MAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · CUISINE & LETTRES「乞食たちの最初の獄舎。――女子懲治府。」『ヨーロッパの監獄』第VIII巻
「王妃の首飾り事件」の首謀たる伯爵夫人はいかにして処刑人の焼鏝に抗い、王国随一の忌まわしき暗牢から忽然と姿を消したのか。
1786年6月21日の朝、パリ高等法院を臨むメの中庭には、たちこめる雷雲の気配と火縄の焦げた匂いが重く漂っていた。波打つような群衆の怒号が渦巻く中、一人の女が処刑人の筋骨逞しい配下の手の中で、狂える野獣のごとく身をよじって暴れていた。ジャンヌ・ド・ヴァロワ=サン=レミ、ラ・モット伯爵夫人――フランスの王座を根底から揺るがした前代未聞のスキャンダル「王妃の首飾り事件」の稀代にして呪われし首謀者である。両肩に「女盗賊(Voleuse)」を意味する「V」の烙印を焼かれ、終身の鞭打ち刑を言い渡されたこの希代の女流冒険者は、いささかも頭を垂れようとはしなかった。呪詛の叫びをあげ、処刑人の肉を血が滲むまで食いちぎり、纏う襤褸を引き裂く。暴れるその肩から赤熱した鉄鏝が滑り落ち、凄まじい肉の焦げる音とともにその胸元を深く焼き爛れさせた。失神し、血まみれとなり、群衆の唾を浴びせられた彼女は、そのまま窓を固く閉ざした辻馬車の奥底へ放り込まれる。車輪はやがて、サン=ヴィクトール街の粘りつく泥濘の中へと沈んでいった。行き先は――サルペトリエール。
かつてルイ十四世の手によって創設されたこの長大な避難所兼牢獄は、ビエヴル川とセーヌ川の合流点にあって、世の遺棄された者どもを呑み込む孤立無援の城塞のごとくそびえ立っていた。そこは、都の光が目を背けたありとあらゆる暗部を押し込める底なしの澱みであった。裏中庭の下水溝で鎖に繋がれた狂女たち、死を待つばかりの乞食、売笑婦、そして国家の重罪人。鉄の鋲で補強された重々しい樫の扉がジャンヌの背後で鈍い音を立てて閉ざされたとき、獄吏が受刑録に書き記した署名は、生ける屍としての埋葬宣告そのものであった――「女子懲治府における終身拘禁」。
「サルペトリエールの重厚なる丸天井は、時の流れと人の世の正義をあざ笑うかのごとく築かれていた。この泥と鉄の底なし海から再び浮上した罪人の舟など、かつてただの一艘も存在しなかったのである。」
サルペトリエールにあって、「懲治府」と名づけられた一棟は全くの異境であった。鋭利な槍頭を戴く高い鉄格子によって、他のあわれな囚人たちから完全に隔絶されていたのである。この牢舎の看守たちは、鞭と太い鍵束を振るうことを日々の習いとして、いささかの情けも持たぬ粗暴さを誇っていた。だが、投獄されてから最初の数週間が過ぎても、この名うての女囚が、灰色の粗布をまとった無数の受刑者の群れの中に埋もれてしまうことはなかった。その肉体には国王の焼印による膿んだ傷痕が刻まれていたが、その精神はなにひとつ屈服しておらず、むしろ復讐の念と傲岸たる矜持によって、かつてなく研ぎ澄まされていた。
ジャンヌが握る国家の秘密――もし露見すれば王妃マリー・アントワネットの首筋まで汚濁に染めかねない数々の密議――の爆発を恐れた当局は、彼女を不治病患者の大部屋、あるいは忠実な修道女マリアンヌの監視下にある特別監房へと隔離した。一方、堅牢な壁の外では、見えざる手がいっせいに蠢き始めていた。ヴェルサイユ宮廷においても、パリ警察の秘密結社めいた奥深き執務室においても、再審の火種が燃え広がれば権力の中枢が灰燼に帰すのではないかと怯える要人たちがいたのである。やがて、獄吏たちの粗末な仕事着の下を、光り輝くルイ金貨がひそかに潜り抜け始めた。どこからともなく差し入れられる上質な麻布、傷を癒やす高価な軟膏、そして何よりもひとつの密約――サルペトリエールの冷たい巨壁とて、自由を渇望する女の冷徹な胆力を超えることなどできはしない、という確信が彼女に届けられたのである。
狂女の叫喚と絶え間なき閂の擦れ合う金属音が交錯する、凍てつくような暗渠の寝所で、まる一年が過ぎ去ろうとしていた。1787年の5月は、息の詰まるような酷暑とともに暮れてゆく。伯爵夫人はここで、決定的な盟友を得ていた。彼女の涙に心を打たれたのか、あるいはイギリスから届く莫大な報酬の約束に眩惑されたのか、監視役のマリアンヌがこの脱出謀略の中枢を担う歯車となっていたのである。さらに、その背後の黒幕は遥か高みへと連なっていた。リュクサンブール公爵やロアン家の側近たちが、フランス政治の盤上からこの厄介きわまりない証人を永遠に消し去るべく、水面下で糸を引いていたのだ。
ある宵闇のころ、ジャンヌの粗末な寝台の片隅に見知らぬ包みが一つ滑り込ませられた。中には、男物の太畝織りのズボン、粗野な水夫の上着、ごわついた布のクラバット、そして鍔の広い丸帽子が収められていた。脱獄の手筈は、夕刻の祈祷が終わり隣接する鉄格子が閉ざされるまでの、看守たちの見張りが最も弛緩する一瞬を狙って冷徹に組み上げられていた。決行の三日前から、ジャンヌは重病を装って毛布をかぶり、中庭での点呼に姿を見せない状態に監視たちの目を慣れさせた。看守長へ渡された十分な買収金により、監房の重い閂は、もはや第一の刻み目までしか掛けられていなかった。
1787年6月5日、人の影が崩れかけた古い城壁の石くれと見分けのつかなくなる、薄暮のあわいの中。ジャンヌは自らの髪を短く切り落とし、男装を身にまとった。傷だらけの胸郭の内側で、心臓が早鐘のように激しく鳴り響いている。マリアンヌの手引きのもと、眠りに落ちた大部屋を音もなく抜け、汚物と泥にまみれた静まり返る中庭をすり抜けて、彼女はサン=タントワーヌの中庭へと到達した。そこから監獄の役人たちの庭園へと通じる隠し扉は、共謀者の鍵によって軋み一つ立てずに開かれた。
行く手に立ちはだかるのは、最後の外壁のみであった。折しも改修工事のために足場が組まれ、低く掘り下げられた一角が、乗り越え可能な裂け目となって口を開けていた。伯爵夫人は身を躍らせ、棘だらけの茨と崩れた石骨に掌を切り裂かれながらも、瓦礫の山を足場にして虚空へと身を投げ出した。どさりと鈍い音を立てて、彼女の体はゴブラン大通りの湿った土の上へと着地した。自由の身となったのだ。それから一時間も経たぬうちに、彼女を乗せた雇い辻馬車は深い夜の闇を裂き、フランドル街道を一路北へとひた走っていた。やがてドーヴァーを渡り、ロンドンの地で自らの凄絶な告発手記を世に放つために。
翌朝、もぬけの殻となった監房が発見されるや、パリ高等法院と警視庁には雷霆のごとき激震が走った。サルペトリエールの受刑台帳には、傾きゆく絶対王政の頬を容赦なく張り飛ばしたこの脱走劇の顛末が、今なお恐るべき記録として刻まれている。身に二重の「V」を焼き付けられた稀代の女流冒険者は、自らの鎖を粉砕せんとする強靭な意志の前には、国王の築き上げた難攻不落の牢獄とて、脆く崩れ去る土塊の墓場にすぎないことを満天下に証明したのである。