷似という符合は、事態の全体に合理的な説明を与え得た。証言者たちを偽証の汚名から救い、かつルシュルクを大罪から解き放つ道――彼らは確かにその顔を見たが、別人に結びつけてしまったのだ、と。しかしそれ単体では、いまだ立証とはなり得なかった。その「もう一人の男」を探し出し、犯行現場にいたことを証明し、盗賊団との繋がりを詳らかにせねばならない。法廷が裁くのは現に目の前にいる被告たちであり、その仮説が求める再捜査の完了を待ってはくれなかった。
一七九六年八月五日、ルシュルク、クリオル、ベルナールの三名に死刑判決が下された。他の被告らは極刑を免れ、書類を取りに来たゲノは無罪放免となった。友人を誘った当人は生を全うすることを許され、ただ付き添っただけの男が獄舎に取り残されたのである。
ここに至り、クリオルはこの裁判の歴史において特異な振る舞いを見せ始めた。もはや自らの保身を図るのではなく、己の罪を認めつつ、ルシュルクの無実を声高に叫び立てたのである。処刑の直前に至るまで、そして断頭台へ向かう護送車の中ですら繰り返されたその陳述は、彼自身の知る真の共犯者たちの名を挙げ連ねていた。死刑囚とて虚言を弄することはあろう。己の罪を認めたからといって、その後に続く言葉のすべてが直ちに真実となるわけではない。しかし、自らの死刑を甘受しながら隣人の助命を叫び続ける男の声を耳にして、その抗議を何の意味もない譫言として退けることは、人の情理として極めて困難であった。
一七九六年十月三日、ルシュルクは処刑された。同じ日、クリオルもまた露と消えた。司法は最初の審理を終えたが、この事件の真実を汲み尽くしたわけでは毛頭なかった。
数年後、かのデュボスが捕らえられ、法廷に引き出された。彼の有罪判決は、ルシュルクの擁護者たちにとって、最初の審理において欠けていた「生ける証拠」そのものをもたらした。もはや法廷で飛び交うだけの空虚な名前ではない。同一の凶行の咎によって、別の男が裁かれたのである。遺族はここから、払われた歳月の長さがその行く手を阻んだ抵抗の凄まじさを物語る、果てしない闘いへと足を踏み入れた。もはや父の命を救うためではない。父の名に死刑囚の刻印を背負わせることなく、子らがその家名を誇り高く名乗れるようにするための闘いであった。
しかし法は、世人が待ち望んだ勝利を彼らに授けはしなかった。法理のうえでは、新たな真犯人が確定したからといって、かつての共犯関係が自動的に否定されるわけではなかったのである。再審の扉を開くには、瓜二つの男がいたという説得力ある物語以上の法的手続きが求められた。この事件は一八六七年の再審法改正をめぐる議論に少なからぬ一石を投じたものの、翌一八六八年、遺族の申し立ては破毀院において退けられた。ルシュルクは国民の記憶において「冤罪の象徴」として不朽の名を留めることとなったが、その記録を永久に閉じるはずの名誉回復は、ついに果たされぬままであった。
この懸絶こそが、この事件の歴史が残した最後の胸騒ぎである。帳簿の訂正跡、不手際な面通し、クリオルの死の間際の叫び、そして遅すぎたデュボスの登場を物語ることはできる。しかし、かつて一度として下されなかった「無罪」の宣告を、後世の者が勝手に書き加えることは許されない。二人の男が役所の控えの間で待っていた。一方は自らの身分証を求めて。もう一方は、ただ友に付き添うつもりで。七十余年の歳月が流れたのちも、ある一家は、あの朝の出来事が真に何を証明したのかを司法が定めてくれる日を、なお待ち続けていたのである。
