その判決書は、村中の者が余さず目を通せるよう、村役場の公設掲示板に貼り出された。しかし、紙面が無傷のまま朝を迎えることはなかった。一八八九年五月十八日の夜、暗闇に乗じた手が貼紙の上を這い、文字の列を墨黒に塗り潰したのである。人影は闇の中へと走り去り、後を追った二人の村人は、逃げた男を村参事会員のRと見誤ることはなかったと確信した。ところがその数時間後、村の雇人Mが村長のもとを訪れ、貼紙を汚したのは自分自身であると告白したのである。法廷の外でなされたこの打ち明け話こそが、やがて裁判官と法学者らの意見を真っ二つに分かつ問いの端緒となった。自らの所業を法廷で黙秘したことは、宣誓の上での偽証に当たるのか、と。
ただ「B」という頭文字でのみ記録されるこの寒村は、過去十年来、村長を支持する一派と司祭に追従する一派による果てしない反目の中にあった。この確執に新たな火種をもたらしたのが、参事会員Rの息子である。司祭は少年を聖歌隊の席に招くことを拒み、ある礼拝の折にはオルガン桟敷から引きずり降ろした。ある者はこれを教会内の規律を守る処置とみなし、別の者は政治的な怨恨の現れと受け取った。息子を辱められたと憤激した父親は司祭館へ押し掛け、司祭に激しく詰め寄った。男は怒りに我を忘れ、退去を求められても頑として館を去ろうとしなかった。
治安裁判所は男に対し、住居侵入および侮辱の罪で一週間の禁錮刑を言い渡した。あわせて、判決確定から十日以内に、判決要文の写しを加害者の費用負担をもって村役場の壁面に掲示することを司祭に認めた。刑罰の公開を期したこの措置が、今度は新たな訴訟の震源地となる。両陣営の間では、貼紙などすぐに破り捨てられるだろうと囁かれていた。村長Hは五月十八日の夕刻、格子のない無防備な掲示板にそれを貼り出すよう雇人のMに命じた。その場には参事会員Rの姿もあった。MはRに向け、自分ならばこんな紙など掲示させたままにはしておかない、と言い放った。
夜も更けてから、司祭側の門徒二名がカンテラの明かりを頼りに件の文章を読みにやって来た。二人の言によれば、役場の上階から何者かが唾を吐きかけてきたといい、村長に嫌疑の目が向けられたものの、事件の証拠からその犯行を立証することは叶わなかった。誰かが貼紙に手を下すに違いないと踏んだ二人は、建物を監視し続けることに決めた。役場から十二メートルほど隔たった農家の納屋の陰に身を潜め、板戸の隙間から表の様子を窺ったのである。
夜の十時半頃、ひとりの男が抜き足差し足で忍び寄り、手で紙面を擦り汚した。気配を察するや、男は素早く逃走した。二人の見張りは短い距離を追跡し、深い闇夜であったにもかかわらず逃げたのはRに相違ないと断じた。この犯人特定こそが、事件の最も危うい結節点となった。彼らは参事会員の姿を確かに見届けたと信じて疑わなかったが、彼らは敵対する陣営に属しており、夜の視界は極めて悪かった。ところが翌朝早く、Mが村長に対し、貼紙に泥炭を擦り付けたのは自分だと打ち明けたのである。前の晩、司祭の取り巻きどもがカンテラをかざして貼紙を読んでいたのが業腹だった、と男は語った。
この告白が直ちに予審判事のもとへ届くことはなかった。酒類販売免許の更新を巡って村長や参事会員Rと対立していたある居酒屋の亭主が、検察局へ向けてRを告発したのである。告発は、司祭派に属する前村長が認めた書簡を盾に取っていた。選挙の私怨、党派の確執、そして商売の利権が複雑怪奇に絡み合うこの村にあっては、どのような告発も純粋な正義感から出たものとは受け取れなかった。しかし、その意図が邪であるからといって、証人らが嘘をついていると即断することもできない。それこそまさに、司法が解きほぐさねばならぬ糸口であった。
一八八九年七月二日、Br区裁判所において、五月十八日に公用建造物の公文書を悪意をもって汚損した罪でRに対する公判が開かれた。司祭派の二人は宣誓の上で、逃げた男は参事会員に間違いなかったと証言した。一方のMもまた宣誓し、開け放した窓から掲示板を見張っていたが、見通しが利く位置にいたにもかかわらずRの姿は見かけなかったと申し立てた。宣誓の義務を負わない証言人として出廷したRの妻は、夫は十時には床に就き、終夜自分の傍らを離れなかったと述べた。証言は真っ向から対立し、裁判所は事実関係の解明が不十分であると判断して参事会員に無罪を言い渡した。
検察局は直ちに控訴した。軽罪裁判所での控訴審において、先の証人二名はふたたび宣誓し、あれはRであったと繰り返して人違いの可能性を一蹴した。そのとき、Mが法廷を唖然とさせる言葉を放った。「やったのは、この私です」。自分が貼紙を汚したのだと自白したのである。裁判長は男を「不届き者め」と面罵した。検察の控訴は棄却されたものの、この告白によって事態は一変した。二人の証言者と雇人Mは偽証の容疑でその場で拘束され、訴追される身となったのである。
三人の男が置かれた立場は、決して同一ではなかった。司祭派の二人について言えば、彼ら自身の陳述と後の判決が認めた通り、真実にRであると信じ込んでいた。その確信は客観的には誤りであったが、裁判所は彼らが故意に虚偽を述べたのではないと判断し、無罪を言い渡した。他方、Mの非は火を見るより明らかであった。誰が貼紙を汚したのかを知り尽くしていながら、証人として法廷に立った際には口を噤んでいたからである。もっとも、その沈黙はRの無罪判決に寄与し、控訴審に至って男はついに真実を明かしていた。法廷の議論は、物理的な実行犯の追及から、証人は自発的にどこまで語る義務を負うのかという法理へと移っていった。
弁護側は、証人には自己を罪に陥れる供述を拒む権利があると主張した。刑事訴訟法第五十四条は、自らを訴追の危機に晒すおそれのある質問に対しては答弁を拒絶できる旨を規定している。一審において、Mは自らの関与について直接問われたわけではなかった。判事は、お前が自ら掲示を破毀したのかと尋ねはしなかったのである。弁護人の論理によれば、そのような質問に対して正当に答弁を拒む権利があったとすれば、質問そのものがなされなかった事実について沈黙したとしても偽証の責めを負ういわれはないはずであった。もしこれを否定するならば、裁判官が質問を怠るだけで、法が定めた自己負罪拒否の特権を奪い去ることが可能になってしまうではないか、と。
しかし裁判官らは、異なる解釈を採った。証人は「すべての真実を語り、何事も隠し立てしない」と誓ったはずである、と裁判所は説いた。Mは誰よりも事件の真相に通暁しており、法廷に光を当てるべく証言台に立ち、犯人の正体こそが審理の核心であることを承知していた。ならば男は、自らを罪に落とす虞のある点については答弁を拒否する旨を明確に申し立て、その理由を疎明すべきであった。単なる沈黙は、法が認める答弁拒絶の意思表示とはみなされない。問われなかったからといって肝要な事実を秘匿してよいと思い込んだ点に、男の重大な「過失」があったと断じられたのである。
判決は、Mが他人に罪を着せようとしたからではなく、初公判において不注意にも自らの宣誓に違背したという「過失偽証」の廉によって有罪を下した。一方、他の二名は、知覚の錯誤によるものと認められて放免された。かくして、たった一枚の貼紙から生じた三つの証言のうち、事の実相を正確に伝えたものは一つもなかったにもかかわらず、刑事責任を問われたのは唯ひとりであった。闇の中で見た人影を思い誤った者たちは罪を免れ、真犯人の正体を知りながらその名を明かさなかった者だけが罰せられたのである。
Mに科された主刑は禁錮三か月であり、未決勾留日数の一部がその刑期に算入された。さらに翌一八九〇年二月一日には別個の判決が下り、公用掲示板を汚損した罪で三週間の追加禁錮刑と訴訟費用の負担が言い渡された。二つの処罰は、それぞれ異なる行為に対するものであった。公の判決文を汚した罪と、法廷において不完全な証言に終始した罪である。発端は一枚の汚された紙片にすぎなかったが、裁判の果てに問われたのは、人が裁判の刃から身を守らんと欲するとき、明言することなくただ黙秘するだけでその身を守りおおせるのかという、重い法理の深淵であった。
名高い事件録『ピタヴァル』の編者は、宣誓に関するこの判決の論理に異義を唱え、真の偽証者どもが免訴される一方で、罪なき者が罰せられたのではないかと読者に問いかけている。しかしその疑念は編述者の批評に属するものであり、法廷の主文そのものではない。裁判所は誠実なる錯誤と過失による沈黙とを厳然と区別した。法廷の側には、調書に記録された証言と証拠のほか、村の党派争いの暗奥を覗き見る術は持たなかったのである。村落の抜き差しならぬ確執こそが、闇夜の中に「自分が見たいと欲するもの」を男たちに見せしめたのであった。
夜が明けたとき、壁面には黒く汚れた紙が残り、村の家々にはその夜を巡る真っ向から食い違う二つの噂が残された。この裁判を経てもなお、村長と司祭の反目は消えず、父が舐めた屈辱も、求められた以上の誠実さを迫る宣誓の文句に困惑した雇人の胸のわだかまりも、癒えることはなかった。ただ法廷は、峻烈な一線を画したのである。自らが事件の当事者であることを知る証人は、沈黙することを選ぶならば「自らは口を閉ざす」と宣言せねばならぬ、と。貼紙は手のひと振りで汚された。しかし法が裁いたのは、語られずに葬り去られた言葉であった。
