ジャンヌ・リーブは、リムーの貧しくも廉直な家に生まれ、その両手の業ひとつで糊口をしのいでいた。『裁判記録』の伝えるところによれば、その素行には常に些かの乱れもなかったという。
九月の初めのこと、雇い主の言いつけにより、彼女は穀物を挽かせるためフルニエの水車小屋へと使いに出された。そこで粉挽き職人のトマ・バローと二人きりになった。『記録』はあけすけに記している――男は力ずくで女をねじ伏せ、欲望の赴くままにこれを弄んだ。気を失ったジャンヌは、正気に返るや逃げ出し、以後二度と男の姿を見ることはなかった。
そののち、自らの身に何が生じているのか、彼女には皆目見当がつかなかった。素足で降りた地下倉で冷え症を患ったものと思い込み、近隣の勧めにより女の煎じ薬を試した。病床にあった母を長らく看病したが、母はそのまま世を去った。やがて周囲の口の端に上り始め、身を寄せていた兄夫婦からも白状せよと責め立てられた。あらゆる疑念を解き明かす歳月が、ついに彼女の目を開かせた。あの水車小屋のことが頭をよぎり、彼女はある女友達に胸の内を打ち明けた。
日雇い仕事に出ていたある日、激しい差し込みが彼女を襲った。家へ担ぎ戻され、外科医が呼ばれ、ひとりの女が夜半まで付き添ったのち、用があればまた来ると言い置いて引き取った。独り取り残されたジャンヌは、そのまま子を産み落とした。我が子の顔を見ようとしたが、それはただ、月足らずして世に出た、息のない小さな骸にすぎなかった。
洗礼を受け得ぬまま身罷った嬰児には、墓所の施しようもない。彼女はその亡骸をハンカチに包み、寝台の脇の隙間に隠し、次いで食料倉の扉の陰へと移したのち、義姉のエリザベート・リーブに埋葬してくれと泣きついた。義姉はとうとう折れ、教会の裏手にそれを埋めた。
その様子を窺う目があった。児の骸は掘り返され、嬰児殺しの声が上がった。医師や外科医らは、外傷などの変死の痕跡は一切見当たらず、肺を水に浮かべる試問によっても、児は死んで生まれてきたのだと証言した。だが刑事補佐裁判官は納得しなかった。医師を伴ってジャンヌの家へ押し入り、出産の事実を確認させるや、産褥の二日目にして彼女を地下牢へと投じた。初審の裁判官らは、彼女に死刑を宣告した。
トゥールーズ高等法院の刑事部における控訴審で、若き弁護人バヴィエール・ド・ヴューザック弁護士はこう訴えた――一五五六年の王令は、至高にして厳格なる法であったはずが、初審の裁判官らの手にかかって野蛮な掟へと成り果ててしまった。かの法が罰するのは子を死に至らしめた母であって、すでに死んで生まれてきた児を産み落とした母ではない、と。『裁判記録』のその号は、この弁論のくだりで筆を擱いている。そこには、罪なき犠牲を法の白刃から救い出さんとする叫びが、しかと刻みつけられている。
Gazette des tribunaux, 1781, Parlement de Toulouse, Tournelle criminelle : affaire de Jeanne Ribes, accusée d'infanticide.
