凶刃は口腔の奥深くまで達することはなかった。シモン・グラールの編纂になる裁判記録によれば、ルーヴル宮内で振るわれた一撃はアンリ四世の上唇を裂いたものの、歯に阻まれたことで深手を負わせるには至らなかったという。王に刃を向けた男はその場に凶器を落とし、逃亡を図った。事件そのものは瞬く間の出来事にすぎなかった。だがこの一件は、一学徒の凶行を通じて一個の修道会全体を断罪しようとする、パリ高等法院による苛烈な裁判劇へと発展していく。
記録によれば、1594年12月27日火曜の午後六時から七時にかけて、アンリ四世はパリに到着した。ルーヴル宮の広間にて、拝謁の礼をとった貴人を抱擁しようと王が身をかがめたその刹那、ジャン・シャステルが進み出て、その顔面へと刃を突き立てた。調書は下手人をパリ生まれの十九歳の学徒とし、イエズス会の経営する学院で学んだ者と記している。乱闘の如き騒ぎは生じなかった。疵は唇にとどまり、切っ先は国王の歯に当たって止まったのである。
シャステルは部屋の床に短刀を投げ捨てて立ち去ろうとしたが、近衛隊長の手によって即座に取り押さえられた。記録は国王の即座の反応をこう記す。捕縛された下手人を見遣ったアンリは、縄を解いて許すよう命じたという。しかし、この若者がイエズス会士の教えを受けたと知るや、王は「余の口をもって奴らの罪を証さねばならぬのか」となじったとされる。初版の記録に刻まれたこの台詞は、逮捕の現場を早くも宗教的対立の火種へと染め上げていた。
調書は凶器について、暗殺のための特殊な獲物とはしていない。シャステルは、実家から持ち出したごく平凡な短刀であり、毒など塗ってはいないと供述している。初回の訊問において、彼は王を殺害するつもりであったと認めつつ、結果として負傷にとどまった事実を認めた。下手人の弁によれば、サン=トノレ通りを行く騎馬隊と歩兵、松明の列を見かけたものの、誰が国王か見分けがつかず、一人の紳士に尋ねてその姿を教えてもらったという。そして一行の背後を追い、ルーヴルの私室へと紛れ込んだのであった。
これらはあくまで罪人の答弁として記されたものであり、その足取りを独自に検証した捜査記録ではない。それでも調書は、袖の内側、肌着と素肌のあいだに隠された短刀、王が頭を垂れた隙を突いた一撃、室内に遺棄された凶器といった情景を克明に伝える。シャステルは当初犯行を否認したものの、やがて自供へと転じた。審問の焦点は、犯行の事実関係から、いかなる動機に基づいて及んだのかという点へと移っていく。
記録によれば、下手人は羅紗商人ピエール・シャステルの子であり、生家は司法宮のほど近くにあった。当日の夕刻、彼は晩課を終えたのちに実家へ戻ったと答えている。その日の早い時刻、食器棚から短刀を持ち出して自らの書斎に隠し、その後、父と母ドニーズ・アザール、そして姉妹たちとともに食卓を囲んだ。両親から誠実に生きるよう諭され、素直に頷いたとも語っている。昼食後、父に伴われて街を歩き、一度別れたのちに、ダブレットの胸元に短刀を忍ばせて再び外へ出た。
調書に記された自白は、事件当日の経緯にとどまらない。シャステルは、アンリ四世の弑逆をかねてより胸に抱いており、実行の八日ほど前にふたたび決意を固めたと述べた。凶行の動機として彼が挙げたのは、みずからの罪障による絶望であった。己はすでに地獄に堕ちる身と信じ込み、天下を揺るがす挙に出ることで、来世の責苦を少しでも免れ得ると夢想したというのである。現代の眼から見れば不可解極まる論理であり、原資料の記述のみから確たる精神誌を編むことは叶わない。公刊された記録は、当時の宗教的・司法的な偏見に満ちた言辞を通じて描かれた心象を伝えるにすぎない。
若者はさらに、みずからの良心の呵責について父に打ち明けたとも供述している。クレルモン学院の司祭であり、かつて家庭教師を務めたジャン・ゲレとの関係について尋ねられると、罪障の重荷について相談すべく、父の計らいで面会したと語った。彼はゲレのもとで二年半にわたり哲学を学び、暴君と見なされた王は殺害してもよいという説を各所で耳にしたと申し立てた。イエズス会の教えについて問われると、修道士らもそのような教説を説いていたと証言した。しかし記録は同時に、父からは「国王を弑することは大罪である」と戒められたという彼の言葉も併記している。この証言の食い違いは、犯行が生家の意向によるものと短絡的に結論づけることを拒んでいる。
調書は、シャステルが自認した証拠品を列挙している。凶器の短刀、国王の名を辱める言葉を綴った三枚の言葉遊びの小紙片、そして己の罪を書き連ねた手稿九枚である。これらは訊問に物質的な裏づけを与えているが、公刊された編纂本にはそれら手稿の全文も、後世の読者が検証しうる詳細な鑑定録も収められていない。シャステルがそれらを自認し、中身が要約されて伝えられているにすぎない。ここでも、紙背に描写された証拠と、現代の我々が実見しうる一次資料との懸隔に留意せねばならない。
翌日、事件は王室裁判官の手を離れ、高等法院へと移管された。シャステルは司法宮のコンシェルジュリー牢獄へ連行され、司法高官らによる訊問を経て、大審問室と刑事審問室の合同法廷に引き出された。若者は先と同じ供述を繰り返した。刃物についての問いには、厚着の衣類を貫けぬことを案じ、喉元を刺すつもりであったと詳述した。アンリを殺害するつもりであったこと、そしてその行いがカトリックの信仰を利すると信じていたという主張を頑なに崩さなかった。
裁判の歩みは急速を極めた。高等法院はシャステルの父母、ならびにイエズス会士にして被告の旧師であったゲレを喚問した。だが現存する記録には、彼らの証言録の全文は収められておらず、各公判の詳細な日時や法廷における丁々発止の応酬も記されていない。我々の眼前に残されているのは、1595年に印刷された旨を注記する1758年刊の書物に収められた、訴訟の要約と判決抜粋にすぎないのである。
下された判決は、この所業を神と人に対する大逆罪と断じた。まず課されたのは、ノートルダム大聖堂の正面扉前における「公の贖罪」であった。シャステルは肌着一枚の姿で、二ポンドの松明を手にして跪き、犯行を認めて赦しを乞わねばならなかった。次いで粗末な荷車に乗せられてグレーヴ広場へと引き立てられ、腕と太腿を灼熱のやっとこで引き裂かれ、犯行に用いた右手を断ち落とされたのち、四つ裂きの刑に処されることとされた。遺骸は焼き払われて灰は風に撒かれ、さらに全財産の没収が言い渡された。
判決の余波はそれにとどまらなかった。高等法院は、暴君放伐の正当化をめぐってシャステルが口にした言辞を公に復唱することを禁じ、扇動的かつ異端の言説であると断じた。さらに、イエズス会学院の司祭および寄宿生に対し、三日以内にパリおよび教鞭を執る諸都市から退去し、十五日以内にフランス王国領内から立ち退くよう命じたのである。判決文は彼らを「青少年の腐敗者」にして「国王と国家の敵」と糾弾した。この激烈な語彙は、政争の渦中にあった編纂物の性質を如実に物語る。それは追放の事実を証してはいるが、ゲレ個人や修道会全体が暗殺に荷担したとする動かぬ証拠とはなり得ない。
記録によれば、処刑に先立ち、共犯者や背後関係を暴くための拷問にかけることが命じられていた。しかしながら、拷問が真に執行されたか否かについて記録は口を閉ざしている。ただ、1594年12月29日木曜日に判決が言い渡され、執行されたと結ぶのみである。ルーヴルでの襲撃から刑死まで、わずか二日の出来事であった。この性急な手続きこそが記録に異様な緊迫感を与える一方で、我々の手元にある資料が原本ではなく後世の印刷物であるという制約を、あらためて浮き彫りにしている。
短刀が刻んだのは浅い傷にすぎなかった。しかし下された裁きは、一個の肉体を粉微塵に引き裂き、財産を奪い、さらには一つの修道会を王国全土から駆逐するに及んだ。切っ先を阻んだ一枚の歯と、下手人の胸中を裁断した法廷の文書。そこに遺されているのは純白の真実などではない。王権の動揺と、カトリック同盟に対抗する高等法院の思惑によって彫琢された、司法記録の姿そのものである。この記録が持つ重みは、語り継がれた暗殺の瞬間と、王の唇の小さな傷がやがて一人の人間を苛酷に処刑し、ひとつの巨大な組織を根こそぎ打ち倒すに至る過程という、二重の爪痕の中に宿っている。
