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Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · フランス料理と欧州歴史記録の出版館
詐称と巨万の富 · フランス

狙撃兵の特許

パリ、1861年11月〜1862年1月。スローンと名乗る旅人がオテル・デ・ジャンティオムに投宿し、亜麻布への革新的な捺染技術を喧伝しながら、966フランもの宿泊料を残して姿を消した。軽罪裁判所の法廷で、宿の女主人と通訳は男の弁解に異を唱え、『ガゼット』紙は禁錮六月の判決を伝えている。

1862年1月25日付の法廷記録は、一つの名から筆を起こしている――スローン。被告人は、法廷に引き出される原因となった詐欺を働くためにその名を騙ったのではない、と主張したと『ガゼット』紙は記す。男の言い分によれば、宿の女主人が手紙の中に見出した「ソロモンズ」などという名よりも、単に響きが上品であったからに過ぎないという。もっとも、この皮肉めいた筆致は法廷の尋問録ではなく、記者自らの寸鉄に属する。法廷には、それほど優雅とは言えぬもう一つの商談が持ち出されていた。布地への捺染技術、ホテルの客室、そして966フランにのぼる未払いの請求書である。

フェルム・デ・マチュラン街の「オテル・デ・ジャンティオム」を営むラヴェルニュ夫人の証言によれば、問題の客が投宿したのは前年11月7日のことであった。夫人は、二人の英国人が宿に現れたと語る。一方は英国狙撃兵部隊(ライフル連隊)の士官服に身を包んだ被告人であり、もう一方はその秘書兼通訳の男であった。客は紋章入りの名刺を差し出してスローンと名乗り、宿帳にもそのように記帳した。後に、客宛てに届いた書状の数々によって、夫人は「ソロモンズ」という名を知ることとなる。もっとも、それらの書状がいかなる経緯で夫人の手に渡ったのかは語られておらず、紙面にもこれ以上の身元を証する記録は見当たらない。

女主人が当初抱いた信用は、その証言によれば、男が醸し出す佇まいのすべてに根ざしていた。紋章入りの名刺、軍服、宿帳の筆跡、さらには名門の出であるという男の言明。客は一泊八フランの部屋を二室借り、パリに三か月ほど腰を落ち着けるつもりだと告げた。それは単なる宿場町の逗留ではなく、帝都において事業を興し、生活の拠点を築くためのものと女主人は受け止めたのである。同行していた秘書兼通訳の存在も、その構想に真実味を与えていた。男は共同経営者などではなく、給金を支払って雇った使用人として紹介されていたのである。

ラヴェルニュ夫人の言によれば、最初の半月ほど、この客は惜しげもなく金を使った。だが勘定を改めた女主人は、すでに支払額がかなりの高額に達していることに気づく。請求書を突きつけると、客は三、四日の猶予を乞い、実家からの送金を待っているところだと弁解した。それから一日か二日後、男は病に倒れた。夫人は懇意の医師を手配して手厚く看病させたが、その治療費およそ百フランはいまだ未払いのままであり、いずれ自身が立て替えねばならぬと法廷で訴えた。こうして債務は輪郭を帯びてゆく。逗留は長引き、勘定は嵩み、実家からの仕送りを待つという口実が支払いの遅延を糊塗するために繰り返された。

病が癒えると、女主人はふたたび支払いを迫った。客は、実家からの返事はまだ届かないが、資金を用立てるため通訳を連れて外出したいと答えた。二人揃っての外出を警戒した夫人はそれを拒んだ。男は一人で宿を出て、二度と戻らなかった。新聞記事には、この逃亡が具体的に何日のことであったか、またいかなる人物の手を経て男が捜し出されたのかは記されていない。ただ、それから半月後、女主人はサン=ポール教会のほど近くにある小路に男の新たな潜伏先を突き止めたとある。夫人は別の者を伴って辻馬車で乗り込み、男をホテルへ連れ戻すと、即座に支払うか、さもなくば実家の住所を明かすよう詰め寄った。

夫人の証言によれば、男は住所を明かすことを頑なに拒み、激昂して大立ち回りを演じたという。夫人は警官を呼び、その場で男を拘束させた。請求額は966フランに達していた。記事はこの総額の内訳を費目ごとに詳らかにしてはいない。しかしこの金額こそが、対立する二つの主張が交錯する結節点であった。女主人の側から見れば、宿泊料と諸費用を承知の上で重ねられた明らかな負債であり、被告人の側から見れば、部屋代も諸経費も、自身が推し進めていた事業の枠組みの中で精算されるべき一時的な出費に過ぎなかったのである。

裁判長は通訳を介して男を尋問した。男は三か月滞在するなどと言った覚えはなく、事業の都合でそれほどの期間を要するかもしれないと告げられただけだと抗弁した。その事業とは何か。印判(スタンプ)を用いた捺染技術の実用化であるという。裁判長は特許を所持しているのかと質した。男は特許は持っていないと答え、だがその事業の権利に関与しているのだと述べた。この差異は法廷において重い意味を持った。記事が伝えるのは、すでに認められた特許ではなく、被告人が一枚噛んでいると自称する青写真に過ぎない。事業の目論見こそ男の口から語られはしたが、その法的な根拠は何一つ確立されていなかった。

次いで証言台に立ったのは、ホテルで秘書兼通訳として紹介されていた男であった。証人は、前年11月にガーンジー島の実家で被告人と知り合ったと証言した。男が英国義勇軍の制服を着ていたこと、そして富裕な名家の出身であると語るのを耳にしたという。被告人は彼に対し、週給四十フランで通訳兼従僕として渡仏しないかと持ちかけてきた。証人の言によれば、男は布地に印をつけるための木製印判の特許について語っていたという。証人はその言葉を信じ、パリまで同行した。これらの供述は雇われた側が何を信じ込まされていたかを物語るものではあるが、特許の実在を証明するものではなかった。

尋問はふたたび印判の件へと戻った。被告人は衣服に再捺染を施すための器具について説明し、仕立屋のデュソトワ氏に一個を二十五フランで売り渡したと主張した。証人もその売買の事実を認めた。この一件により、事業のすべてが実体のない妄想であったと断じることは妨げられた。裁判長が問いただした特許こそ存在しなかったものの、少なくとも法廷において一個の販売実績が確認されたからである。だが新聞記事はその実物を図示することも、注文の有無や染め上がりの出来栄えを伝えることもしない。その技術が果たして実用に耐えうるものであったのか、判ずべき材料はなく、ただ被告人が滞在を正当化するために、また証人が雇われの身となった理由を弁明するために、その印判の名が持ち出されたことだけが記されている。

雇われ人か、それとも共同経営者か――その境界の曖昧さは、裁判長が出費の使途を追及するに及んでいっそう浮き彫りとなった。被告人は三百フランを携えてパリに来ており、それを料理屋での食事代、薬代、そして自分と通訳の二室の部屋代に充てたと主張した。裁判長は、一泊八フランの部屋が二室、逗留の日数、そしてホテルが請求している額を引き比べ、わずか三百フランの手金で、いかにして三週間に九百フランもの負債を賄う算段であったのかと問い詰めた。被告人は、物価の相場など知る由もなく、事業の共同経営者として引き入れた通訳に金銭の管理を任せきりにしていたのだと答えた。

通訳はこの言明に即座に異議を唱えた。自身は決して共同経営者などではなく、取り決められた条件に従って男に同道したに過ぎないという。しかも、客を斡旋してくれるはずのホテルの支配人との手筈に従ったまでだと主張した。この見解の相違は、実際の責任の所在に直結する問題であった。もし通訳が宿側によって斡旋された給金雇いの身であったとするならば、被告人は彼を費用を差配すべき相棒に仕立て上げることはできない。しかし『ガゼット』紙は、この取り決めの全容を明らかにするような契約書も支払帳簿も掲載していない。紙面が伝えているのは断固たる否定の応酬のみであり、書面による合意の証拠ではなかった。

ふたたび証言台に呼び戻されたラヴェルニュ夫人は、客は値段も確かめずに一泊八フランの部屋を二室借り受けたと証言した。ホテルの料金表にはフランス語と英語の双方が併記されており、宿泊料を知らなかったはずがないと夫人は釘を刺した。さらに、客から仕事の注文口を世話してほしいと頼まれていたことも付け加えた。両者の言い分は、ここで重なり合いながらも決定的に食い違う。商売の口を探すという行為自体は男の語る事業計画と矛盾しないが、それによって部屋代を支払う義務が消えてなくなるわけではない、というのが女主人の譲らぬ一線であった。

夫人は最後に、男の豪奢な暮らしぶりを挙げ、金がなかったという弁解を真っ向から否定した。客はあたかも「大貴族」の如く振る舞い、一本八フランもするポートワインを傾け、自らの日々の散財を完全に把握していたという。もっとも、この人物像は売掛金の回収に執念を燃やす債権者の視点によるものであり、その贅沢のすべてが初めから宿を騙し取る意図によるものであったと即断するには足りない。だが、なぜ男の金銭的な弁明が法廷で容易に崩れ去ったのかを雄弁に物語ってはいる。被告人は二つの部屋を借り、支払いの猶予を乞い、二カ国語で料金が明記されていたにもかかわらず、一言の断りもなく宿を立ち去ったのであった。

法廷が選任した通訳官によって、被告人が英語で認めた弁明書が翻訳された。しかし『ガゼット』紙はその文面を採録していない。したがって読者には、その書面と法廷での口頭答弁とを突き合わせることも、いかなる抗弁が記されていたのかを知る由もない。記事は続いてスローンという名についての説明に戻る。被告人はこの名をかれこれ数年にわたって名乗っており、そのような名乗りは許されているものと信じていたと述べた。また、自身が義勇軍の志願兵であり、あの制服を着用する正当な権利を有していたとも主張し続けた。紙面はこれら二点について裁判所が下した判断を個別に記してはいない。夫人が持ち出した手紙の記述を除いて、法廷が「ソロモンズ」という素性を確固たるものとして認定したかどうかも定かではない。

審理の果てに、裁判所は被告人に対し禁錮六月の判決を下した。『ガゼット』紙は詳細な判決理由も、控訴の有無も、あるいは印判の技術や未払い債務の行方も報じていない。その法廷欄が描き出すのは、綻びを見せた一つの体裁である――宿帳に記された名、立場を巡って証言の食い違う通訳、滞在費を用立てるはずの実家、そして特許なき事業と未払いの請求書。紙面は問題の書状も、書面の弁明録も、966フランの正確な算段も今に伝えてはいない。言い渡された刑罰の重さのみが残り、裁判所がいかなる論理の筋道を辿ってそこに到ったのかは、歴史の闇の彼方に閉ざされている。

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この実在事件の記録をお読みいただきありがとうございます。本事件をもとに3つの小説企画(中篇・長篇・三部作)を構想しています。あなたが最も読みたい作品にぜひご投票ください。

中篇小説(ノヴェラ)

十二号室の刻印

1884年、マルセイユ。渡りの彫刻師が、宿の女将たちに亜麻布を傷めずに名入れができるという特製の刻印器を売り込み歩いていた。下宿屋を営む未亡人は、道具一式を担保に彼へ作業場を貸し与える契約を結ぶ。だが、最初の客たちが洗濯物を受け取ると、そこには見知らぬ名が刻まれていた。印刷工の徒弟である女将の甥は、その図案に見覚えがあったものの、どこで見たかを頑なに語ろうとしない。女将は彫刻師を警察へ突き出すか、己を庇おうとした若者を守るかの選択を迫られる。登場人物と筋立ては創作。器物に秘められた謎を好む読者へ。

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長篇小説(ロマン)

不在者の宿帳

1906年、リヨンの宿。新しく支配人に就いた女性のもとに、一度も足を踏み入れたことのない旅人の名義で領収書が届く。ある銀行員は、新発明の売り込みに出た技師のために二つの部屋を予約したと言い張り、宿の扉番はまったく別の男を目撃したと証言する。一方、客室係の女中はトランクには見覚えがあるものの、顔には記憶がないと首を傾げる。破産の危機が迫る中、支配人は宿帳の署名が何者かによって巧妙に模倣されていた事実を突き止める。宿を救う道は宿帳を公表することだが、それは共同経営者たちの隠された借財を白日の下に晒すことを意味していた。独立した創作小説。宿場に潜む秘密と曖昧な証拠を巡る物語。

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大河三部作(トリロジー)

ひとつの銘、三人の持ち主

白鳥の紋章が刻まれた小さな真鍮の印判を軸に展開する、三つの連作掌編。1768年、製本職人の女が、暦の印刷を約束した旅人にその印判を貸し出す。だが勘定を清算する段になり、彼女はその真鍮が自らの所有物であることを証明せねばならなくなる。1849年、ある織物商が、今はなき名門工場の極印と称してそれを売りさばき、二人の兄弟が商標の偽造を巡って骨肉の争いを繰り広げる。1922年、文書館の女性記録官がホテルの古書類の中から二つの裁判記録を発見し、白鳥の銘が持ち主の素性を何一つ保証せぬまま、人から人へと手渡されてきた歴史を知る。証拠というものの数奇な運命を追う三代記。

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歴史的典拠と文学的再構成について

本法廷記録は、1862年1月25日の審理および前年11月7日の投宿を記したものである。記事はラヴェルニュ夫人の証言、被告人および秘書兼通訳の男への尋問を伝えている。夫人は書状によって客の名が「ソロモンズ」であることを知ったと述べているが、被告人は「スローン」の名を七年にわたり用いてきたと主張し、英国義勇軍の士官であると自称した。新聞記事にはそれらの書状や法廷で通訳された英語の弁明書、ならびに966フランの詳細な内訳は掲載されていない。話題となった特許についても取得済みのものとしては扱われておらず、被告人自身も特許を所持していないことを認めている。裁判所は男に禁錮六月を言い渡したが、控訴やその後の経緯については一切触れられていない。なお、当カタログの別件(1839年のロンドンにおける事件記録)に登場する同姓同名のヘンリー・ソロモンズと同一人物であるかは確認できず、その真の素性はいまだ不詳のままである。

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