モンバイイの靴下に、数滴の血が滲んでいた。それは青年自身の腕から流れたものにほかならない。息絶えた母の軀を前にして気を失った彼を介抱すべく、駆けつけた医師が施した瀉血の飛沫であった。されど、巷の噂話の数だけ医師が立ち会っていたわけではない。訃報が口から口へと渡るにつれ、血痕の持ち主はいつしかすり替えられていった。それはやがて死者の血となり、弑逆の証拠と化し、最後には何者もがしたり顔で犯行を断ずる拠り所となったのである。サントメールのこの屋敷において、息子のその血は、実の母の血潮を流した廉で彼自身を断罪するための証左とされた。
未亡人モンバイイは煙草製造所を差配し、その稼ぎで息子夫婦を養っていた。製造所は徴税請負人の特許状に依存する事業であり、若夫婦が将来確実に継承しうる財産ではなかった。むしろ母の死は、彼らの糊口の道を直ちに脅かしかねない。屋敷のなかでは、家父長ならぬ家長としての威令と、経済の主導権とが同一の手に握られていた。人々はそこで働き、眠り、諍いを重ねた。この生活のいずれか一つを捨て去ることは、その一切を失うことを意味していたのである。
息子は草木を愛でる人柄であった。往時の記録を残したシャンパニャックは、彼を温和で、屋敷内で繰り返される衝突には不向きな性格であったと伝えている。園芸を好んだという事実そのものは、刑事事件の告発に対して何ら無実を立証するものではない。されどそれは、一人の男が法廷に引き据えられる以前に、いかなる日常を生きていたかを如実に物語っている。モンバイイには余暇があり、手慣れた日常の所作があり、判決を待つ囚人のそれとは異なる時の過ごし方があった。彼は母と妻との間で、二人がもはや居合わせることすら嫌った家庭を、辛うじて繋ぎ止めようと腐心していた。
姑は嫁をいたく疎んでいた。古記録は、その不和を姑の過度な飲酒癖と、煙たい目撃者を遠ざけようとする思惑に帰している。罵詈雑言と脅迫の果てに、若妻は耐えかねて実家へと逃れ、一月ほど身を寄せた。夫は連れ戻そうと懇願したが、妻は拒んだ。しかし、この別居に終止符を打ったのは裁判所の決定であった。法は妻に対し、夫の家へ戻るよう命じたのである。法廷の被告席に二人を並ばせるより早く、司法の権力はすでに、この三人に同居の継続を強いていたのだった。
この帰還が若妻にいかほどの苦痛を強いたかは想像に難くない。まさに逃げ出したがっていたその場所へ、自ら引き返さねばならなかったのだから。夫にとって妻の帰宅は家庭の破滅が免れた証であったが、妻にとっては唯一の避難所を奪われたに等しかった。二人は再び一つ屋根の下に暮らすようになったものの、心の通い合いは失われていた。屋敷の主であり工場の差配人たる姑は、その強要された秩序の只中に、傲然と君臨し続けた。
嫁の復帰も、長きにわたる和解をもたらしはしなかった。未亡人は自室に引き籠もったものの、自分の家でありながら息を潜めて暮らすことに耐えられなくなった。一七七〇年七月二十六日、彼女は夫婦に対し、二十四時間以内の立ち退きを求める法的な通告を突きつけた。かつて同居を命じた司法が、今度はその家庭を引き裂く役回りを演じようとしていた。ここでもモンバイイが間に立った。記録によれば、息子の切なる嘆願に母の胸は解け、彼女は若夫婦としばし時を過ごし、追放は間一髪で回避されたかのように見えた。脆い平穏ではあったが、少なくとも門扉はまだ彼らに対して閉ざされてはいなかった。
七月二十八日、早朝五時。一人の女工が未亡人を訪ねて屋敷へやって来た。モンバイイと妻はまだ床の中にいた。起きてきた息子は母がまだ眠っている旨を告げ、女工とともに待つこととなった。仕事場を兼ねた家において、毎朝の決まった起床時刻は一種の厳格な約束事である。されど、その刻限は扉の向こうで物音ひとつ立てずに過ぎ去った。ついに人々が踏み込んだとき、未亡人は寝台の脇、小さな葛籠の上に折り重なるように倒れていた。その眼には傷があり、顔相は変わり果て、鼻からは血が流れ出ていた。
シャンパニャックの記述によれば、それは急死に伴う転倒であり、傷は葛籠の角に打ちつけたことによるもの、当時の言葉でいう「卒中」であったとされる。室内に踏み込んだ者たちが見出したのは、もはや呼びかけに応えぬ骸であった。モンバイイはその場で卒倒した。妻が助けを呼び、隣人たちが駆けつけ、医師が呼ばれた。母の死は動かしがたかったが、息子を正気に戻すため、医師は腕から血を抜いた。記録は、この処置の最中に、数滴の血が彼の靴下に落ちたと伝えている。息を吹き返させるための救命の処置が、その衣服の上に、のちに彼を死へ追いやる動かぬ証拠を残したのである。
埋葬が執り行われ、遺産には封印が施され、財産目録が作成された。そうした平穏な手続きも、過去の激しい諍いによって燻り続けていた不穏な空気を晴らすことはできなかった。未亡人が若夫婦を追い出そうとしていたことは周知の事実であり、嫁が一度家を出たことも知れ渡っていた。誰も目撃していないはずの光景が、これら既知の事実の隙間に、亡霊のように立ち現れた。夫婦は遺産目当てに母を手にかけたのだ、と。相続すべき資産など残されていないという事実がその説を揺るがすと、今度は怨恨が動機に据えられた。結末さえ変わらなければ、動機などいくらでも挿げ替えることができたのである。
靴下の血痕という細部は、異様な説得力を持っていた。それは目に見えるものであり、あるいは少なくとも、見たと証言しうるものであったからだ。噂話は漠然とした憶測を脱し、客観的な観察の装いを帯びるに至った。日頃の諍いが殺意の動機を裏打ちし、血痕が犯行の所作を立証した。欠けていたのは、動機と所作を理路整然と結びつける筋道だけであった。しかし、真摯な捜査の代わりに、幾度となく繰り返された風聞がその間隙を強引に埋めていった。やがてサントメールの町では、未亡人がいかにして死んだかを問う者はいなくなった。人々が口にしたのは、なぜあの若夫婦がまだ捕縛されないのか、という疑問だけであった。
二人は投獄された。別々に尋問されたものの、サントメールの法官らは、世間が要求する有罪判決を下すに足る証左を得られなかった。裁判所は夫婦の拘禁を続けつつ、一年間の追捜査を命じるにとどめた。この決定により彼らの命はひとまず繋ぎ止められたが、立証すらできぬ罪名のために、人生の丸一年が牢獄へと投げ込まれることとなった。だが、事態はその猶予すら許さなかった。追及に執念を燃やす告発官が、上級のアルトワ枢密院に対し、より過酷な裁きを求めて異議を申し立てたのである。
この上級法廷において、手続きは取り返しのつかぬ破滅へと突き進んだ。記録は、不可欠であったはずの証人尋問も対質もことごとく省かれたと告発している。夫婦には死刑が言い渡された。妻は二十四歳、胎内に子を宿していた。その懐妊ゆえに、彼女の処刑だけは執行停止となった。彼女はアラスの牢獄に留め置かれ、夫はサントメールへと送り返された。刑場に至るその瞬間まで、男は無実を叫び続けた。伝聞に残る彼の言葉は、執拗に迫られた自白を最後まで拒絶している。身に覚えのない大罪を認めたまま死ぬことなど、彼には到底受け入れられなかったのである。
処刑が果てると、疑心暗鬼は一転して深い同情へと変わった。記録は、群衆が取り乱し、打ち首となった男の遺骸に崇敬の念すら抱いて駆け寄る異様な様を描き出している。されど、この民衆の変心も、すでに露と消えたモンバイイには何一つ届かなかった。そしてそれだけで、獄中に残された妻を救えるわけでもなかった。臨月が近づくことは、嬰児の誕生とともに、裁判官らが母親を断頭台へと引き出す刻限が迫ることを意味していた。世論が自らの拙速な確信に悔恨を抱き始めたその時も、無情な時間は彼女を死へと追い詰め続けていた。
この暗雲を払ったのは、最高司法機関へ向けて建白書を突きつけたヴォルテールであった。事件はアラスに新設された高等法院によって再審の運びとなった。一七七二年四月八日、全員一致の判決が下され、若夫婦の完全なる無実が認められた。弁護士は生き残った妻を伴い、故郷へと凱旋した。彼女は自由を取り戻し、汚名を雪いだ家名を再び手に入れた。その帰還の列は、一見すれば輝かしい勝利の行進のようでもあった。しかしそこには、何としても妻を傍らに留めようと願い続けた夫の姿はなかった。女が踏んだ故郷の土は、未亡人としての土であった。他者の干渉に抗い、ともに暮らす日をあれほど求めた二人に、分かち合える日はもはや一日たりとも残されてはいなかった。
