一八三六年九月、ロンドンの中央刑事裁判所(オールド・ベイリー)の法廷に、一人の男が立たされた。法廷代言人ジョージ・エドワード・ピーコック。罪状は委任状の偽造である。その書状は、聖職者たる実兄とセリーナ・ウィルマーとの婚姻信託に組み込まれていた公債を売却するために用いられたものであった。カムデン・ペラムの記録によれば、その信託約状において、W・A・ファウンテン牧師、W・ワトキンス、ならびに被告ピーコックの三名が受託者(トラスティ)に指定され、兄の妻の権益を保全する立場にあったという。一八九一年に刊行されたペラムの編録は、売却されたコンソル公債の額を七千八百十四ポンドと記す。被告は当時まだ三十歳。チャンスリー・レーンに事務所を構え、ヨークシャーの名家に出自を持つ青年であった。公判廷には幾人もの証人が立ち、かつての被告の実直な振る舞いと、職務における誠実さを異口同音に証言した。
一八三五年十二月七日、株式仲買人クラークの手を経て、くだんの公債は売り払われた。提示された委任状には、受託者三名の連名が記されていた。しかし、後年の法廷記録が明かすところによれば、ワトキンスとファウンテン両名の署名はあらかじめ偽造されたものであり、証人として名を連ねた者たちに至っては実在すらしていなかった。それは単なる保管者による不正な証券の引き渡しなどではない。不在の二名が同意したかのごとく装う虚偽の文書を仕立て上げ、被告自らに全権があるかのように振る舞ったのである。編録の記述には、偽造が発覚した正確な月日や、売却代金のその後の使途は記されていない。記録の焦点は譲渡行為と自白の証拠に絞られており、被告の弁明もまた、後に穴埋めをする積もりであったという「一時的流用」の意思のみに終始していた。
公判は一八三六年九月二十一日、水曜日に幕を開けた。検察側の立証が一段落すると、被告は発言を求め、法官と陪審に向かって自らしたためてきた書面を読み上げた。犯行そのものを否認することはなかった。ペラムの記録によれば、被告は事件の醜聞が親族へ及ぶのを防ぐため、当初から罪を認めていたと弁明した。だが、それは邪心から出たものではなく、追いつめられた末のやむにやまれぬ窮策であり、公債の売得金も一時的に融通したにすぎないと強弁したのである。逃亡の意図がなかった証左として、不正の発覚前後にわたり何日も事務所を離れず執務を続けていた事実を挙げた。さらに、いずれ証券を買い戻す所存であることは兄も承知しており、その決意は揺るぎないものであったと訴えた。もっとも、これらはすべて被告自身の口から出た言葉であり、償還計画を裏づける客観的な証拠文書が示されたわけではない。
被告は、自らを破滅へと追いやった辛苦の軌跡を語り始めた。一八三〇年に代言人の資格を得て、順風満帆の滑り出しでロンドンに事務所を開いたという。しかし、知人の保証人となったことで千五百ポンドの損失を被り、さらに六百ポンドの支払いを余儀なくされた。責務を果たすべく為替手形を引き受けたものの、期日に決済できず、借財を重ねる悪循環に陥った。裁判の前年には、負債と損失の総額は五千ポンドに膨らんでいたという。借り入れた金の大半は家族の生活費と事務所の信用維持のために費やされたと被告は主張した。手形の支払期日が迫るたび、穴を埋めるための新たな借入がさらなる重荷となり、身動きが取れなくなっていった。被告の弁述は、周到に企てられた詐術というよりは、挫折と失策の連鎖として描かれている。だが、いかに情理を尽くそうとも、それは巨額の換金を成し遂げるために公文書偽造に手を染めた男の、身勝手な申し開きにほかならなかった。
こうした弁明は、飽くまで被告の一方的な言い分であった。被告は、実兄の財産を一時的に流用して損失を挽回し、イングランド銀行に損害が及ぶ前に資金を元の鞘に収める肚積もりであったと述べた。返済のあてさえ示せば、兄も得心してくれると思い込んでいたという。しかし、投機はことごとく破綻した。逮捕された折、被告の手元にはほとんど一文も残されていなかった。被告は公判の準備に猶予を与えてくれたイングランド銀行に謝意を表しつつ、同行を害する意図など毛頭なかったとくり返した。この論理において被告は、身内の財産を「一時拝借」したにすぎず、銀行に対する詐取ではないと弁別しようとしたのである。だが、その公債は兄の妻の将来のために信託された固有の財産であった。偽造された書面がでっち上げた受託者の合意を、そのような主観的言辞で正当化できるはずもない。被告の悲愴な弁疏は心情として理解できようとも、償還が真に可能であったのか、またそれが許容され得る筋合いのものであったのかは、何ひとつ証明されていない。
ピーコックとて、一時的な流用の意図さえあれば罪が許されるなどと考えていたわけではない。動機がいかなるものであれ行為を免責し得ないことは承知しており、深い悔恨の念を口にした。窮迫のあまりワトキンスやファウンテンの署名を偽造したことが適法であると主張したのではない。偽造に手を染めるに至った人間の胸中を酌んでほしいと懇願したのである。次いで被告は、死刑判決が下された場合に残される妻と幼子、老いた両親、そして友人たちが受ける打撃に思いを致すよう陪審に哀願した。記録によれば、被告は感極まって幾度も絶句し、涙ながらに慈悲を請うたという。妻や子、高齢の父母、そして己の不名誉な死を背負わされる親しい友たちの名を呼び上げ、自筆の陳述書を「自らが望む寛容をもって、裁断を下されんことを」という陪審への嘆願で結んだ。この法廷風景は後代の編述による再現であり、発せられた言葉の一語一句を正確に写し取った速記録とは見なせない。
続いて、被告の生前の人となりを知る高名な証人たちが召喚された。聖職者、弁護士、商人、事務弁護士らが証言台に立ち、ピーコックの職務上の清廉潔白さと、これまでの行状の正しさを口々に讃えた。だが、どれほど重厚な人物証明をもってしても、現実に偽造された署名と、不当に売り払われた公債の事実を消し去ることはできなかった。
陪審の評議は、わずか十分ほどで結審した。法廷に戻った陪審員たちが下した評決は「有罪」。ただし、被告のかつての高潔な人格を鑑み、全員一致で減刑の嘆願が付された。この寛典の勧告は、有罪の認定を覆すものではなく、量刑に対する配慮を求めたものにすぎない。陪審が「一時的流用」の弁明や経済的困窮を酌量すべき正当な理由と認めた形跡は、記録からは窺えない。開廷から五日を経た九月二十六日月曜日、被告に対して絞首刑が言い渡された。しかし、刑が執行されることはなかった。諸般の事情が再考された結果、極刑は流刑へと減刑されたのである。ただし、その決定がいつ下されたのか、また流刑の期間や送り先がどこであったのかについて、編録は沈黙を守っている。
ペラムの記録は、被告の弁疏が引き裂こうとした二つの真実を併記している。代言人は公債売却のために偽造を行ったことを認めた。その一方で、即座に穴埋めをする積もりであり銀行に実害を与える気はなかったと強弁した。陪審は有罪の事実を厳格に認めつつも、過去の品行に鑑みて寛恕を求めた。減刑は量刑を改めたにすぎず、有罪の評決そのものを動かしたわけではない。一八九一年の編纂本のみを手がかりとする限り、裁判の後にいかなる証拠書類が検討され、政府がいかなる理路によって減刑の決断に至ったのかを詳らかにすることは叶わない。
この記録が浮き彫りにするのは、自らの専有物ではない財産を無断で担保に入れ、破滅から専門職としての「信用」を救おうともがいた男の姿である。信託の正当な受益者である兄の妻は、記録のなかで終始声を奪われたままである。実兄にしても、弟が公債を買い戻す計画を知っていたという被告の言明のなかにしか登場しない。審理の場は、偽造者の倫理観と失墜した名声、そして彼が直面すべき刑罰の重さへとすり替えられてゆく。これは被告の陳述やその人柄、家族の紐帯に多くの紙幅を割いた編者ペラムの視座そのものであり、現存しない受託者の会計帳簿や、散逸した公判記録の欠落を埋めてくれるものではない。
