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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
裁判とスキャンダル · フランス

リヤールという名の男

1894年11月16日、ジロンド県重罪院はオーギュスト・クルトワに対し、情状酌量を退けたうえで、公文書偽造の罪により重労働五年および罰金百フランの判決を下した。クルトワはルイ・リヤールなる偽名を用いたことは認めたものの、かつて法官みずからが自分をそう呼んだのだと抗弁した。対する検察は、死者の名を意図して騙取したと主張した。1899年、ジョゼフ・レナックは刑の過重を訴えて恩赦を請願する。本稿は、法廷が下した峻厳たる断罪と、のちに試みられた雪冤の弁論とを、史料の照応を通じてたどるものである。

ボルドーのル・ア要塞刑務所にて、予審判事は受刑者に向かい、本名が真にリヤールであるや否かを詰問した。男は然りと応じた。では、オーギュスト・クルトワという者ではないのかと重ねて問われるや、男はからからと吹き出し、それは「じつにおかしな話だ」と嘯いた。ジョゼフ・レナックが報告書に書き留め、のちにクルトワ自身が引いた一幕である。かりそめの名が名乗られ、官憲がそれを拾い上げ、やがて司法はその借名がいつ重罪たる偽造へと変貌したのかを裁断せねばならなくなった。

1903年に著された自伝の「祖国帰還への希望」と題する章で、クルトワは回想している。1899年7月、仏領ギアナの獄中にあった彼のもとへ、ジョゼフ・レナックの小冊子が届いた。そこにはサリュ諸島の囚人五名が取り上げられ、その一節に自らの名が刻まれていた。クルトワはその記述を「記録のために」と自著へ転載した。したがってこの記録は、過酷な刑罰に抗った囚徒と、その量刑を過重と断じた弁護者という、利害を一にする二つの声によって織り成されている。レナックは起訴状や論告、日刊紙『ラ・プティット・ジロンド』、公判速記録、ならびに判決原本に拠ったと述べるが、それらの原典をわれわれが個別に照合しうる術はない。

この一件は、ある日出し抜けに露見した身元詐称から始まったわけではなかった。1893年12月20日、ボルドー中央警察署長は、塗装工の罷業に絡んで収監されていたル・ア要塞の一囚徒について検察官へ報告書を送った。署長によれば、その男は就業妨害罪による四か月の刑期を終え、翌朝にも出所するはずであった。男はリヤールと名乗っていたが、署長はこれを行旅のクルトワなる人物、すなわちポワチエかその近郷の生まれであると断定した。

署長の報告には、もうひとつの疑義が添えられていた。この男は陸軍の脱走兵であり、軍法会議から手配されているというのである。しかしレナックによれば、この嫌疑は完全な誤認であった。要塞にいたクルトワは、かつて軍服姿で選挙集会へ紛れ込んだ廉で一か月の微罪に処されたにすぎず、脱走の罪で追われていたのは同姓同名の別人にほかならなかった。この齟齬のみをもって、警察が身元を捏造したとまでは断じ得ない。だが、同姓の複数の男たちが曖昧な身体的特徴のもとに同一視され、いつしか偽名が公の身分証明の代用と化していく危うさを、この一件は如実に物語っている。

警察署長が報告を上げたその日、予審判事は囚徒を尋問した。判事は、本当にルイ・リヤールであるのかと質した。クルトワは臆することなく頷いた。では、真の名はオーギュスト・クルトワではないのか――そう直截に突かれたとき、男はただ哄笑をもって応じた。起訴状には「これ以上は何ひとつ聞き出せなかった」と記されている、とレナックは引く。やがて四か月の拘禁を解かれ、男は放免された。ただし、この1893年12月の釈放を、のちの裁判の帰結と混同してはならない。検察は内偵を怠たらず、翌1894年1月27日、捜査陣がその正体とリヤール名義の使用を突き止めたうえで、クルトワは再び捕縛されたのである。

事態を紛糾させたのは、その名が決して根も葉もない架空の産物ではなかった、あるいは単なる作り話にとどまらなかった点にある。レナックによれば、ル・アーヴルの無政府主義者であった本物のルイ・リヤールは、1891年6月21日にすでに病没していた。クルトワに帰せられた行状が起きるより、はるか以前の落命である。しかもクルトワは、過去の法的手続きにおいてもこの名で出廷していた。弁護側の言によれば、ボルドーのみならずマルセイユの司法官廷においてさえ、当局は彼をリヤールとして訴追し有罪を言い渡し、あまつさえ本人がクルトワであると口にした際には「お前は名乗るような者ではない」と一蹴したという。レナックはこの抗弁を書き留めているが、マルセイユの記録が散逸している今日、第三者の手でそれを確かめることはかなわない。

1894年11月の公判廷において、クルトワはこの主張を繰り返した。裁判長リフォーは、被告がようやく真名を名乗る気になったことを皮肉交じりに歓迎した。これに対し被告は、自分がリヤールという人間を作り出したのではない、当局こそがその名で自分を裁き、「何から何まで仕立て上げた身分」を押しつけたのであり、自分はそれを便宜上借用したにすぎないと述べた。しかし検察は、マルセイユで刷られた「海軍納入業者ルイ・リヤール」なる名刺を突きつけた。クルトワは名刺の調製を認めた。ただその名が気に入り、行きずりに選んだまでで、いかに名乗ろうと個人の勝手ではないかと開き直ったのである。さらには「ルイ金貨なら二十フランの値打ちもあるが、リヤール(細民の銅貨)など一文の価値もありますまい」と、名の響きに掛けた皮肉を放ってみせた。

検察官はこれに対し、何ら責任の伴わぬ単なる通り名などではないと語気を強めた。クルトワが騙取したのは実在したル・アーヴル市民の名であり、その死者と遺族の尊厳を著しく損ねたと論告したのである。被告は、当人は事件の前にすでに世を去っており、同じく無政府主義の同志であって直系の遺族もいないと反論した。これに対し検察官ラブクロケールは、母方の叔父たちが現に存命であり、クルトワはその家名を汚辱にまみれさせたのだと駁撃した。論争の本質は、書類の不実記載という形式から、人間の尊厳という倫理へと移し替えられていた。すなわち、死者の名を騙ることで死者を害することはあり得るのか、そしてその無念を代弁する資格は誰にあるのかという問いである。

検察の追及は名刺の件にとどまらなかった。彼らは、クルトワが公的手続きの諸文書、とりわけル・ア要塞での最終尋問調書にリヤールの名で署名したことを罪に問うた。この署名について、当の尋問官マソは、被告に自署させた記憶が定かではないと証言した。この曖昧な供述だけで公判で示された他の署名歴が雲散霧消するわけではなかったが、調書を録取した当事者によってすべての署名が立証されたとする検察の筋書きには、小さからぬ綻びが生じた。クルトワは名を用いたこと自体は否定しなかったが、法官たちがその名を定着させた後に従ったまでだと譲らなかった。そして、抗議しなかったことについてのみ、「おっしゃる通り、それだけが私の落ち度でした」と認めたのである。

裁判の焦点は、クルトワが自認するリヤール名義の行使が、果たしていかなる意図による「公文書偽造」を構成し、いかなる量刑をもって臨むべきかという点に絞られた。レナックが記すところによれば、検察官は純粋に偽造罪のみを公訴事実とし、無政府主義者の取締法規を訴追の根拠とすることは避けたという。だが彼が引用する公判記録を見るかぎり、検察の論告の大部分は、クルトワが各地の県でおこなった不穏な宣伝活動を糾弾することに費やされていた。法条文上の罪名と、公廷で描かれた政治的素顔との乖離――それはレナックによる痛烈な司法批判であるが、現存する判決原本からその真意を立証することはできない。

1894年11月16日、陪審員団はすべての設問に肯定の評決を下し、情状酌量の余地を認めなかった。重罪院はクルトワに対し、公文書偽造の罪で重労働五年、罰金百フランを言い渡した。居住禁止処分こそ科されなかったものの、無罪放免とは程遠い峻厳な刑であった。現存する史料のいずこを繰ろうとも、この有罪判決の重みを覆す記述は見当たらない。ただレナックは、情状酌量が退けられたにもかかわらず裁判長が法定の最高刑を選ばず、許されるかぎりもっとも軽い刑に留めた点に目を留めている。さらに彼は『ラ・プティット・ジロンド』紙を引用し、判決が言い渡された瞬間に法廷を走った長いため息と、酌量が退けられたことに対する傍聴人の動揺を伝えている。

レナックはさらに、クルトワの公判直後に裁かれた別の事件を引き合いに出す。数千フランにのぼる商業帳簿偽造の廉で起訴された某実業家が無罪を勝ち取った事実を挙げ、無政府主義者に対する不公平な処遇は、ひとえにその思想ゆえであったと断じた。無論、これは申立書を草したレナック自身の対比にすぎず、もうひとつの公判の詳細は手元の史料には記されていない。したがってこの所見は、彼の熱弁たる論拠として受け止めるべきであり、司法の偏頗を決定づける揺るぎなき証憑と見なすことは慎まねばならない。

1899年、クルトワがいまだ流刑地ギアナの苦患にあるなか、レナックは意見書を提出して恩赦を願い出た。フランス人権宣言擁護同盟は、同年5月23日の評議員会において満場一致でこの請願を採択した。レナックは事実関係を頭から否定したわけではなかった。他人の名の詐取があったことは認めつつも、それが故人やその縁者に実質的な害を与えたとは信じ難く、何より刑が重きに失すると論じたのである。彼に言わせれば、司法みずからが被告を死者の名で呼び慣わしたことで混乱の端緒を開き、男はそれに乗じて甘受したにすぎなかった。この意見書は判決そのものを覆す力を持たなかったが、不興を買う活動家にすら適正な手続きと均衝ある刑罰が保障されるべきかという、司法の根幹を問う公の論争へと事件を押し上げた。

クルトワの筆によれば、支援者たちの奔走は彼が出獄する前から始まっていたという。刑期をほぼ満了したのちも、彼は植民地での強制居住義務に縛られていた。1900年1月2日、当局はついに流刑地からの召喚、すなわち本土帰還を許可した。彼がその通達を手にしたのは、獄を出てから約十四か月を経た同年3月のことであったという。この結末はクルトワ自身の回想に拠るものである。なお、この追放解除はレナックが求めた恩赦とは性質を異にしており、手元の史料からは、恩赦が正式に下った事実も、1894年の有罪判決そのものが破棄された事実も確認することはできない。

かくして「リヤール」という名は、幾重もの生を生きることとなった。すでに土に還った男の名、クルトワが気まぐれに拾い上げた名、法廷が自らの記録に書き留めた名、そして検察が重罪の烙印を押すために用いた名である。陪審は有罪を宣し、情状を拒んだ。レナックはその裁定の正義を疑ったが、名を騙ったという動かしがたい事実そのものを消し去ることはできなかった。ここに、われわれの知りうる限界がある。われわれが目にするのは断罪された囚人とその庇護者の言葉であり、司法記録の全容ではない。これらの書物のなかで、名は帳簿から帳簿へと書き写されるたびに、その主を変えていった。法が罰したのは、偽りの署名であったのか。それとも、公文書そのものがいつしかそう呼び慣わしてしまった、あるひとりの男の影であったのか。

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中篇小説(ノヴェラ)

サン=ロックの鐘時計

1908年のアルプス山麓の寒村。ある夜、誰にも聞き覚えのない時刻にサン=ロックの鐘が鳴り響き、夜明け前に鉄砲水が橋を押し流す。警鐘を怠ったとして水車番の父親が糾弾されるなか、見習い時計職人の娘は、教会の鐘楼機構が数か月前から狂っていたこと、そして教区役員が作物を霜から守るため礼拝の時刻をひそかに早めていた事実を突き止める。村会が水車小屋に修繕費の全額補償を命じる前に、娘は村人たちへ時の真実を明かさねばならない。刻まれた時間の狂いが村の運命を左右する、理知的な短編ミステリを好む読者へ。

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長篇小説(ロマン)

硝子の温室

1936年のリヨン。稀少植物の蒐集温室が無残に破壊され、新進気鋭の女性化学者が割れた硝子片の鑑定を命じられる。園長は定刻に施錠したと弁明する庭師を告発し、警備員たちの夜間の目撃証言はことごとく食い違う。破片の飛散状況、肥料の痕跡、散水日誌の空白を丹念に追ううち、彼女はこの「事故」が温室の敷地を狙う都市開発業者に便宜を図るための偽装であったことを突き止める。鑑定結果を公表すれば庭園は救えるが、みずからの研究所は有力者の報復で破滅に瀕することになる。地方の利権と科学の矜持が交錯する、骨太な歴史法廷小説を好む読者へ。

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大河三部作(トリロジー)

三代の調律

とある楽器工の一族に代々受け継がれてきた、亀裂の入った一本の音叉。その音はわずかに狂おしい偽りの音を奏でる。1872年のルーアン、娘リュシーは解体されたパイプオルガンの失われた部品を探し出し、亡き父の工房を守ろうとする。1919年のブリュッセル、その孫アンドレは、復員兵を歓迎する演奏会を妨害したとの濡れ衣を着せられた楽団の無実を晴らすべく奔走する。1958年のマルセイユ、修復師のエリアーヌは、発見された無名の楽譜を音楽院へ寄贈すべきか、旋律の正当な継承を主張する貧しい一家へ返すべきかの選択を迫られる。三つの時代を生きる者たちの決断を、澄んだ音叉の響きが静かに繋ぎとめる。世代を超えて受け継がれる矜持と再生を描いた歴史大河三部作。

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歴史的典拠と文学的再構成について

本篇は、オーギュスト・クルトワ著の自伝第十九章(182〜194頁、章題から1900年3月に本人が受領したとする追放解除の通知まで)の全訳・精読に基づく。当該箇所の総語数は2,250語(SHA-256: 26d33190bea5dc7744284ea03f7fb314f7597bad771ddb5903e7bf7aad23a86f)。あわせて、ジョゼフ・レナックによる『サリュ諸島受刑者に関する報告書』第五章(30〜38頁、結語の39頁まで)を参照した(フランス国立刑務所管理学校所蔵PDF: ENAP F16B24)。同報告書は1899年5月23日に人権同盟委員会で採択された請願書であり、起訴状、論告、速記録、『ラ・プティット・ジロンド』紙、判決原本などを援用しつつ、クルトワに対する判決は過重であり、その思想信条ゆえに不当に重罰が科されたとするレナックの主張を展開している。当時の公判記録原本そのものは直接閲覧していない。クルトワは公判において「リヤール」の名を用いた事実を認めており、争点はその使用の違法性と署名文書の性質にあった。本稿は有罪判決の破棄や名誉回復を主張するものではなく、1900年の追放解除についてもクルトワ自身の回想に準拠して記述している。

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