シャルロットは、友のために羹を残しておいた。なぜそのようなことをしたのかと問われたとき、その振る舞いはもはや施療院のつつましい日常の枠を外れていた。人々はその所作を詮索し、秤にかけ、そこに潜む底意を探ろうとした。友はすでに身罷り、いま一人の修道女も命を落としかけていたのである。夕餉を待つあいだ鉢が置かれていた小さな戸棚――司法はその一角こそ、ささやかな心遣いが兇行へと変貌を遂げた動かぬ現場であると信じて疑わなかった。
シノンの町で、シャルロット・ノトニエ・ド・カステルフランは施療修道女たちの間で暮らしていた。すでに還暦の坂を越えていた。三十五年来の友であったグランメゾン夫人は彼女より年長で、その暮らし向きは爪に火をともすようなものであった。一方はそれなりの身代を持ち、他方は満たされぬ不如意を抱えていた。二人の絆は、その懸隔をひそやかに埋め合わせる術を心得ていたのである。かつては法廷に持ち出すことなど思いもよらなかった旧い内々の配慮が、いまや証言や、買い与えられた家具、あるいは公正証書による年金という形で、法廷の俎上に載せられようとしていた。
1812年2月27日、施療院の昼餉に肉入りの羹と精進の羹が供された。多くの寄宿人や修道女が前者を口にし、その味に満足していた。グランメゾン夫人の求めに応じ、その残りを夕餉に回すことは珍しくなかった。この日、シャルロットみずからが友と、いま一人のプロ=ド=リール夫人のために羹を取り分けた。彼女はその鉢を、食堂にある自分専用の小さな戸棚へ収めた。出入口の脇にあるその家具は、平生、食物を蓄えておく場所ではなかった。
夕餉ののち、二人の婦人は激しい嘔吐と痙攣に見舞われた。医師が駆けつけ、その症状の重篤さから何らかの劇物が混入したのではないかと疑いを抱いた。手当てによって一時の小康を得たものの、やがてグランメゾン夫人の容態はにわかに悪化し、2月29日に息を引き取った。プロ=ド=リール夫人はかろうじて一命を取り留めた。配膳の前に羹を味見した「フェルメ」こと召使いのナドローもまた、同じく体調を崩していた。昼には無事平穏に食された料理が、取り分けられたのち、夕刻には複数の者を苦悶の淵に沈めたのである。詮索の手は、その空白の刻限に何が生じたのかへと向けられた。
鉢と、病人のもとで用いられた器が検められた。そこには鉱物の微粒子が認められた。砒素、あるいは昇汞の疑いが持たれたが、残された量が微小に過ぎ、十全な鑑定をもって物質を特定することは叶わなかった。グランメゾン夫人の腑分けにおいては、胃および腸に明らかな損傷が見出され、医官らは腐食性毒物の作用であると断定した。毒殺の心証ばかりが、それを引き起こした物質の同定を追い越して独り歩きを始めたのである。
シャルロットは間もなく、すべての答えが己の名へと行き着くような詰問の網の目に囚われていった。誰が頼まれもしないのに羹を取り分けたのか。誰があのような不自然な戸棚にそれを置いたのか。温め直すためにそこから出すよう、誰がフェルメに指図したのか。召使いの証言によれば、シャルロットは鉢を移した理由について、病人に供する食事と混ざり合わぬようにするためだと説明したという。平時であれば、それは家事上の行き届いた配慮と映ったかもしれぬ。されど友が斃れた今、その釈明は、検察側の手によって邪な計算の証左へと塗り替えられていった。
鉢が置かれてから配膳されるまでのあいだ、食堂には常に人の気配があり、何者かが戸棚に近づく姿は目撃されていないとされた。公訴事実は、この「絶えざる監視」という仮定から、修道女にとって逃れようのない恐るべき結論を導き出した。すなわち、毒を混入し得たのは彼女をおいて他にはいない、と。しかしながら、誰も見咎められなかったということは、手を下すことが可能であったあらゆる瞬間が見届けられていたことを意味するわけではない。小さな戸棚は、他のすべての可能性を塞ぎ立てようとする論理の要と化していた。
シャルロットが見せた悲嘆の色さえも、彼女に不利に働いた。異変が起きた直後、彼女はあちこちを駆け回り、なぜあの羹を残してしまったのかと身の不運を嘆き、己こそがこの災厄の元凶であると自らを責め立てた。それに対し、病人の傍らにとどまって看病に専念しなかったではないかと咎め立てられた。葬儀の席で見せた落涙は、わざとらしい取り繕いとみなされた。うろたえようと涙を流そうと、人々はその挙動のすべてに罪の影を見出そうとした。正反対の所作のいずれをも同一の悪意へと結びつける――それこそが、検察の振るう恐るべき裁量であった。
残る謎は、彼女がいかにして毒物を手に入れたかであった。施療院の薬局には、数年前から一包みの昇汞が保管されていた。薬品を預かる修道女は、その品は滅多に手に入らぬものであり、長らく使われた形跡もないと証言した。しかしながら、数か月前に一人の外科医が彼女の立ち会いのもとでそれを少量持ち出していた事実が判明する。その証言は公の記録と突き合わされねばならなかった。残された包みを秤にかけたところ、外科医の持ち出し分を差し引いても、記録された分量と食い違いが生じていた。検察にとって、この不足こそが犯行の物的証拠であった。もっとも、それが誰の手によって持ち去られたのかを示す証拠は皆無であった。
シャルロットは毒物に触れたことなど断じてないと否認し、薬局にそのような品が存在することすら最近まで知らなかったと言い立てた。その薬品の名を覚えるのに難儀したことさえ、狡猾な偽装であると指弾された。彼女には野心があり、嫉妬があり、修道院長の座を望んでいたのだと噂された。二人の修道女が死ねば彼女の利となる、と人々は囁き合った。親しい者たちが温厚で情け深いと口を揃えていた女の肖像は、こうして塗り替えられていった。かつての情愛の証は偽善の可能性へと反転し、尽くされた心づくしは長年隠し持たれた打算の表れと解釈された。
アンドル=エ=ロワール県の重罪裁判所において、若き弁護士ベルナゼはこの偏見の城壁を突き崩すべく立ち上がった。彼はまず、毒物の正体に疑義を呈した。医師らの見解を盾に、問題の物質は昇汞ではなく砒素であると主張したのである。そして弁護側の証拠によれば、薬局には砒素など存在しなかった。この反論は、検察が執拗に依って立つところの「減っていた薬品の包み」と「羹」とを結びつける構図の急所を突いた。これのみをもって化学的な断定を下すことは叶わぬにせよ、検察の主張する出所がいかに危うい憶測の上に立っていたかを雄弁に物語るものであった。
次いでベルナゼは、二人の友のあいだに交わされていた真実の絆を法廷に呼び戻した。グランメゾン夫人の甥たちは、シャルロットの細やかな慈しみを証言した。金細工師のボノモーは、ある特異な経緯を物語った。夫人がかねて欲しがっていた家具を贈るため、シャルロットは彼に銀器を預け、彼の手から直接その贈り物を届けさせたのだという。さらに彼女は公証人のもとで、老いた友のために年額七十五フランの終身年金を取り決めていた。これらは単なる追従の言葉ではない。証人たち、公公正証書、そして実体ある取引の記録が、この友情に確かな歴史を与えていたのである。
1812年9月11日、陪審員の一致した評決により、シャルロット・ノトニエは無罪放免となった。シャンパニャックの記録はこの判決がもたらした歓喜を伝え、彼女の潔白を熱烈に支持している。その筆致はやがて、当初疑いの目を向けられていた他の人物たち――召使いのフェルメ、そして収税吏の妻リュエル夫人――へと向かう。二人はオルレアンの巡回裁判所の決定によって釈放されていた。記録者は彼女らの不審な挙動をことさらに書き連ねているが、それらは決して確定した断罪ではなく、真犯人を名指しするものでもない。
無罪となった被告の代わりに即座に別の真犯人が現れることを望む者にとって、この事件の結末はいかにも不完全に映るやもしれぬ。一人の女が夕餉ののちに命を落とし、いま一人は生き延び、そしてシャルロットは自由の身を取り戻した。この記録は毒殺の真の淵源を解き明かしてはくれない。されどそこには、買い与えられた家具の代価、つつましい年金、そして三十五年という歳月の記憶が留められている。一杯の羹がひとつの全生涯を汚し尽くすことを阻むために、思い起こされねばならなかったすべてのものがそこにある。評決によって辛うじて救われた友は、もはや羹を残してやったあの友を訪ねることは叶わなかった。
