La Maison ouvre ses portes en ligne — le catalogue s'enrichit chaque semaine→
Armes de la Maison BeaulieuMAISON BEAULIEUAB ÉDITIONS · CUISINE & LETTRES
『ヨーロッパの牢獄』第V巻 · マケ&アルボワーズ共著、1845年刊

シュピールベルク要塞

モラヴィア地方ブリュン(ブルノ) · オーストリア帝国(現チェコ共和国) · 18世紀~1830年頃(イタリア・カルボナリ党の獄囚)
「シュピールベルク要塞――オーストリアのバスティーユ。」『ヨーロッパの牢獄』第V巻
主な幽囚者
  • シルヴィオ・ペッリコ
  • コンファロニエリ伯爵
  • ポッロ伯爵
  • アレクサンドル・アンドリアン
  • オロボニ伯爵(当要塞にて獄死)
  • トレンク男爵(フランツ・フォン・デア・トレンク、通称「パンドゥール・トレンク」)
  • フランス国民公会代議員群:ラマルク、キネット、フーコー、ドルーエ
年譜考証
  • 19世紀ブリュンの谷を見下ろす「オーストリアのバスティーユ」シュピールベルク要塞の記録。厳罰獄(カルチェレ・ドゥーロ)の過酷なる獄制と徒刑囚衣の規定。
  • 1820年代コンファロニエリ伯爵の捕縛。シルヴィオ・ペッリコやアンドリアンらイタリア・カルボナリ党員の幽閉、オロボニ伯爵の非業の獄死。
  • 18世紀(要検証)パンドゥール・トレンクの収監、終身刑宣告と獄死(告解司祭を殺害ののち、自ら命を絶つ)。
  • 1795-1796年(要検証)要塞に繋がれていたフランス国民公会代議員(ドルーエ、キネットら)と、ルイ16世の遺児アングレーム公爵夫人マリー・テレーズとの捕虜交換。
叢書『ヨーロッパの牢獄』(全8巻、マケ&アルボワーズ原著)――フランス国立図書館(Gallica)の原典群より新たに校訂・解題を施した初の近代復刻版。近日公開。
📍モラヴィア地方ブリュン(ブルノ) · オーストリア帝国(現チェコ共和国)
← ピコーの足跡:総目録へ
🕯️ 夜話クロニクル · 欧州20大伝説監獄&フランソワ・ピコー調査録夜の読書 · 約6分

シュピールベルクの壁に埋もれし者たち――忘却の幾何学

ブリュンの凍てつく穹窿のもと、ハプスブルク君主国は拷問を官僚制の精緻なる極致へと仕立て上げ、イタリアの知性ある貴公子らをパンドゥールの怨嗟燻る石壁へと鎖し止めた。

モラヴィアの黒き巨巌

モラヴィアの夜には、他所の土地には見られぬ凄愴な気配が漂っている。それは煤煙と霜気を含んだ重い霧であり、スヴラトカ川の湿地帯から立ちのぼっては、ブリュンの町を逃れがたい経帷子のように包み込む。ウィーンを発った重厚な大型馬車がこの丘陵の麓に辿り着くころ、馬どもは本能的な恐怖にでも打たれたかのように、自ら足を止めたものであった。彼らの眼前に聳え立つのは、ほかならぬシュピールベルク要塞である。壮麗な宮殿でもなければ、栄光を誇る軍事要塞でもない。くすんだ煉瓦と石灰岩の粗朶が丘の頂に蹲るその姿は、あたかも生ける死者の墓場を睥睨する異形の魔物を思わせた。

ミラノやブレシアの華麗なサロンから狩り集められたカルボナリ党の若き貴族たち――イタリアの国事犯らにとって、過酷な長旅は常にこの要塞の南門の前で終わりを告げた。白いシャコー帽を戴いた番兵たちの冷酷な眼差しのもと、二度と戻ることのない者のためにしか下りぬ跳ね橋が軋み、精神の破滅を告げる最初の合図が響き渡る。シュピールベルクの入獄簿に刻まれるのは、生きた人間としての名ではなく、この世の記憶から抹殺されるための囚人番号にすぎなかった。上質な羅紗の衣服も、バティスト織の肌着も、衣服の裏地に縫い込まれた愛妻の肖像画も、インクに黄ばんだ指先を持つ出納官の前にすべて没収された。その代償として投げ与えられるのは、恥辱に塗れた囚人服であった。半分が灰色、半分が褐色に染め分けられた上着は、わずかな汗をかくだけで皮膚を擦り剝くほど粗野なサージ織で仕立てられ、粗末なズボンの両脇には足枷を通すための裂け目が口を開けていた。

「この敷居を跨ぐ者は、現世の空を仰ぐのもこれが最後と覚悟せよ。ここは皇帝が汝らに貸し与えたる呼吸の数すら厳格に計算し尽くす煉獄の門なり。」

かつて優美な詩句によってロンバルディアの栄華を歌い上げた詩人シルヴィオ・ペッリコが、かの不吉極まる1822年4月に足を踏み入れたのも、まさにこの無への前室であった。彼の背後で、鉄板を張った分厚い樫の扉が重々しい音を立てて閉ざされ、その青春の日々は永久の沈黙の中へと封殺されたのである。

「厳罰獄」の典礼

シュピールベルクには、中世の野蛮な拷問をも凌駕する冷徹な発明が存在した。すなわち、数学的精緻さをもって構築された制度――「厳罰獄(カルチェレ・ドゥーロ)」である。神聖にして使徒的元首たる皇帝フランツ1世に仕える技監らは、肉体が絶命することなく苦痛のみを極限まで引き延ばすために要する空気、パン、そして光の分量を毫毛に至るまで算出し尽くしていた。土牢は要塞の旧砲列壕のさらに底深くに穿たれていた。そこへ降り立つには、硝石でぬめりつく螺旋階段を手探りで進まねばならず、獄吏が掲げる松明の炎さえも酸素の欠乏に喘ぎ、いまにも消え入りそうであった。

盲目の狭間が穿たれた狭隘な通路の最奥に、暖炉なき独房の低い扉が潜んでいた。寝台もなければ、清潔な藁すらない。壁の二箇所の金具に渡された裸の樫の板が、ただ土間に向かって傾斜しているばかりである。壁には鍛鉄の環が固着され、そこから8ポンドの鎖が垂れ下がっていた。監獄の鍛冶師が護衛の伍長を従え、携帯用の金床と金槌を手に歩み寄る。囚人の足首に嵌められた環を鋲留めすべく、赤熱したリベットに槌が振り下ろされるたび、その衝撃は脊髄の芯まで響き渡った。囚人は寝床の木板に直接繋がれ、その鎖の長さたるや、汚水桶まで這って行くか、あるいは夜明けに差し入れられる生ぬるい白湯の椀に辛うじて手が届く程度に残されているにすぎなかった。

反抗的な態度を見せる者や、誇り高き精神を曲げぬ者に対しては、獄規によってさらに苛酷な「最厳罰獄(カルチェレ・ドゥリッシモ)」が科された。鎖はもはや板敷きにではなく、極端に短く壁の頑丈な横木に直結されたため、罪人は横臥することも直立することも許されず、身を折り曲げた異様な姿勢を強いられた。ときには両手までもが鉄の横棒によって固定された。日々の糧といえば、腐敗した蚕豆の煮汁と、壊血病に冒された歯茎を引き裂くほど酸敗した黒パンの半片のみであった。

パンドゥールの亡霊と壁の歌

シュピールベルクの空気には、かつてこの地で朽ち果てた先住者たちの陰惨な記憶がいまなお染みついていた。一世紀前、この暗渠で無残な最期を遂げたのは、フランツ・フォン・デア・トレンク男爵――畏怖すべきパンドゥール兵を率いた戦の猛獣であり、プロイセン全土を震え上がらせながらも、その凶暴性ゆえにオーストリア自身によって幽閉された稀代の武将であった。伝説によれば、トレンクの呪われた魂は今なお要塞の外岸を彷徨い、丘の麓のカプチン会修道院の地下納骨堂に残されたその白骨は、嵐の夜ごとに哨兵たちへ号令を下し続けているという。しかし、19世紀の殉教者たちは、夜盗まがいの人斬り包丁などでは断じてなかった。彼らは思想家であり、雄弁家であり、諸国民の自由を説く使徒であったのだ。

第十号房の中で、ペッリコは衰弱の極みにあった。止まらぬ咳に苛まれ、二色の囚人服に血の塊を吐き散らす日々が続く。しかしながら、帝国の厳命たる「絶対の沈黙」も、絶望が生み出した機知の前に破られる時が訪れた。自らの穴倉と隣室とを隔てる三フィートもの石壁の向こうから、ある夕暮れ、規則正しい擦過音と鈍い振動がシルヴィオの耳に届いたのである。それはヴェネツィアの潟湖から護送されてきた熱血漢の青年貴族、ルイージ・オロボニ伯爵であった。靴底から引き抜いた一本の錆びた釘を用い、オロボニは石を穿つように叩いていたのだ。一打は「A」、二打は「B」――こうして、地下墓地の暗号言語が産声を上げた。

幾月もの間、この二つの影法師は、互いの顔を一度も見交わすことなく、冷たい岩肌を通じて語り明かした。途切れがちな詩の断片、熱烈なる祈りの言葉、そして気高い魂の慰藉が壁を越えて行き交った。だが、モラヴィアの厳冬が大地を凍てつかせるにつれ、オロボニの刻む音は次第に遅く、間遠になっていった。1823年6月のある朝、隣室の男が一晩中激しく咳き込み続けた後、ペッリコの合図に応える音は途絶えた。詩人が冷酷な石壁に耳を押し当てると、聞こえてきたのは、看守補シラーが鳴らす不吉な鍵束の音と、湿り気味の敷石の上を引きずられてゆく粗末なモミ材の棺が立てる、重苦しい擦過音だけであった。

ウィーンの戴冠せる書記官

シュピールベルクの真の獄吏は、腰に鍵束を吊るした番兵などではなかった。その主は、遠く離れたウィーンのホーフブルク宮殿に座していたのである。毎週、ブリュンから早馬が仕立てられ、囚人たちの死への歩みを記した報告書がオーストリア皇帝のもとへと届けられた。重罪裁判所の書記官さながらの偏執狂的な細心さをもって、皇帝フランツ1世はみずから書類の狭い余白に注釈を書き込んだ。高熱に震えるペッリコに毛布一枚与えることを拒絶したのも、獄中のイタリア語聖書を取り上げ、代わりにドイツ語の難解な神学書を押し込めるよう命じたのも皇帝その人であった。足枷の口径を厳密に測らせ、結核を病む囚人たちが吐き出す痰の色について詳細な報告を求めたのも、ほかならぬこの君主であった。

ミラノの自由主義派の首領として最も警戒され、苛烈な尋問の末に死刑を宣告されながら終身禁錮へと減刑されたフェデリーコ・コンファロニエリ伯爵が、ついにシュピールベルクの落とし格子をくぐった際にも、皇帝はその独房の構造の細部に至るまで自ら指図を与えた。いっさいの人倫の交わりを断たれたこのロンバルディアの貴公子は、重い鉄鎖のもとで我が手足が麻痺してゆくのをただ見つめるほかなく、愛する妻からの手紙一通すら許されず、思いを書き留めるための一行の紙片さえ与えられなかった。

しかし、専制の徒は常に忘れているのだ。石壁は精神を窒息させることはできず、かえってそれを金剛石の如く研ぎ澄ますものであるということを。瀕死の状態で奇跡的に恩赦を勝ち取り、八年に及ぶ受難ののちに地下牢を出たシルヴィオ・ペッリコが手にしたのは、剣でも短剣でもなかった。彼は一本のペンを執ったのである。彼の手になる手記『我が牢獄』の刊行は、十の戦に敗れるよりも遥かに甚大な衝撃をもってハプスブルクの屋台骨を揺るがした。欧州の全土が、ブリュンの城塞の暗がりで何が冷酷に消費されていたのかを知り、戦慄した。シュピールベルクはイタリアの自由の墓場を築いたつもりでいた。だが、彼らが築き上げたものこそは、イタリアの自由のための、永遠にして不滅なる受難のゴルゴダの丘にほかならなかったのである。