一八五七年から一八六一年にかけてのパリ。三軒のパン屋が、配達の途上で売上金に齟齬が生じたと訴え出た。その都度、マリー=ロザリー・ルランジェ、通称ゴティエの妻は、店主らの言い分に真っ向から異を唱えた。重罪院の法廷において、争点となった使途不明金は、職歴と過去の前科の記憶とともに俎上に載せられることとなる。
一八六一年一月三日、セーヌ県重罪院は四十六歳のパン配り女に対する審理を開いた。被告の名は、公判の冒頭ではマリー=ロザリー・ルランジェと記され、続く段落ではゴティエの妻と呼ばれている。起訴事実の中で最も重い数字は明瞭であった。七月三日から十一月十日までの間、パン屋デュビュイの店で扱われた商品代金のうち、八百五十五フラン五十サンチームが着服されたというのである。しかし、法廷の空気を重苦しく覆っていたのは、この一件のみではなかった。一八五七年以降、ほかに二軒のパン屋でも同様の使途不明金が報告されていた。雇い主ごとに残された負債の性質は異なり、職を辞するに至った経緯もまた、それぞれの店主によって語り口を異にしていた。
事の起こりは、クロワ=デ=プティ=シャン通りであった。一八五七年二月、ルランジェは週給十二フランの約束で、パン屋ルフーロンの店にパン配りとして雇い入れられた。同年九月、ルフーロンは売上の勘定に疑念を抱き始める。当時の新聞によれば、帳簿を改めた結果、六百五十フランの不足が発覚したという。しかしその際、ルフーロンは直ちには告訴に踏み切らなかった。『ガゼット』紙の伝えるところでは、店主はルランジェとその夫に借用証書へ署名させ、毎週二十五フランずつ分割返済する約束を取り付けた。担保として抵当権も設定されたものの、店主はそれを実効性のないものと見なしていた。ルフーロン自身は何の弁済も受けていないと主張したが、重罪院の法廷でルランジェは、金はすでに支払ったと強く反論した。この最初の紛争は、単に金額の多寡にとどまらず、返済の約束が果たされたや否やという点でも激しく食い違っていた。
公判記録によれば、ルランジェはルフーロンの店で金銭を着服した事実そのものは否定していない。争われたのは、店主が弁済を一切受けていないとした主張であった。新聞の記す借用証書の存在は、最初の雇い主との関係において大きな意味を持っていた。負債は被告とその夫によって公式に認められていたものの、定められた担保は期待された弁済を生み出さなかったとされる。ただし紙面はその証書の実物を掲載してはおらず、ルフーロンとルランジェ双方が法廷で口にした、相容れぬ主張を伝えるにすぎない。法廷ではこうして、『ガゼット』紙が要約した書面と、公判におけるルランジェの証言とが対置される形となった。取り決め通りの歩調で六百五十フランを返済するには二十六週、およそ半年の期間を要した計算になる。この数字とて、実際に支払いがなされたかを証明するものではなく、新聞の伝える予定期間を割り出したものにすぎない。何回分の支払いが完了していたのか、記事は沈黙を守っている。認められた債務、店主が不首尾とみなした担保、そして返済済みとする被告の主張――これら三つの要素は並び立ちつつも、同一の新聞記事の中で宙に浮いたままである。
この店と次の雇い主の記述の合間に、『ガゼット』紙は被告の前科を挿入している。記事が列挙する前歴は四件に及ぶ。一八五四年五月に窃盗で禁錮六か月、一八五五年十二月に窃盗で禁錮十三か月、一八五八年十月に窃盗で禁錮三か月、そして一八五九年五月には背任の罪で禁錮一年の判決を受けていた。この一覧は、公判で取り上げられた事実関係に立ち戻る前から、同紙が彼女に厳しい筆致を向けていた理由を物語っている。もっとも、これら前科の存在それ自体が、個々のパン屋で何が起きたかを直ちに裏付けるわけではない。さらに紙面は別の箇所で、ルランジェが一八六〇年に窃盗の罪で一年の刑期を終えたばかりであったと記しているが、この記述を一八五九年五月の背任による一年間の判決と整合させることは、文面からは困難である。
一年間の刑期を終えたのち、彼女の経歴を記した箇所によれば、ルランジェはビュイソン=サン=ルイ通りのパン屋カノールに職を得た。そこに留まったのはわずか三週間にすぎない。公判記録は、カノールが算定した不足額を、売り場に預けたパンの代金のうち七十二フランであったと伝えている。給与から天引きされたことで、残額は五十五フランにまで減額されたとされた。この二軒目では一部が給与から差し引かれたために金額こそ縮小していたが、店主の言によれば、誓約にもかかわらず残余の金は戻らぬままであった。
一月の公判において、ルランジェはルフーロンの時とは異なる弁明を口にした。カノールから値引きしてパンを売る許可を得ていたのだ、と彼女は主張したのである。カノールはこれを断固として否定した。かくして双方の齟齬は、口頭の取り決めが存在したか否かという一点に収斂した。もし値引き販売が許されていたのであれば、使途不明金の意味合いもまた変わってくるはずであった。もしそうでなければ、店主が指摘した差額の説明はつかない。公判記録はこの点に関する署名入りの書類を提示しておらず、被告の言い分と店主の全面否認を併記したまま、判断を陪審の手に委ねている。
三軒目の雇い主のもとでの勤務は、一八六〇年七月三日、サン=マルタン通りのデュビュイの店で始まった。報酬は売り上げたパンの数に応じて支払われる出来高制であり、二キログラムのパン一個につき二サンチーム半と定められていた。掛け売りの認められていない客に対しては、代金を受け取り次第、直ちに店主に渡すという単純明快な規則が定められていたとされる。デュビュイが不審を抱くきっかけとなったのは、まさにその掛け売りの台帳であった。売上高が伸びると同時に、掛け売りの客として記帳される名義も急増していたのである。それらの名を照合したところ、記録によれば、すでに支払いを済ませていた客、そもそも店を利用したことのない者、さらには架空の人物の名までが含まれていたことが判明した。店主による確認作業は、すでに精算済みの勘定から、店に足を踏み入れたこともない名義へ、さらにはこの世に存在しない人物へと順を追って進められた。これは法廷が認定した事実の順序ではなく、『ガゼット』紙がデュビュイの証言として記した道筋である。この証言により、単なるレジの不足金という枠を超え、起訴事実の輪郭はより明確なものとなった。
『ガゼット』紙は、ルランジェの手口とされた仕組みを簡潔にまとめている。架空の名義を用いて販売を偽装し、その代金を着服していたというのである。七月三日から十一月十日までの間に生じたとされる被害総額は、八百五十五フラン五十サンチームに達していた。この件に関し、被告はデュビュイに対する債務の存在そのものは認めたものの、その額を四百十五フランにとどめようとした。なお、記録の中で一度だけ「デュボワ」という綴りが見られるが、それ以外の箇所ではすべてデュビュイと記されている。このわずかな表記の揺れは、別人の存在を窺わせるほどのものではない。
公判の席上、語られた経緯はそれぞれ異なる様相を呈していた。最初の店では借用証書、カノールの店では否定された口約束、そしてデュビュイの店では掛け売り台帳に並んだ架空の名。同紙は店主らの言い分とルランジェの反論を克明に伝える一方で、陪審員たちが下した判断の根拠までは記していない。記事は被告の弁明を「到底受け入れがたいもの」と切り捨てているが、それはあくまで新聞記者による評価であり、陪審員団が実際に下した評決の理由そのものではない。
この公判を取り仕切ったのはド・バスタール裁判長であった。検察官サレがルランジェを糾問し、弁護士ド・フロワドフォン・デ・ファルジュがその弁護を引き受けた。新聞の報じるところでは、裁判長、検察官、さらには弁護人までもが被告に全面的な自白を勧めたものの、彼女は頑としてそれに応じなかったという。双方の言い分と弁護側の陳述を伝えたのち、『ガゼット』紙は被告の前科と頑迷な否認の姿勢を重ねて強調した。この論調が、やがて下される判決の前置きとなったのである。
陪審は情状酌量を認めず有罪と評決し、裁判所は被告に五年間の重懲役を言い渡した。記事はこの判決の記述をもって唐突に筆を擱いている。司法の裁断こそ記されているものの、陪審に投げかけられた個々の諮問や、その後のルランジェの消息については一切触れられていない。帳簿の数字は、店主らが主張し、被告が争った内容のまま取り残された。返済の有無、値引きの真偽、そして争われた債務の額に、等しく明快な答えが与えられたわけではない。紙面に刻まれた刑罰の重さだけは確かであるとしても、失われたフランの辿った真の道筋は、新聞が決して写し取ることのなかった帳簿の余白に、今なお沈黙したままである。
