「それ以上動かすと、裂け目が広がりますよ」
女看守はすぐには答えなかった。高窓から射し込む薄明かりにかざした袖口の、肘のあたりがほつれ、身じろぎするたびに傷口を広げていた。アドリアナはそっと手を差し伸べた。ひと針刺せば留まるものを、みすみす布地を引き裂いてゆく様を眺めているのは、耐えがたいことに思えたのだ。
「お寄越しなさい」
「おまえに渡す針などない」
「その袖に当てる針なら、お持ちでしょう」
看守は腕を下ろした。手桶の水を運んできたまでのことである。千八百十三年、春のデン・ハーグ刑務所において、断頭台へ送られる囚人に手仕事を与える務めなど、この女には課されていなかった。アドリアナ・バウマンは死なねばならぬ身である。破れた袖の修繕など、処刑の準備のどこにも居場所のないはずのものだった。だからこそ、それは何ものにも代えがたく尊かった。
「ここで見張っているよ」と看守は言った。
「ええ、そうしてください」
看守は上衣を脱ぎ、頭巾の折り目から糸を通した針を抜き取ると、粗末な机の上に置いた。アドリアナは黙ってそれを待った。人に物を預ける際、入念に検分するその手つきを、彼女はよく知っていた。奉公先でも、リネンを数え、銀貨を改め、使いに出た下女の足取りを計ったものだった。ここでは、一本の縫い針がその帳面に載る。彼女は袖を引き寄せ、布の端を裏返した。
最初の一針は、不出来であった。指先はとうにかじかんで敏捷さを失い、光はあまりに高いところから落ちていた。看守は丸太の腰掛けを引き寄せ、窓辺へと寄せた。敷石を擦る木部の重い音が狭い牢内に響く。アドリアナは弾かれたように顔を上げ、すぐに手元へと視線を戻した。獄舎の中では、ありふれた物音の一つひとつが、心身を刃のように貫くことを知ったばかりだった。
「もっと手前から縫い直さねばなりませんね。地がすっかり弱っています」
「できる限りのことでいい」
「人は頼むときにはそう言うものですが、仕上がれば雑だと咎めるのです」
看守の口元がかすかに動いたが、笑みには至らなかった。女の名はマリットといった。それが本名なのか、囚人たちに対して便宜上名乗っている名なのか、アドリアナには知る由もなかったし、尋ねもしなかった。ふたりにはそれぞれ果たすべき役目があった。ひとりは針を運び、もうひとりはその手元を見張るのである。
ようやく、糸が引っかかりなく布を通り抜けた。アドリアナの脳裏に、かつて召し使われていたニーウェルケルクのアリ・ファン・フリートの屋敷がよみがえった。去る八月二十一日から二十二日にかけての夜、建物は業火に包まれた。人々が家財の運び出しに奔走する混乱のさなか、幾多の品が消え失せ、やがてその一部がハウダの古物商の手元から見つかった。彼女は窃盗を認め、次いで放火を自供した。二月の裁判で死刑を言い渡され、恩赦の願いも退けられた。これら少数の事実が、今や冷厳な檻となって彼女を取り囲み、いかなる針を用いてもその綻びを繕うことは叶わなかった。
マリットは縫い目をじっと見つめていた。アドリアナは、この女が自分の顔を見てくれればよいのにと思ったが、すぐにその思いを打ち消した。人の顔を見つめれば、そこに応答が求められる。だが布地ならば、ただ握られているだけで満ち足りているのだから。
「何か仰ったらどうです」と、彼女は言った。
「何をだ」
「仕事をしてもらったときに、人が口にする言葉を」
「……すまないね」
その言葉は、ふたりのあいだに、場違いなほど澄んだ響きを立てて落ちた。この期に及んで、自分に感謝を述べる者がいる。若い女は糸を強く引きすぎ、ほどいてやり直した。これまでの数週間、彼女は返答を強要する詰問ばかりに囲まれて生きてきた。だがこの礼の言葉は、何も要求してこない。どう受け止めてよいのか、彼女には分からなかった。
「まだ終わっていませんよ」
「見ればわかる」
マリットの甲には、古い火傷の跡が白く残っていた。アドリアナはその痕跡を目で追い、針の手を止めた。看守は、秘め事を暴かれたかのように指をすぼめた。
「煮え湯の鍋だよ」と、女は言った。
「訊きもしないのに」
「ああ、そうだな」
ふたたび沈黙が降りてきたが、その重みは先ほどとは異なっていた。アドリアナは袖を光にかざした。裏に当て布をしなければ、縫い目が引きつれてしまうだろう。彼女は自分の囚人服の裾から布切れを切り取ろうと申し出たが、マリットは首を振った。死刑囚の衣服に手をつけてはならぬ定めだった。
「いつまで着るものだというのです」
看守は扉の方へ顔を背けた。廊下を誰かが通り過ぎる足音がした。ふたりは、その足音が遠ざかるのを息を潜めて待った。助けを呼ぶ意志など、どちらにもなかった。やがてマリットは上衣の隠しに手を差し入れ、使い古したハンカチを取り出した。
「端のほうを使いな。それで足りるだろう」
アドリアナは手を出さなかった。
「切らねばなりませんよ」
「承知の上だ」
「破れたものが二つに増えるだけです」
「一つは直る」
今度は、若い死刑囚の唇に思わず微苦笑がこぼれた。マリットは小鋏で細い布片を切り落とし、すぐに道具をしまい込んだ。アドリアナはその布を破れ目の下に滑り込ませた。繕った跡は歴然と残るだろう、と彼女は言った。連れ合いの女は肩をすくめた。ただ着られるようになればよい、それ以上は望まぬ、と。
針足が進むにつれ、アドリアナの手は自然と緩慢になっていった。途中でわざとやり直すことも、糸が切れたと言い繕うことも、より明るい場所を求めることも容易だと知っていたからだ。この針仕事こそが、人の気配をかろうじて引き留めてくれている。袖が仕上がってしまえば、マリットは上着と針を取り戻し、冷徹な監視者の距離へと戻ってしまうだろう。この部屋を立ち去る彼女を阻む権利など、誰にもないのだ。
「もうすぐ終わるかい」
「ええ、もうすぐです」
彼女は最後の一筋に糸を通した。結び目さえ作らねば、まだ終わらずに済むはずだった。宙に浮いたままのアドリアナの手を前に、マリットもまた身じろぎを止めた。腰を下ろして以来初めて、監視の冷たい空気が肌に触れた。看守の眼差しが、布地から離れ、鈍く光る鋼の針の先を追い始めたのである。アドリアナはその変化を敏感に感じ取った。針はもはや貸し与えられた道具ではなく、回収せねばならぬ危険な刃物へと戻ったのだ。
若い女は、静かに結び目を作った。
そして糸から離して、針を机の上に置いた。緩やかで、迷いのない、挑発の色を含まぬ所作であった。彼女は上衣をマリットの方へ押しやり、その縫い目を否応なく見つめさせた。マリットはまず針に欠けがないかを確かめてから、手際よく頭巾に刺した。それから袖に腕を通し、肘を曲げては伸ばした。布地はほつれることなく耐えていた。
「これなら用を足す」と看守は言った。
アドリアナは待った。マリットは言葉を継いだ。
「いい腕だ」
それは、あたかも雇われのお針子にかけるような声であった。死刑囚はうなだれ、今度は何も言葉を返さなかった。己の犯した罪も、灰に帰した屋敷も、何ひとつ元通りにしたわけではない。いまさら施したわずかな善行とて、あの劫火を消し去ることはできないのだ。彼女はただ、己の手託された仕事を最後までやり遂げたに過ぎなかった。
マリットは部屋を出る際、針は持ち去ったが、端を切り取られたハンカチは机の上に残していった。アドリアナはそれを丁寧に畳んだ。取り紛れて置き忘れたのか、それともわざと残したのかは分からなかった。ただ、彼女は看守を呼び止めることだけはしなかった。
千八百十三年五月一日、アドリアナ・バウマンはデン・ハーグの広場にて露と消えた。マリットはその日、修繕された上着を着て当直についた。肘のあたりがわずかに引きつれていたが、彼女はそのまま身に纏い続けた。
