一七八四年の通年を通じ、ニーム周辺の街道は、誰もが身を震わせずには旅をなし得ぬ魔所と化していた。旅籠となく城館となく、人々の口の端に上るは押し込みと辻斬り、暴かれし民家、略奪に遭いし屋敷の噂ばかりであった。週が巡るごとに、路傍に打ち捨てられた哀れな旅人の骸が見つかる。懐の金子は奪われ、多くは命脈をも断たれていた。ソーヴへ、ユゼスへ、あるいはソミエールへと続く道はことごとく追剥の巣窟となり、朝に出立して日暮れに宿へ辿り着けるか否か、誰一人として知る者はいなかった。
やがて、災厄の根源が明るみに出た。徒刑場を脱獄した四人の凶徒がいたのである。野に伏し町を掠める無頼の徒なれど、いざとなれば巧妙に気脈を通じ合い、折に応じて三人、六人、あるいは八人の徒党を組み、獲物が大きければさらに人数を募った。彼らは街道を往く旅人に襲いかかり、立ち去る後には決まって血の跡が残された。その陣中には、『ガゼット』誌が「内縁の女」と記す複数の女たち、そしてさらにいたましきことには、一人の幼子が侍っていた。
これほど重なる凶行を、司直がいつまでも等閑に付しておくはずもなかった。ニーム管区裁判所の国王検事、ラ・ブリュイエール氏は、これらの悪辣なる輩が女たちを伴い、ニームとサン=ジルの間にひっそりと佇む僻遠の瓦焼き窯を隠れ処としていることを突き止めた。賊の巣窟を見定め得たのは確かな前進であった。だが、難事は彼らをいかにして不意に討ち果たすかという点にあった。正面から押し立てて攻め入れば、もはや失うものとてない手負いの凶賊どもから、百歩の距離より銃火を浴びせられるのが落ちであった。
ここに及び、検事は力攻めを捨て、智計を巡らせる挙に出た。機知に富む三人の廷吏を選び抜くとともに、気概と忠誠心に満ちた二十余名の若者を募ったのである。賊の警戒を惹くことなく間合いを詰めるため、この一隊はことごとく狩猟の装束と装具を身に纏い、狩猟隊を装った。ガリグの灌木地帯を押し渡るその奇妙な隊列の様は、容易に目に浮かぶようである。肩には銃を担ぎ、腰には獲物袋を提げ、ある時は架空の野兎に歩を止め、またある時は幻の山鳩に銃口を向けつつ、何食わぬ顔で少しずつ、瓦焼き窯を取り巻く包囲の輪を縮めていった。『ガゼット』誌はこの茶番がどれほど続いたかを記していない。ただ、彼らの配慮がまことに時宜を得ていたため、賊にその企図を露ほども悟られることなく間近まで肉薄した、とだけ書き留めている。
突如として、偽りの狩人らは瓦焼き窯へと雪崩を打って踏み込んだ。不意を突かれた十人の悪漢は、その場でことごとく縛についた。ここに至り、彼らが重ねた悪行の数々はついに断たれたのである。
取り調べは長きにわたり、かつ周到を極めた。百名を超える証言者が喚問され、動かぬ証拠が積み上げられた。一七八五年二月十五日、管区裁判所の終審判決により、十名の凶賊には生きたまま車裂きの刑に処す旨が言い渡された。その翌日、内縁の女たちには晒し台に繋がれたる後、終身にわたり懲治監へと幽閉される刑が下った。
残るは、かの子供であった。十一歳になる少年である。『ガゼット』誌によれば、このおぞましき徒党に身を投じてわずか一月の見習いに過ぎなかったというが、すでにその役目を担わされていた。夜警を務め、街道へと斥候に出て獲物を物色し、さらには自ら真っ先に旅人を呼び止め、物陰に潜む頭目どもが躍り出て身ぐるみを剥ぐ隙を作っていたのである。道を尋ねてくる無邪気な子供を、いったい誰が疑おうか。
裁判官らは、この少年に刑罰を下さなかった。六年の間、施療院に収容してカトリックの教理をもって訓育すべし、と言い渡したのである。『ガゼット』の筆者は、確信というよりは祈るような敬虔さを滲ませて、こう書き添えている――「歳月と分別とが、これら悪党どもの手解きと悪例によって早くも汚されてしまったこの幼き心を、あるいは善導してくれようか」と。
一七九一年、十七歳となって施療院を出たこの少年が、その後いかなる運命を辿ったのかを知る由はない。その頃のフランスは、かつて彼を裁いた祖国の面影をすでにとどめていなかった。古文書は沈黙を守っている。司法官の智謀が剛力の手の届かぬ難事を成し遂げ、人に対してあのように苛烈であった当時の法が、せめて子供は未だ罪人にあらずと思い起こした――それが、この一件の結末であった。
出典:『ガゼット・デ・トリビュノー』、1785年、ニーム管区裁判所終審判決(1785年2月15日付)。
